シン・ニホンシ

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141.中央アジアのカザフスタン方面から百済経由の渡来~秦氏のルーツ、弓月君~

前記事までで現代科学や考古学的見地からの日本の古代を調査してきた。本記事以降ではユダヤ的なる民族が、日本へどう渡来してきたのか、その痕跡を探っていく。まず今回はそのひとつ、中央アジアルートで日本にたどりついた渡来人である「秦氏」を紹介する。関連して稲荷神社、八幡神社にまつわる情報を紹介する。

秦氏とは
秦氏朝鮮半島経由で渡来した氏族。その祖先は弓月君(ゆづきのきみ)とされる。秦氏は5~6世紀頃から断続的に渡来したとされるが、それ以前より渡来していたことが確実視される。「日本書紀」の記述によれば283年(応神天皇14年)、百済から120県の人を率いて帰化したと記される。
弓月君と弓月国
秦氏の祖先、弓月君の出身地「弓月国」の所在はシルクロードの北方側ルート上に位置する。場所は中央アジアカザフスタンから、東の一部はシンチャンウイグル自治区にさしかかる。この「弓月国」の存在は言語学者の佐伯好朗氏が発見した。「資治通鑑」、全 294 巻中の、第 199巻 に弓月の記録が示されている。この弓月国のおおよその位置を丸谷憲二氏が図解で紹介している↓
http://kiwarabi.html.xdomain.jp/hataoukoku.pdf
秦氏の活躍
秦氏一族は蚕や絹などによる織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草などを広めた。平安京の遷都時の資金源や技術に大きく関わった。
秦氏と神社の建設
秦氏は「稲荷神社」などを創祀したことで知られている。この稲荷神社のイナリという語源が「INRI」と関連があると日ユ同祖論界において指摘されている。
■INRIとは
エスが処刑された十字架に掲げられたINRIはイエス・キリスト磔刑においてその十字架の上に掲げられた罪状書きの頭字語。IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM:ユダヤ人の王、ナザレのイエス、に由来する。秦氏は原始キリスト教景教の影響も持つとされる。なおユダ族のシンボル的な紋章がライオンである。施設としての神社を建設していく際、このライオンの代替としてキツネ、あるいは狛犬を神社の使徒やお守りとして採用したと考えられる。
秦氏の名前の由来
秦氏の名前の由来は、織物の織の「はた」や、柵外に住まわされたことを意味する端の「ハタ」からきているとされる。さらには「八幡神社」の「ヤハタ」もこの秦氏から来ている。ユダ族はヘブライ語で「イェフディ」と呼ばれる。
■考察(私見
秦氏の渡来はいつ頃なのだろうか。日本書紀の、いったん伝説上扱いとし、その283年説が正しいとすると仮定する。すると台与~ヤマトタケルの間と考えられる。たしかに古墳の建造は渡来人のサポートが必要となる。秦氏などの勢力が古墳建造をサポートしてもらったと考えて、年代的にはあまり違和感はみられないのだが。
■豆知識
ウズベキスタンと日本の関係
秦氏の弓月国はカザフスタンあたりとされる。そのカザフスタンの南に「ウズベキスタン」が存在し古代日本との関係がある。南都六宗の一つである律宗の総本山・唐招提寺(とうしょうだいじ)の4代目の管長安如宝(あんにょほう)はソグド人。法隆寺の香木には「ソグド語」が書かれている。この唐招提寺は鑑真が創始者である。ラピスラズリは当時、アフガニスタンでしか取れなかった。その石が正倉院にあるということで、奈良県ウズベキスタンサマルカンド州と間で交流がある。

流鏑馬(やぶさめ)という文化
中央アジアルートでモンゴルなどを経由した騎馬民族を経て日本に渡来したと考えられる民族も存在する。「流鏑馬」は日本の古式弓馬術馬術と弓術を組み合わせたもの。 疾走する馬に乗りながら鏑矢で的を射る。この儀式は騎馬民族の名残ではないかと考えられる。現在は神道の行事などのひとつとして文化として結びついている。

<参考>
秦氏 - Wikipedia
佐伯好郎 - Wikipedia
徐福 - Wikipedia
・ソグド人との交流:令和4年10月「国際交流の強化」について/奈良県公式ホームページ
ソグド人 - Wikipedia