シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

29.パークスも描いた雄藩連合、志士たちの時代精神が明治維新を結実させる

攘夷は難しいとの思いに至った明治の志士たち。その解決策として「雄藩連合」を選択します。ハリーパークス、竜馬らのサポートもあり、ついに薩長同盟が成立する。

薩長同盟・1866年
仲の悪かった薩摩藩長州藩ですが、攘夷によって国を守っていくことは困難である、
との認識に至るようになりました。それからはお互いが歩み寄っていくようになります。土佐藩出身の坂本龍馬らが仲立ちし「薩長同盟」が結ばれます。そして「雄藩」と呼ばれた薩長土肥などにより倒幕を目指すようになります。ハリー・パークスも描いた「雄藩連合政権」が現実化していきます。

 誰もが願った構想ではありますが、実際問題、犬猿の仲同士の藩が手をつなぐということは難しいです。自分や藩の利害を超えた時代精神「この国を守りたい」という思いの強さ、尊王や攘夷など様々な方法論を試した中での「攘夷が困難」との決定的な状況、そして竜馬やパークスのような有力者による「仲介者の後押し」、
この3つがそろったのでしょう。

大政奉還・1867年
 将軍・徳川慶喜は、天皇の元で大名を招集して会議を開き、自分は議長として実権を維持し続けることができると土佐藩から提案を受けます。それに同意した慶喜は政権を朝廷に返上します。これが「大政奉還」です。

王政復古の大号令・1868年
大政奉還後の政権維持を描いていた徳川慶喜でしたが、その目論見は外れることになります。朝廷は幕府、摂政、関白をなくします。そして、天皇を中心とする新政府を立てるため、「王政復古の大号令」を出します。王政復古とは「幕府と藩からなる共和政型」の政治体制から「天皇中心の王政に戻した」ということです。これにより、天皇が直接政治を行えるようになります。直接的な権力が振舞えるので、従来の幕府よりも実態は雄藩のが強く、結果としてまとまりが悪く硬直しまっていた支配構造から脱却することができます。また、全国からの優秀な人材を登用、そして幕府の領地没収を取り決めた。これは当然、大きな反発を招くことになります。

戊辰戦争・1868年-1869年
 旧幕府軍王政復古の大号令の内容に納得することができませんでした。旧幕府軍と、薩摩・長州・土佐藩らを中核とする新政府軍との内戦が始まります。その初戦が京都の鳥羽・伏見から始まります(鳥羽・伏見の戦い)。いくつかの戦いを重ね、結果、五稜郭の戦いの降伏(1869年)をもって新政府軍が勝利、旧幕府軍は敗れます。ちなみに戊辰戦争の「戊辰」とは、戦争の起こった慶応4年・明治元年の干支が戊辰であったこと由来して名付けられたものです。

■五カ条の御誓文・1868年
 戊辰戦争の最中、新政府や天皇は公家や大名とともに神々に誓う形をとりました。五カ条の御誓文という、基本方針を発表します。また、江戸を東京に改称して政府を移しました。元号を慶応から明治へと改めました。
 ※↓下記にて五カ条の御誓文の内容が明治神宮より公開されている

www.meijijingu.or.jp

※東京へ向かう明治天皇の一行の様子が月岡芳年・「武州六郷船渡図」によって描かれている↓

ja.wikipedia.org

■感想
「五カ条の御誓文」にも「十七条の憲法」の中にも、意見をまとめるときのルールの条項が入っています。当時も意見を出す際、なかなかまとまらなかったのでしょう。 あるいは独断的に決められてしまい、よりよく知恵を出し合うようなディスカッションが難しかったのでしょうか。互いの意見を出し合い、集約していくプロセスの組み込みや、合意形成に苦心していたのかもしれません。そして一堂に会して、セレモニー型でみんなを集めて、そのうえで声に出して誓うというスタイルは、まとまりのあるチームづくりとし必要な式典だったのではないでしょうか。

廃藩置県1871年
 新政府はかつて天皇が国を治めていた律令体制のような国づくりを理想とします。律令体制は奈良時代に唐の法律をもとに仕組み化したもので、朝廷(政府)と、各地には中央から派遣された役人とともに、地方から登用した役人と一緒に地方を治める仕組みです。幕府の領地や戊辰戦争で敵となった藩の領地を没収して府や県を置きました。しかしそれ以外の藩ではまだ大名が支配を続けていました。そこで中央に「太政官」という機構をつくり、そこに権力を集中させました。さらには「中央集権国家」にしようとします。中央集権国家とは、統治権、財源が国の中枢機関に集中している体制です。当時は徴税徴税や軍を動かす権利を藩主が持っていたため、 政府の権限が弱かったのでした。 そこで藩を無くして地方の権利を減らし、政府が直接支配して中央に権限を集中させようとしたのでした。1869年、明治政府は諸大名から領地(版図)と領民(戸籍)を天皇に返上させます。これが版籍奉還です。これにて藩における大名と家臣の主従関係が解消されました。さらに1871年、藩をなくして府と県を置き、中央政府から地方官となる府知事、県令(県の長官。今でいう県知事。)を送る「廃藩置県」を行いました。

明治維新
江戸時代から明治時代にかけての政治や社会、経済を近代化しようとして進められた一連の改革を総称して「明治維新」といいます。明治維新のご認識としてあげられることを列挙します。

明治維新は無血革命と言われている
 大政奉還時、江戸城無血開城時は大きな争いはありませんでした。しかし、薩長同盟に至るまでや、戊辰戦争を含めると多数の血は流れている。

愛国心のある志士たちが革命を行った? 
 明治維新で活躍した志士たちは、単なる武士ではありませんでした。「武士」+「資本家」+「交易商人」の属性を持っていた、単に力や腕によって周りから認めれていたというような方たちではなく、財力を持ち、それなりに立ち振る舞いなど育った家庭環境の中から必然とリーダーシップを発揮できていたようなタイプの家庭環境、能力、財力をもっていた方々が多いです。ゆえに、単に「攘夷」「倒幕」の意志を持てば「志士」となったというわけではなく「育ち」も大きく関係しています。 旧勢力となる藩主を超えて活躍できるくらいの力量のある方々ですから。育ち、そして生まれた後の本人の努力が大事です。

③ペリー来航によって外国に対する脅威が高まり開国を行った?
 鎖国時代もオランダ、中国、蝦夷琉球などの海外との交流は行われていました。 開国はポルトガル人の種子島漂着のあった1543年頃をから始まっているとみるべきとの指摘があります。

<参考>
・改訂版 中学校の歴史が1冊でわかる本
・99%の日本人が知らない明治維新の大嘘 三橋貴明