シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

139.古墳時代の航海技術を推測できる船形埴輪とは

弥生後期から古墳時代における日本における航海技術はどの程度だったのだろうか。瀬戸内海を船でわたったり、新羅や中国に使者を送ったりしていたとされる。その際、どのような舟を使っていたのだろうか。今回は「船」を切り口として古墳時代を探っていく。
■宝塚1号墳から出土:日本最大の船形埴輪
宝塚1号墳は三重県松阪市にある。およそ1600年前、5世紀初頭の古墳。下記リンク先の画像は船の形をした埴輪。ピボットといわれるオールをあてる支点が複数みられる。複数人でこぐタイプの舟だ。ちなみに船がはにわというと違和感があるが、「埴」とは黄赤色の粘土で陶器などの原料となったもの。このため船も埴輪となる。

www.shinsensha.com

■宝塚古墳について
その船形埴輪が出土された宝塚古墳について。宝塚古墳は松阪の市街地から南に3km程度離れた丘陵上に存在する。1号墳と2号墳から成る。リンク先の松阪市のHP内にある「発掘調査成果をもとに作成した宝塚1号墳のすがた」において宝塚1号墳が再現された画像が紹介されている。造り出し部分で祭祀が行われ、神さまや祖先を祭るなどのイベントが開催されていた様子。なお、同じく紹介されている再現された2号古墳のすがたは帆立貝式。円形、正方形を重ねたり、高低差をつける土木技術がみられる。そしてホタテ貝を模してつくったような創造的な古墳。
参考:松坂市HP:伊勢の王墓 宝塚古墳 - 文化財センター(はにわ館) - お肉のまち 松阪市公式ホームページ
■南九州、宮崎県の西都原古墳群からの船形埴輪の出土
宮崎県の西都原古墳群は4~7世紀前半にかけて築造される。船形埴輪の出土はその地域の船との親和性を示すと思われる。南部九州でも船形埴輪がみられるようだ。
参考:西都原古墳群 宮崎県立西都原考古博物館|西都原古墳群の概要
■全国の船形埴輪
船形埴輪は古墳時代中期の初めに作られるようになり古墳時代後期へと続く。その数は中期のものが圧倒的に多い。2019年時点では、全国で71例が確認されている。
参考:兵庫県立考古博物館:考古資料集成5.船形埴輪 | 兵庫県立 考古博物館
■船形埴輪の大きさ、魏志倭人伝のルートの所要日数
サイト「科学する邪馬台国」の「古代の船と航海ルート」から2点紹介したい。1つは船形埴輪の大きさについて。袴狭遺跡(兵庫県豊岡市出石町)、4世紀初めのものとされる遺跡から出土した船の線刻画から復元した船が紹介されている。大人の背丈を超える船であったことがわかる。2つめは魏志倭人伝のルートの所要日数について。「魏志倭人伝」の航路について実験による航海が行われた。現在の仁川港(当時の帯方郡)から博多(当時の奴国)までを航海したという。所要日数として47日を要したという。
参考:科学する邪馬台国http://inoues.net/science/war.html
■参考:タルシシュの船
船関連として、フェニキア人の「タルシシュの船」を紹介。次のサイトのページ中段、「タルシシュの船と呼ばれる船」で示された船。
参考:第3章 海上交易圏の形成 1・3・1 フェニキア―海上交易国の誕生