シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

27.ペリー来航と日本に迫っていた英仏露進出の影

ペリー来航によって日本は日米修好通商条約を結ぶことになる。そこに至った背景はどのようなものだっただろうか。清とイギリス、フランスとの戦争、そして日本とアメリカとの関係を見ていく。

■イギリスと清のアヘン戦争(1839-1842)
 ヨーロッパ諸国は産業革命を起きたことで、これまで以上にアジアに対して軍事的に優位な状況に立った。軍事力で支配して植民地化し、市場の独占を行おうとした。こういった政治と経済政策は「帝国主義」と言われている。イギリスは清との間で貿易赤字を抱えていた。清はイギリス製の綿織物を輸入しなかった。そこでイギリスはインドに対しては綿織物を輸出する。一方、イギリスは清からはお茶を買うようにした。そして、インドから清に対してアヘンを密輸させてお金を稼ぐという「三角貿易」を行うようにした。こうしてイギリスは莫大な利益を得た。アヘンの蔓延に清は困ったことになる。清は取り締まりを強化する。アヘンの禁輸を実施、そしてイギリス商人に対しアヘンを没収、処分を行った。これに対してイギリスは反発、戦争となった。これがアヘン戦争と呼ばれる。結果、清はイギリスに敗れた。いつ日本にも向かってきてもおかしくない状況となった。

■ペリー来航と鎖国体制の終焉
アヘン戦争で清が敗れたことで脅威を感じた日本は「天保の改革(1830-1844)」を実施する。まずは経済対策として財政の引き締め、物価の抑制、農村の復興などを行う。そして外交政策として異国船打払い令を廃止した。しかし改革はうまくいかず不景気となり失敗した。1853年にはアメリカの使節ペリーが軍艦を率いて浦賀(神奈川県)にやってきた。アメリカも中国との貿易を行いたく貿易のための経由地として、太平洋を横断するための港が欲しかった。圧倒的な武力差を感じた日本はアメリカとの争いを避けるため、ペリー来航の翌年、日米和親条約を結んだ。結果として下田(静岡県)、函館(北海道)の2港を開いた。これで鎖国体制は終焉を迎えた。

■総領事ハリスの来航と下田協約
アメリカは日米和親条約を結んだが、貿易ができる「通商条約」はまだ盛り込めていなかったた。そこでアメリカはハリスを送った。1856年7月、初代アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが、サン・ジャシント号にて下田に来航する。領事とは外国にて自国の通商を促進したり自国民の保護や取締りを行う人。幕府は領事の駐在を拒否する。しかしハリスの強硬な主張に押されて柿崎の玉泉寺を仮の宿所とすることに同意する。幕府は懸命に通商条約の交渉を引き延ばそうとする。しかし1857年5月、ハリスと下田奉行との間で「下田協約」を締結する。これがのちの通商条約のさきがけとなった。

■アロー戦争
中国ではアヘン戦争後、広東(広州)で外国人排斥運動が盛んになる。そのような中で1842年に「広州英国商館焼き打ち事件」が起こる。そして1856年、アロー号拿捕事件が発生する。アロー戦争とはこのアロー号拿捕事件を象徴的な事件とし、その後の戦争を含めて呼ぶ一連の呼称。イギリス船籍を名乗る中国船アロー号に対して清の官憲は検査を実施する。清人の船員12名を拘束しそのうち3人を海賊の容疑で逮捕する。これに対し当時の広州領事ハリー・パークスは抗議する。しかしこれは清にとっては合法で、言われのない言いがかりだった。この事件をきっかけとし、清とイギリス・フランス連合軍との間で戦争が起こる。これがアロー戦争(1856年-1860年)である。アヘン戦争の続きとして「第二次アヘン戦争」とも呼ばれる。

日米修好通商条約
 日本ではアロー戦争時の1857年7月20日、下田に米砲艦ポーツマス号が入港する。
その後ハリスの江戸出府が認められる。ハリスとの間で日本の要人との会談が行われる。その中では中国の情勢や、英国の香港総督による「武力による日本開国」の公言があったことなど日本の危機を説いた。幕府ももはやこのような状況の中では「条約締結やむなし」と判断、条約交渉に入る。1858年1月、交渉は妥結まで至った。しかし天皇の許可である「勅許」が得られなかった。天皇を始めとする朝廷は納得しておらず合意に至れなかった。同1858年6月13日、下田に米艦ミシシッピ号が入港。ここで英仏両国が日本に進攻するとの情報を伝令する。危機を感じた大老井伊直弼は通商条約の締結を決断する。同1858年6月19日、小柴沖(横浜市)のポーハタン号の艦上において「日米修好通商条約」および「貿易章程」が調印される。この条約により函館、横浜、長崎、新潟、神戸の5港を開港し日米間で貿易を行うことが決定された。しかしこの条約は不平等な条約だった。何が不平等かというと1つは領事裁判権を認めていること。外国人が罪を犯した際、在住国の裁判ではなく本国領事により、本国法のによる裁判を受けるというもので治外法権にあたる。商人が悪事を行っても領事が判断してしまうことになる。2つめは日本の関税自主権がないこと。関税をかけられないので良くも悪くも言い値でどんどん外国のものが入ってくる。

■日本とロシアの2つの来事
一方、アメリカだけではなく、ロシアも日本との貿易と進出を狙っていた。2つの象徴的な出来事があった。
ラクスマン来航
 ロシア使節ラクスマンが1792年、通商を求めて根室に来航する。その際、江戸湾への入船を要求した。その後、幕府は江戸湾および北海道(当時の蝦夷が島)の防衛を強化した。
・ゴローウニン事件
1811年、ロシア軍艦艦長ゴローウニンが日本側に捕らえられ監禁される。千島列島を測量中、国後島に上陸したため、日本側の警備兵が捕らえた。翌年にロシア側は商人・高田屋嘉兵衛を抑留する。

アメリカペリー来航はロシアやイギリスの間隙をぬったもの
海外進出に向けた不凍港を狙っていたロシアは1853年、オスマン帝国との間で争いが起こり、クリミア戦争が勃発する。警戒したイギリス、フランスはオスマン帝国側に入って参戦する。戦争は3年続き、ロシア側が敗北する。この戦争によりロシア、イギリス、フランスは対東アジアへの進出政策に後れを取った。そのような、間隙を縫う形でアメリカは1853年ペリーを日本に派遣した。

<参考>
・オール図解カラー 流れがわかる日本史
日本における初代米国総領事ハリス | 下田市
日米和親条約 - Wikipedia
アロー戦争 - Wikipedia
高田屋嘉兵衛 - Wikipedia