シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

64.ゴルバチョフによるソ連改革と東西冷戦の終結

1985年3月、ゴルバチョフソ連共産党書記長となる。グラスノスチペレストロイカを実施、その後、ソ連は解体、冷戦が終結されることとなったが、何を、どのように行ったのだろうか。またソ連という連邦制の体制維持においては失敗の面があったのかもしれないが、資本主義の問題点に対しての共産主義思想という、結果平等・人工的な計画経済による統制というチャレンジとその失敗、その後じまいという面においては評価はいかがだろうか。戦後からゴルバチョフが登場して、ソ連の解体、ソフトランディング(軟着陸)させる過程をみていく。

・緊張と緩和
フルシチョフ時代(1953年 - 1964年)
・ブレジネフ政権(1964年 - 1982年)
ミハイル・ゴルバチョフ時代(1985年 - 1991年)

■緊張と緩和
第二次世界大戦後、ソ連は常に軍拡や戦争を行っていたわけではない。
「緊張」のあと「緩和」もみられた。「緊張」のピーク付近を
 1950年・朝鮮戦争
 1962年・キューバ危機
 1979年・アフガニスタン侵攻
とすれば、
「緩和」の谷は
 1956年・スターリン批判
 1968年・NPT(核拡散防止条約
 1986年・ペレストロイカ、INF全廃条約
などの象徴的な出来事がみられる。緊張と緩和を繰り返し、緩和の時期には資本主義、国際社会への歩み寄りが行われた。

フルシチョフ時代(1953年 - 1964年)
1953年にスターリンが死去すると、ニキータ・フルシチョフが最高指導者となった。
1956年にはスターリン批判を実施、スターリン政権期における政治指導、粛清の実態が暴露され、独裁体制を批判した。一時的に言論抑圧が弱まった。一方、独裁体制への批判に伴い中国との間で「中ソ対立」が進行した。「フルシチョフ雪どけ」と呼ばれる時期、工業化が進んだ。何百万人もの農民が都市へと移動し、発展した。
1957年、史上初の人工衛星スプートニク1号」が打ち上げられた。
1961年、「ボストーク1号」により宇宙飛行士ガガーリンが大気圏外へ出て、人類初の有人宇宙飛行を成功させた。フルシチョフは食糧生産問題でいっとき成功を納めたが、のち農業政策に失敗し、失脚した。

■ブレジネフ政権(1964年 - 1982年)
レオニード・ブレジネフが指導者となった。中ソ対立とベトナム戦争からの行き詰まりを打開したい中国とアメリカが接近、1972年、米中共同声明が出された。中国の西側諸国への接近を招いたソ連は、東欧諸国を勢力圏内に置き続けるため、1968年に制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)を打ち出した。そしてチェコスロバキアの変革運動「プラハの春」に介入した。これが国際社会の批判を浴びた。このため、西側諸国との協調をはかり(米ソデタント)、戦略兵器制限交渉(SALT:Strategic Arms Limitation Talks)が実施された。この時期、中ソ対立が激化、1969年にはダマンスキー島の領有権をめぐり中ソ国境紛争が起きた。1979年にはソ連アフガニスタンに侵攻、緊張が再開した。

ミハイル・ゴルバチョフ時代(1985年 - 1991年)
 コンスタンティンチェルネンコ氏の死を受け、ゴルバチョフソ連共産党書記長となった。グラスノスチ(情報公開)と、ペレストロイカ(改革)により、社会主義計画経済の修正を行い、市場主義経済の導入をはかった。
1986年にはチェルノブイリ原発事故が起こった。異常に気づいたのはスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所での異常検出だった。
1987年には米ソ首脳により中距離核戦力(INF)全廃条約を締結する。中距離核戦力は戦略核(相手の政治中枢を破壊)と戦術核(敵部隊への実践使用)の中間にあたる目的の核戦力。この配備数を競っていたため、両国の経済的負担となっていた。この全廃により、実質的射程距離となるNATO諸国の安全保障に緩和をもたらした。なお、INFはその後全廃が実行されたが、陸上のみに限るという抜け穴があり海上での保有に疑惑がある。また2019年8月に失効したため、今後配備されていく懸念がある。
1988年には新ベオグラード宣言を出した。
制限主権論(ブレジネフドクトリン)を否定し、東欧諸国の自立と民主化を指示した。この宣言を受けてハンガリーポーランド東ドイツブルガリアチェコスロヴァキアルーマニアで東欧革命が起こった。
1989年にはブッシュ大統領ゴルバチョフ書記長が、マルタ会談を行った。次のトピックを中心とした問題への話し合いが行われた。
・軍備の管理、軍縮
・東欧諸国
・ドイツの再統一
ソ連の経済
・中東の紛争
またマルタ会談にて冷戦の終結を宣言した。第二次大戦終結期の「ヤルタ」と、冷戦終結期の「マルタ」をとって「ヤルタからマルタ」とも称される。さらにゴルバチョフ市場経済の導入、そして共産党一党支配を廃止して複数政党制の導入をはかり、1990年、大統領制に移行した。
※この時点ではゴルバチョフソ連共産党書記長であり、ソ連大統領である
マルタ会談による東欧諸国の民主化の影響はソ連自身にも波及した。
1991年にはバルト3国が独立を宣言した。
そして同1991年8月、ソ連共産党保守派がクーデターを起こした。ゴルバチョフの排除と連邦制の維持をはかった。しかしロシア共和国のエリツィンを中心にこれを阻止、失敗に終わった。ゴルバチョフは混乱の責任をとって"党書記長"を辞任、ソ連共産党を解党した。また、ソビエト連邦の維持を模索したものの、失敗に終わる。
1991年12月にはロシア、ウクライナベラルーシソビエト連邦条約の無効を宣言、ソ連を解体し、独立国家共同体(CIS)の結成に合意した。ゴルバチョフは"ソ連邦大統領"を辞任し、1991年12月26日、ソ連最高会議がソ連の消滅を宣言し、解体された。

<参考>
・3時間半で国際的常識人になれる 速修戦後史欧米編
ソビエト連邦 - Wikipedia
中ソ国境紛争 - Wikipedia
スターリン批判 - Wikipedia
ヨシフ・スターリン - Wikipedia
制限主権論 - Wikipedia
プラハの春 - Wikipedia
米ソデタント - Wikipedia
戦略兵器制限交渉 - Wikipedia
グラスノスチ - Wikipedia
ペレストロイカ - Wikipedia
新ベオグラード宣言
マルタ会談
ペレストロイカ - Wikipedia
チェルノブイリ原子力発電所事故 - Wikipedia
中距離核戦力全廃条約/INF全廃条約