シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

28.開国の影響と尊王攘夷から倒幕に転じた理由

開国後、1859年7月から横浜、長崎、箱館の3港で自由貿易が開始される。しかし貿易の発展が国内経済に大きな影響を与え庶民や武士たちに不満が高まる。結果、攘夷運動から倒幕運動へと転じていくことになる。

■日本と欧米の金銀通貨の交換比率の違いで金貨が海外に流出
 内外通貨の同種同量交換規定は日本は金1:銀5、欧米は金1:銀15であった。つまり、日本は金に対する銀の価値を欧米よりも重くおいていた。
 諸外国はこれに目をつけた。まず自国の銀貨を日本に持ち込み、それを金貨に変えて自国に持ち帰る。そして自国で金貨を銀貨に変える。すると約3倍の銀貨を入手することができることになる。 
 幕府はこの事態に対処するため、1860年に金貨の品質を下げる「万延貨幣改鋳」を行った。しかし、これが貨幣価値の下落を招き、物価が急激に上昇(インフレーション)し、庶民の生活を圧迫する。また幕府・藩財政や家臣団も窮乏した。開国からの貿易に対する反感が高まり、攘夷運動が盛んとなる一因となった。

安政の大獄吉田松陰の死
 大老井伊直弼日米修好通商条約を強行した。それが孝明天皇の怒りを買っていた。井伊直弼は反抗する公家や大名を抑え、その家臣たちを処罰した。これが安政の大獄(1858年-1859年)である。これにより吉田松陰が死刑となる。

桜田門外の変坂下門外の変 
 1860年安政の大獄に憤慨した水戸脱藩の志士たちは江戸城桜田門外で井伊直弼を暗殺した。桜田門外の変である。井伊直弼の後に幕政を継いだのは老中・安藤信正だった。1862年、水戸脱藩士安藤信正を傷つけた。安藤信正は老中を退く。これが坂下門外の変である。
 天皇を尊びその権威に重きを置くという「尊王論」が高まっていた。 そして外国人を打払い、排斥せよという「攘夷論」が高まってきた。この2つが結びついて「尊王攘夷論」という思想へと発展する。幕府は孝明天皇の妹・和宮を14代将軍・徳川家茂の妻に迎え、朝廷(公家)と幕府(武家)で協力する「公武合体策」を進める。一方で長州藩を中心とした尊王攘夷運動の激化により、外国人殺傷事件となる生麦事件や薩英戦争などが起きていく。

■攘夷は非現実的との認識に至った事件 ~生麦事件、薩英戦争、馬関戦争とは~
生麦事件
 1862年8月、薩摩藩主・島津久光の行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺傷した事件が発生する。

薩英戦争
    1863年8月、イギリスは生麦事件の解決と補償を迫った。しかし薩摩藩は要求を拒否し、薩摩藩兵が鹿児島湾で激突する。薩摩藩側は鹿児島城下の約1割を焼失する。イギリス軍も旗艦「ユーライアラス」の艦長、副長が戦死、軍艦の大破が1隻・中破が2隻などの損害を被る。このようななかで薩摩藩とイギリスは薩英戦争を通じて、双方にお互いを知ろうとする機運が生まれていく。薩英戦争が両者が接近するきっかけをつくった。

馬関戦争
 長州藩尊王攘夷運動の中心的存在であった。孝明天皇が攘夷を唱えており、長州藩は幕府にも攘夷を迫った。1863年5月、長州藩は馬関海峡に砲台や軍艦を配備し、下関の海峡を通る米・仏・蘭船を砲撃した(下関外国船砲撃事件)。同年7月、アメリカ軍艦は報復のため馬関海峡に侵入し長州藩の軍艦を撃沈。フランスの軍艦2隻も襲来し、陸上の砲台を破壊した。しかし長州藩奇兵隊を結成し海峡の封鎖を続けた。イギリス駐日公使・オールコックは海峡の封鎖が続いたことや、攘夷論により開国政策が後退することを恐れた。そしてフランス、オランダ、アメリカとともに下関を攻撃することを決意する。1864年8月、四国連合軍は17隻の艦隊を組織し、砲台を攻撃、陸戦隊を上陸させて占領する。長州軍は欧米の近代兵器の前に完敗した。

その他:兵庫開港要求事件
1865年11月、イギリス・フランス・オランダの連合艦隊が兵庫沖に侵入する。その軍事力を背景に安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫る。アメリカは艦隊を派遣しなかったものの、公使が同行していた。

■攘夷から倒幕への転換
   薩英戦争、馬関戦争といった軍事衝突の結果をふまえて、軍事力を誇る欧米列強に対して攘夷は非現実的との認識に至った。薩摩藩長州藩は方針を転換、国難を乗り切るためには倒幕が必要と考えるに至る。薩長は歩み寄りをみせていくようになる。

■英国の駐日公使としてハリー・パークスが着任
 1865年9月、英国の駐日公使として新たにハリー・パークスが着任する。パークスは長州の高杉晋作伊藤博文と会談する。1866年には米仏蘭とともに幕府と改税約書に調印する。パークスは幕府が無力であることを悟り、天皇を中心とする「雄藩連合政権」の実現を期待するようになる。また、武器商人・トーマス・ブレーク・グラバーの仲介もあり薩摩藩土佐藩を訪問し薩長和睦のために尽力した。
以上より、攘夷が不可能であることを見抜いた人々により倒幕への動きが強まっていった。

■雄藩連合政権とは?
 佐幕派(幕府を補佐する派)にとっては幕府の生存戦略構想として、公武合体派(朝廷・公家と、幕府・武家が協力)にとっては新たな政治体制の1つとして唱えられた公議政体論。

 
<参考>
・ハンドブック 日本史の要点整理
・改訂版 中学校の歴史が1冊でしっかりわかる本
開国 | 日本大百科全書
下関戦争(馬関戦争)
ハリー・パークス - Wikipedia
トーマス・ブレーク・グラバー - Wikipedia