シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

24.ヨーロッパの絶対王政の確立と植民地争奪戦

大航海時代を迎えたスペインやポルトガル新興国となるオランダ、そしてイギリス。
日本は当時の覇権国の影響を、宗教や貿易を通じてことごとく影響を受けていくことになる。

■ヨーロッパは絶対王政、植民地争奪戦へ
大航海時代以後、ヨーロッパは絶対王政、植民地争奪戦を展開していきます。のちの19世紀末頃の帝国主義時代を理解するうえで、理解必須の時代です。
まず、ヨーロッパは封建制にとってかわり、16~18世紀、各国で国王が強大な力で統治する「絶対主義(絶対王政)」という政治の形態がとられていくようになります。

封建制
ここで、封建制を復習します。封建制は、諸侯を封じて土地と人民を与え、
その代わりに諸侯は君主に対し戦をしたり、兵役を行ったりといった主従関係で成り立つ制度です。貨幣経済が成り立っていなかった時代のシステムです。

■日本における封建制
日本での封建制度を流れで見ていきます。封建制度にも時代によってその方法が変遷していきます。鎌倉時代は将軍と御家人の間で、御恩と奉公が成り立っていましたが、元寇により崩壊します。室町時代は将軍と守護大名の間で、封建制度が成り立っていましたが、守護大名のほうが力が強くなり、下剋上が起きました。嘉吉の乱と、応仁の乱で崩壊します。江戸時代は幕藩体制です。幕府と、全国を藩にわけて管理していきます。
藩をさらに親藩・譜代・外様の3タイプにわけて管理します。親藩は、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩です。譜代は、関ケ原前から徳川家に臣従して取り立てられた藩です。外様は、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川家の支配体系に組み込まれた藩です。日本では、このように封建体制も変遷していきましたが、明治維新で封建体制は崩れます。

■ヨーロッパにおける封建制度
一方、ヨーロッパでは。強大な力を誇ったローマ帝国ゲルマン民族の大移動の影響を受け、395年に東西に分裂、西ローマ帝国は476年に滅亡します。なお東ローマ帝国(ビザンツ帝国)も約1,000年ほど続いたのち1453年に滅亡します。ローマ帝国という盾を失った諸侯らは、異民族からの侵攻や他国との争いから、自分たちの土地を守る必要に迫られます。このとき、皇帝、国王、諸侯、騎士、聖職者などの有力者の中で、封建的主従関係を結ぶようになります。荘園制によって農民が領主に対し、畑の耕作の他、家畜の放牧、機織り、運搬などの義務を負っていました。しかし、貨幣経済の浸透によって裕福な農民が増え、封建制が崩れていきます。このような流れの中、絶対王政が登場します。

教皇
まず教皇権という考え方があります。使徒ペテロの後継者としてのローマ教皇が持つ、
カトリック教会を管理し、信徒を指導する最高司牧権です。ローマ帝国の崩壊により衰えていきます。

■王権神授説
つぎに、王権神授説という考え方があります。ヨーロッパの絶対王制国家の権力は神から授かったものとする政治思想です。フランスの法学者・経済学者ジャン・ボダンが16世紀に唱えたものです。16~18世紀の各国で、国王が強大な力で統治する絶対主義(絶対王政)という政治体制がとられ、君主主権となっていきます。

■覇権国の移り変わりと植民地争奪戦
レコンキスタ以後、スペイン、ポルトガルが領土を拡大していきます。スペインは1571年にレパントの海戦オスマン帝国を破ります。さらに1580年には衰退したポルトガルを併合、植民地も獲得します。しかし、そんなスペインも1588年、アマルダの海戦でイギリスに敗北。スペインから独立を果たしたオランダに取って代わられます。17世紀にはオランダは中継貿易を通じて経済的に急成長、南アフリカインドネシアなどを植民地化し新たな覇権国となります。なお、日本では1609年にオランダに朱印状を発行、通商関係を開始します。そのオランダも17世紀後半の3度に渡る英蘭戦争でイギリスに敗北します。そして18世紀、イギリスはフランスとの北米での植民地戦争に勝利、植民地帝国となります。イギリスと日本の関りとしては東インド会社が平戸に商館を設置したのは1613年です。またフェートン号事件が発生したのは1808年、江戸幕府が外国船打払令を出しイギリス軍艦を警戒したのは1825年のことです。
<参考>
北米植民地戦争 - Wikipedia
英蘭戦争 - Wikipedia
外務省: わかる!国際情勢 Vol.29 オランダ~日蘭通商400周年
日英関係 - Wikipedia
フェートン号事件 - Wikipedia