シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

54.東西冷戦が日本にもたらした影響と国際連合への加盟

第二次世界大戦後、国連が成立し、戦勝国スキームの中で世界は国際協調を目指していく。戦争を回避する一方、「冷戦」と呼ばれる、新たなアメリカとソ連の対立軸を生んだ。日本は、この冷戦下の対立軸の中で、必要とされ、国際社会へと復帰を遂げることになる。次の流れで見ていく。
・冷戦とは
・マーシャルプランとNATO
ワルシャワ条約機構
キューバ危機
・朝鮮への影響
・中国への影響
・アジアでの独立の動き
・サンフランシスコ講和会議
・日ソ共同宣言と国際連合への加盟

■冷戦とは
アメリカ」を中心とする資本主義陣営と、「ソ連」を中心とする社会主義陣営が対立した。両者は自分たちの陣営に各国を引き入れる作戦を繰り広げた。この対立が「冷戦」、冷たい戦争である。

■マーシャルプランとNATO
 アメリカは、カナダや西ヨーロッパ諸国へ援助を行い、復興を支援した。その支援策を「マーシャルプラン」という。提唱者の国務長官ジョージ・マーシャルの名前に由来する。正式名称は欧州復興計画(ERP:European Recovery Program)である。また、ソ連側の勢力を抑えるために1949年にNATO北大西洋条約機構という軍事同盟をつくった。

ワルシャワ条約機構
 一方、ソ連側はどうであったか。ソ連は1949年、東ドイツ(ドイツ民主共和国)を独立させた。1961年にはベルリンの壁もつくられた。この東西の分断は「ベルリンの壁崩壊」の1989年まで続いた。
ソ連NATOに対抗するため、「ワルシャワ条約機構」という軍事同盟をつくった。1955年に始まった。ソ連が崩壊する1991年まで続いた。

キューバ危機
 1962年にはキューバ危機が発生した。ソ連キューバへミサイルを配備したため、 アメリカはキューバ海上を封鎖した。これに対してソ連は艦隊を派遣したため武力衝突の危機が迫った。これは前年・1961年のベルリンの壁に続く東西冷戦での大きな危機となった。双方とも核兵器の使用の可能性があった。しかし米ソ首脳の交渉により回避された。それまでアメリカとソ連核兵器の開発を競争していた。しかし、この危機をきっかけとし、核兵器の削減につながっていった。

■朝鮮への影響
 冷戦の影響は、アジア地域にも及んだ。北緯38度線を境に、国がアメリカとソ連によって分かれることになった。南側はアメリカが占領。1948年8月15日に韓国(大韓民国)が成立した。北側はソ連が占領。1948年9月9日に北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)が成立した。両国は対立を深めた。

■中国への影響
 一方、中国では。蒋介石の「国民党」と、毛沢東の「中国共産党」との間で内戦が発生する。1949年、共産党(民衆が支持)が国民党軍(アメリカが援助)を破って、中国(中華人民共和国)が成立した。敗れた国民党は、台湾へと逃れた。なお、アメリカは現在もこの「国民党」を中国の代表政府として支持するというスタンスをとる。

■アジアでの独立の動き
 欧米諸国の植民地であったアジアの各地で独立運動が激しくなった。インド、フィリピン、インドネシアパキスタンなどが独立した。ベトナムでも独立宣言がなされた。しかしこれをフランスが認めず、インドシナ戦争が起きた。

ベトナム1884年にフランスの保護国となっていた。
 植民地と保護国は次のような違いがあるが、実態はほぼ同じである。
 植民地:主権を完全に失いあらゆる面で支配下に置かれる形態。
 保護国:軍事、財政、外交権等を宗主国に奪われるが保護下におかれる。

■サンフランシスコ講和会議
 アメリカは日本の占領政策を転換した。日本を共産主義国の防壁として利用することに決定した。それまで非軍事化、民主化を優先していた。しかし経済復興と経済自立を重視する方向に舵をきった。

1950年6月、韓国と北朝鮮の間で朝鮮戦争(~1953年7月)が起きた。その際、日本に駐留していたアメリカ軍が朝鮮へと出動した。在日米軍の穴を埋める形で1950年に「警察予備隊」がつくられた。この警察予備隊が1954年に「自衛隊」となった。

1951年9月には「サンフランシスコ講和会議」が開かれた。これは第二次世界大戦・太平洋戦争についての連合国諸国と日本との間の講和条約である。日本以外に連合国51か国が参加した。中国は招集されなかった。その理由はイギリスとソ連中華人民共和国アメリカは中華民国を承認していた。紛争の原因となりかねないための措置であった。

日本は 48か国との間でサンフランシスコ平和条約を結んだ。ソ連ポーランドチェコスロヴァキアの3国が拒否した。日本にいかなる軍事基地も置かないことや自衛の軍備を一定規模配置することを提案したが、この提案は受け入れられなかった。当時の情勢をふまえればソ連が日本の共産主義国化を目指した提案であっただろう。サンフランシスコ平和条約締結により、日本の国際社会への復帰が認められた。

■日ソ共同宣言と国際連合への加盟
1956年10月にはソ連と「日ソ共同宣言」を発表、国交回復に成功した。これにより日本は1956年12月、国際連合に加盟することができた。

<参考>
・改訂版 中学校の歴史が1冊でしっかりわかる本
・世界史から読み解く日本史
マーシャル・プラン - Wikipedia
北大西洋条約機構 - Wikipedia
ドイツ民主共和国 - Wikipedia
ワルシャワ条約機構 - Wikipedia
朝鮮民主主義人民共和国 - Wikipedia
大韓民国 - Wikipedia
蔣介石 - Wikipedia
毛沢東 - Wikipedia
サンフランシスコ講和会議