シン・ニホンシ

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42.満州事変、なぜ政党政治が崩壊し軍部の暴走を招いたのか?

政党政治が崩壊し、軍部が暴走していく。そして満州事変はなぜ起きたのか。どのような過程があったのだろうか。
第一次大戦後に経済が不況になる
・協調外交の展開
政党政治
世界恐慌
ブロック経済
・ロンドン海軍軍縮会議
満州事変
五・一五事件
・ニ・二六事件
・盧溝橋事件から日中戦争へ発展

第一次大戦後に経済が不況になる
 まず第一次世界大戦(1914年-1918年)で日本経済は成長した。その理由はイギリス、フランス、ロシアの軍需品の注文が相次いだからである。製造業のほかにも造船業、鉄鋼業、化学工業、繊維業などの業種で伸長がみられた。

 しかし、第一次大戦後、経済状況が一転する。復興したヨーロッパの製品がアジア市場に復活した。日本の商品は売れなくなってしまう。輸出が振るわなくなり、1919年には輸入が輸出を上回る「輸入超過」に陥った。

1920年には株式市場が暴落する。株価が半分から1/3にまで下落し戦後恐慌に陥った。主力の綿糸や生糸の価格が1920年には半値以下にまで暴落してしまう。

ここに災害が追い打ちをかける。1923年には関東大震災が発生した。死者・行方不明者は10万人以上にのぼった。

■協調外交の展開
 ワシントン会議1921年-1922年に開かれた。史上初の国際軍縮会議となった。参加国は計9か国。日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中国、オランダ、ベルギー、ポルトガル、太平洋と東アジアに権益のある国々である。なお、ソ連は会議に招集されなかった。日本の中国への独占的な進出の抑制が行われた。

また、ワシントン会議にて1921年12月、アジア・太平洋地域の勢力関係が変化し、相互の権利尊重と現状維持を調整するため、大戦の戦勝国であるアメリカ、イギリス、フランス、日本の間で四カ国条約(しかこくじょうやく)が結ばれた。米英間の緊張を解除のためにも、日英同盟は破棄(更新しなかった)された。

これより、第一次世界大戦後アジア太平洋地域の秩序を定めた。日本はその後、日本の大陸進出を制限する「協調外交」を展開する。

政党政治
 初の本格的な政党政治を行った首相・原敬(立憲政友会)であったが、1921年に暗殺された。1924年には加藤高明内閣(憲政会)が発足した。以後8年間は憲政会(のちに立憲民政党)と立憲政友会が交互に内閣を組織する政党内閣時代が続いた。しかし、政党政治は十分に機能していなかった。第一次世界大戦後の不況に対し、政府は有効な対策を打てないままでいたからだ。

世界恐慌
今度は1930年前後、アメリカから世界恐慌が発生した。これが日本にも影響する。特に日本では1929年2月に金本位制に復帰したばかりであった。輸出が減少して輸入が増加、輸入超過となる中で正貨が海外へと流出する。正貨とはそれ自身で額面と同じ値打ちをもつ。金や銀貨のこと。ますます経済は混迷した。二大政党はお互いの政治の失敗を非難しあうが、対策を打てないままであった。

ブロック経済
 世界恐慌を経てイギリス、フランス、アメリカで「ブロック経済圏」が進んだ。 ブロック経済圏とは「同じ通貨」を持つ国々で「ブロック」をつくるというもの。ブロック内の国には関税を低くする。そうすることで、貿易を促進することができる。ブロック外の国には関税を高くする。これにより、需要が外部に流出することを防ぐことができる。ドイツ、イタリア、日本は広大な植民地を持たなかった。経済の悪化と、ブロック経済で封じられた局面を打開するため、軍事行動に頼らざるをえなくなってしまった。ブロック経済は、第二次世界大戦を招く一因になった。

■ロンドン海軍軍縮会議
 ロンドン海軍軍縮会議が1930年に開かれた。日本政府はこの条約に調印した。しかしこれに一部のマスコミや野党で批判が起きる。条約の批准の過程や結果に対する批判である。まず、軍縮が希望の削減量でなかったこと。そしてフランスのような部分参加としなかったこと。また、条約批准の過程において野党・立憲政友会より「憲法違反ではないか」という意見があがった。天皇統帥権である「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」に対して、条約批准の過程で天皇の承認を得ずに兵力量を決定したことが「憲法違反」であるというものであった。「統帥権干犯問題(とうすいけんかんぱんもんだい)」が提起された。

 条約の調印を進めた首相・浜口雄幸が右翼青年に狙撃され、死亡した。長引く大不況によって企業倒産があいついだ。失業者が増加し、農村では貧困によって疲弊した。 

陸海軍の青年将校たちは、日本が閉塞している理由が政党政治が裕福層を守っているからだ、とみて政党政治を敵視するようになる。やがて青年将校たちは「協調外交」を批判しはじめる。これが彼らの正当性の根拠、実力行使を招く結果となり、軍部が暴走、テロが頻発していく。

満州事変
1931年、陸軍の在中国部隊である関東軍が、政府や軍首脳の許可を得ず、独断で軍事行動を起こした。奉天郊外の柳条湖(りょうじょうこ)で、南満州鉄道が爆破された。これは関東軍の謀略であった。しかし、関東軍は「中国国民軍に属する張学良軍の犯行である」とし、軍事行動を拡大した。これをきっかけに関東軍満州を占領した。これが満州事変である。翌年1932年には満州国を建国した。国際連盟満州国を認めなかった。これをきっかけに日本は1933年、国際連盟から脱退した。満州国の建設は、日本の中国での進出を抑え込むという「ワシントン体制」を崩壊させた。

五・一五事件
1932年5月15日、海軍青年将校らが、首相官邸ほか主要施設を襲撃した。首相・犬養毅が殺害される事件が発生した(五・一五事件)。軍の暴走を抑えることが必要だった。

後継の首相には海軍出身で穏健派の、退役海軍大将・斎藤実を選出した。軍政となってしまう。政党政治憲政の常道が崩壊した。ちなみに、憲政の常道とは、衆議院で第一党になった政党党首が内閣総理大臣となって組閣し、政権を担当する、という慣例をいう。

■ニ・二六事件
1936年2月26日、陸軍・皇道派青年将校たちが軍部政権樹立を目指し、首相官邸などを襲ったクーデター未遂事件が発生した。元首相・斎藤実内大臣高橋是清・大蔵大臣らを殺害し、4日に渡って国会などを占拠した。クーデターは鎮圧された。しかし、もう軍部の暴走を止めることはできなくなっていた。

以下にて、大日本帝国当時の「陸軍」と「海軍」の派閥をまとめた。

陸軍
 - 皇道派: 天皇親政の強化、財閥規制などの政治へ不満を持った派閥。出身者には陸軍大学校(陸大)はほとんどいなかった。

- 統制派:軍内の規律統制を尊重する。陸大出身者が主体であった。

海軍

 ロンドン海軍軍縮条約締結によって生まれた対立構造。

 -  艦隊派軍縮条約に敵意を持つ。
 - 条約派:条約妥結やむなしとする。

■盧溝橋事件から日中戦争へ発展
 1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した。どちらともわからない発砲音が聞こえたことをきっかけとした偶発的な衝突とされる。しかし、これを口実として衝突を起こし、日本軍は全面戦争に突入していった。日中戦争は~1945年8月まで続いた。

<参考>
・流れがわかる日本史
・日本史の要点整理
・地図でスッと頭に入る日本史
ワシントン会議 (1922年) - Wikipedia
四カ国条約 - Wikipedia
憲政会 - Wikipedia
立憲政友会 - Wikipedia
世界恐慌 - Wikipedia
金本位制 - Wikipedia
ロンドン海軍軍縮会議 - Wikipedia
統帥権干犯問題とは - コトバンク
濱口雄幸 - Wikipedia
満州事変
満洲国 - Wikipedia
五・一五事件 - Wikipedia
憲政の常道 - Wikipedia
二・二六事件 - Wikipedia
盧溝橋事件
日中戦争