シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

68.中国の近代化と二つの中国

ここでは中国が戦後、どのように近代化を進めたのか、そして2つの中国、共産党人民解放軍、国民党軍が存在するがなぜわかれたのか、また、香港に適用された一国二制度とはどのようなものか。
目次
・中国からの日本軍の撤退
・国民党と共産党の内戦
・二つの中国とは
中華人民共和国の米ソとの関係
・大躍進の失敗
・中ソ論争
プロレタリア文化大革命
中華人民共和国の国際関係
・香港と一国二制度
・雨傘運動
・2019-2020香港民主化デモ

■中国からの日本軍の撤退
1945年8月18日、満州国ソ連軍の侵攻により崩壊、その一部はシベリアに抑留された。また日本軍が統治を行っていた台湾では1945年10月25日、国民党政府に明け渡された。日本軍は中国本土から撤退した。なお、満州国は現在の遼寧吉林黒竜江にあたる。第二次世界大戦中日本軍が戦ったのは蒋介石率いる国民党軍のほうであり、共産党人民解放軍のほうではない。また、満州国、台湾共に日本はインフラ投資をし、基盤を残した。欧米のような搾取型の統治ではなかった。
■国民党と共産党の内戦
戦前から「国民党」と「共産党」は抗争を繰り返していた。第二次世界大戦後、日本軍も撤退したため、国民党と共産党は再び争いをはじめ、内戦となった。国民党は蒋介石が総統となった。しかしインフレによる経済混乱と、国民党幹部の腐敗が指摘され、民衆から批判を浴びた。その一方、共産党毛沢東の指導のもとに農村開放を行って農民から支持を得た。
■二つの中国とは
国民党軍と共産党人民解放軍が武力衝突し全面的な内戦となった。当初はアメリカの支援を受けた国民党軍が有利であった。しかし農村に基盤を持った共産党が挽回して勝利した。敗れた国民党の蒋介石は台湾へと逃れた。国民党は台湾で「中華民国政府」を樹立した。一方、共産党。1949年10月、毛沢東中国共産党主席が「中華人民共和国」の樹立を宣言した。周恩来が初代首相となった。
中華人民共和国の米ソとの関係
建国の翌年・1950年2月、モスクワでソ連と「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結した。仮想敵を実質的に日本とアメリカと定め、中国は「社会主義国」であることを示した。イギリスやインドはこれを認めた。一方、アメリカは蒋介石中華民国」を正式な政府する立場をとった。アメリカと中華人民共和国との対立は、1972年にニクソン大統領が訪中するまで続いた。
■大躍進の失敗
毛沢東中華人民共和国社会主義国家への道を歩み始めた。1958年から「大躍進」運動を展開した。農業の集団化や人民公社を設立した。しかし急激な工業化となったため経済混乱を招き、農村が荒廃した。そして大量の餓死者が出て、計画は失敗した。毛沢東は失脚、代わった劉少奇国家主席となり、経済の立て直しをはかった。
■中ソ論争
ソ連は1956年、ソ連共産党ニキータ・フルシチョフスターリン批判を展開した。そして「平和共存路線」を採択したため、社会主義陣営の東ヨーロッパで動揺が広がった。これを契機として革命や社会主義建設の方法をめぐりイデオロギー論争が始まった。これが「中ソ対立」である。中国はソ連の平和共存路線を批判した。これに対抗しソ連は中国への技術援助を停止した。また、1962年のキューバ危機以降は公開論争に発展した(中ソ論争)。1960年代、中ソ国境紛争が続発した。特に1969年のダマンスキー島(珍宝島)で激しい衝突が起きた。
プロレタリア文化大革命
共産党内の毛沢東と、資本主義の復活をはかる劉少奇・鄧小平の間で対立が起こった。大躍進で失敗した毛沢東が権力奪回をはかろうとする。毛沢東劉少奇らを批判、「プロレタリア文化大革命(1966-1976)」を呼びかけた。若い世代は「紅衛兵(こうえいへい)」を組織、大衆運動を展開した。党幹部や知識人を批判、追放し、劉少奇、鄧小平も失脚した。文化大革命は社会的混乱をもたらした他、経済、文化の発展を停滞させた。■四つの近代化
1976年に毛沢東が死去した。これが契機となり路線を転換。実権を握った鄧小平は工業、農業、国防、科学技術の分野で近代化を目指す「四つの現代化」政策に取り組んだ。改革・開放政策を推進するため、人民公社の解体や外国資本を導入した。その一方で、政治の民主化は進まなかった。1989年6月、第二次天安門事件が起こった。中国政府はこれを武力で弾圧したため国際社会から非難を浴びた。
中華人民共和国の国際関係
1971年、中華民国に代わって「中華人民共和国」が国連代表権を獲得。
1972年、共和党ニクソン大統領が訪中し「中華人民共和国」を中国と認めた。
1979年、米中国交正常化が実現した。
1989年5月、ソ連ゴルバチョフが訪中し30年ぶりに中ソ首脳会談が行われ、中ソ関係が正常化した。
1990年以降、ASEAN諸国と国交を正常化し、1992年には韓国と国交を樹立した。
■香港と一国二制度
1997年、イギリスから香港が返還された。「一国二制度」は、香港に対して高度な自治を認め、中国本土と異なる制度を適用、これまでの制度を50年は維持すると約束したもの。ただし外交や防衛を除く。
■雨傘運動
2014年には香港反政府デモが発生「雨傘運動」とも呼ばれた。きっかけは香港行政長官選の改革方針決定を不服としたデモ。候補者を2、3人までとし、いずれも指名委の過半数の支持を義務付けるという内容へ反発した。
■2019-2020香港民主化デモ
2019年には「逃亡犯条例改正案」が提出された。最終的には完全撤回された。その内容は、海外で罪を犯したと思われる容疑者が香港にいた場合、協定を結んでいる国や地域への引き渡しを可能とするもの。その引き渡し先に中国大陸・マカオ・台湾が含まれていたため、中国大陸への引き渡しが懸念された。取締まり対象に中国政府への批判も含まれるため、政治犯として逮捕され中国で裁かれた場合、裁判権の独立性が失われる。ゆえにそれを恐れて表現、言論の自由が失われてしまうというものであった。
<参考>
・ハンドブック 世界史の要点整理
・図解 世界史
満洲国の経済 - Wikipedia
日本人が知っているようで知らない、台湾と日本の歴史~人物を中心に~ | T-life
シベリア抑留 - Wikipedia
中国国民党 - Wikipedia
中華人民共和国 - Wikipedia
中ソ友好同盟相互援助条約 - Wikipedia
大躍進
中ソ対立 - Wikipedia
中ソ国境紛争 - Wikipedia
紅衛兵 - Wikipedia
文化大革命 - Wikipedia
四つの近代化 - Wikipedia
中華人民共和国の国際関係 - Wikipedia
2014年香港反政府デモ - Wikipedia
香港のデモ|原因と混乱と今後の心配についてわかりやすく解説|みんなでつくる!暮らしのマネーメディア みんなのマネ活
2019年-2020年香港民主化デモ - Wikipedia