シン・ニホンシ

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22.秀吉の朝鮮出兵と朱子学、陶磁器技術の発達

ここでは、秀吉の朝鮮出兵をキーワードとして、朱子学や陶磁器技術の発達についてとりあげる。

■秀吉の朝鮮出兵
教科書では年号や出兵したという事実程度のことしか紹介されていないように思う。
実際はどんなことがあったのだろうか。信長の死後、家臣であった羽柴秀吉は、山崎の戦い(1582年)で明智光秀を、賤ケ岳の戦い(1583年)で柴田勝家をで破って後継者となる。その後、関白(1585年)、太政大臣(1586年)となって「豊臣」姓を賜る。1590年には小田原の北条氏を破り、関東や東北を平定して天下統一を果たす。そして秀吉は朝鮮に2度の出兵を行う。一度目は1592年の文禄の役、二度目は1597年の慶長の役文禄の役では1か月弱で首都「漢城(現・ソウル)」を陥落させる。その二ヶ月後、小西行長が「平壌」まで進撃、加藤清正は現在の北朝鮮の最北部まで侵入する。しかし、明から朝鮮への援軍があり、決着はつかずに和議を結ぶ。その後の講和に行き違いが生じ、交渉は決裂する。そして再び1597年に出兵しますが、 秀吉が1598年に病死。日本軍は退却する。
■なぜ秀吉は朝鮮出兵を行ったのか。
文禄の役」後の和平交渉の内容から、その目的がかまいみえる。交渉時に提示した条件に「日明貿易の再開」があった。「東アジア交易の独占支配」を狙っていたとされる。また、大阪城に秀吉が愛用した「三国地図扇面」が残っている。そこには朝鮮と明の国割りが地図で示されており、これが秀吉の「大陸進出時のプラン」であったと考えられている。ほかにも、封建制として武将に恩賞として与える領地を獲得するため、
ということも当然あったと考えられている。ニ度に渡る戦いによって多くの戦費や兵力を費やし、大名や民衆にとって大きな負担となり、豊臣政権は没落します。一方で、
滞陣中の道案内人、食糧などの提供に協力してもらった農民、漁民、陶工職人など、
数万人の朝鮮人を連れ帰ったため、領内に定住・帰化した朝鮮人によって朱子学(儒学)(※1)や、陶磁器の技法(※2)を発達させることになった。
※1:朱子学
朝鮮王朝の官僚、姜沆(きょうこう)が捕虜となり、京都に幽閉。藤原惺窩(せいか)と交わり、朱子学を伝えた。主著「睡隠集」の中で日本の内情、自身の捕虜生活が記されている。朱子学儒学を発展させてまとめ直したもの。江戸幕府封建制度の維持にふさわしい学問として奨励、武士や学者の間で広まった。
※2:陶磁器の技法
朝鮮人による陶磁器の技法は有田焼(佐賀県)、萩焼(山口県)、薩摩焼(鹿児島県)を発達させる。

写真は有田焼(現代)

 

<参考>
・改訂版 中学校の歴史が1冊でしっかりわかる本
なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
文禄・慶長の役 - Wikipedia
学芸の小部屋 -戸栗美術館-
姜沆とは - コトバンク