今回は「桃」をテーマに、日本の古代史を探っていく。まずは桃の実の遺跡と神秘思想の関係性からはじまり、そして桃太郎伝説の真相に迫る。次の流れで紹介してく。
・纒向遺跡で見つかった桃の種
・最古の桃
・不老長寿伝説の桃、蟠桃(ばんとう)
・不老不死と神秘主義
・道家と道教の違い
・徐福と仙人
・桃太郎伝説
・温羅王子と城壁としてのウル
・鬼の釜
・吉備と造山古墳
・吉備地方におけるたたら製鉄
■纒向遺跡で見つかった桃の種
2009年、奈良県桜井市の纒向遺跡で、3世紀前半の大型建物跡の近くから「桃の種」が大量に見つかった。桃は放射性炭素年代測定法により、西暦135~230年のものと判定された。その量は2千個を超す。併せて大量の土器、木製品などが見つかった。桃は、古代中国の神仙思想において邪気を払い、不老長寿を招くとされる。また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物では西暦100~200年との分析結果が出たという。なお、纒向遺跡は東西約2キロ、南北約1.5キロの巨大集落跡。周囲には箸墓古墳など最古級の前方後円墳6基が集中して存在。記事では3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっているとされ都市基盤として整備されていたことがわかる。また、関東から九州で作られた土器も出土されており、全国から人が集まってきたことを裏付けているという。
参考:産経新聞
■最古の桃
日本最古の桃核(とうかく)は、長崎県の諫早半島、伊木力遺跡(いきりきいせき)の縄文時代前期、約6,000年前に原産地である中国黄河流域の高原地帯から伝わってきたようだ。一方、岡山県内としては津島岡大遺跡(つしまおかだいいせき)の縄文時代後期、約3,500年前が最古となる。その後、弥生時代以降になると、多くの遺跡から出土するとされる。諫早半島というユニークな立地からして、古代より各地との海洋を通じた交流が推測される。
■不老長寿伝説の桃、蟠桃(ばんとう)
蟠桃は華中系品種の一つとされる。また、西遊記で孫悟空が食べつくした桃がこの蟠桃という品種とされる。中国には蟠桃をめぐる伝説がある。三千年で熟した果実を食べると仙人になる。六千年で熟した果実を食べると不老長寿となる。九千年で熟した果実を食べると不老不死となるという。
■不老不死と神秘主義
中国では老子の「あるがまま」的な思想を基本とする思想、そしてそれに加えて不老不死、不老長寿を求める「神仙術」がある。この道教の神仙思想や老子などが神秘主義とされる。
■道家と道教の違い
なお道家と道教は「別」である。道家は老子、荘子、列子などをいう。学派のようなもの。道教は道家の思想などをもとにした中国独自の宗教のひとつ。
■徐福と仙人
仙人になるために修行をする者を道士、または羽士または方士という。徐福は方士であった。秦の始皇帝の命を受け、東海の仙島に仙薬を求めて出航した。中国の軍師として知られる呂尚(りょしょう、紀元前11世紀頃)や諸葛亮孔明(181年-234年)なども仙術を修得していたとされる。
■桃太郎伝説
桃と言えば昔話の「桃太郎」だが、実は岡山県の吉備(きび)に伝わる温羅(うら)伝説が元ネタとされる。温羅とは百済の王子で、吉備へとやってきて一帯を支配した一大勢力の首領であった。真偽不明だが都に送る貢物や婦女子を略奪するなど悪行を働いていたとされる。崇神天皇がこれを苦慮、四道(しどう)将軍の一人、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)、のちの吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣したとされる。吉備へ将軍が派遣されたことは「古事記」にも記載されている。桃太郎のモデルはこの五十狭芹彦命こと吉備津彦命。一方の鬼は温羅である。
■温羅王子と城壁としてのウル
この温羅王子はまず山城を造ったとされる。吉備津神社縁起によれば、朝鮮式の古代山城にならい、標高400mもある山の山頂に居城を築き、そばの岩屋山には楯を構えたとされる。百済からの渡来人は、この城壁のことを「ウル」と呼んでいたことから王子は「温羅(うら)」と呼ばれるようになったとされる。ウルといえば古代メソポタミアの古代都市。石の居城のようなウルのジッグラトが有名だ。ここでメソポタミアと百済とつながる。
■鬼の釜
鬼の釜は、鬼ノ城に住んでいた温羅が使用していたとされ「鬼の釜」という名で呼ばれている。岡山県総社市のHPで紹介されている。
岡山県総社市:市指定_鬼の釜
■吉備と造山古墳
吉備王国の古墳として備中国分寺の東にある造山古墳がある。この前方後円墳の長さは360m、日本で第4位、大和以外では最大で、エジプトのギザのピラミッドの底辺(230m)をはるかに超える。墳丘は3段、くびれ部分に造出がある。
■吉備地方におけるたたら製鉄
吉備では瀬戸内海とつながる港があった。造船技術、製塩技術が発達、それに加え温羅が百済から「たたら」と呼ばれる製鉄技術をもたらし繁栄した。砂鉄が吉備高原、中国山地で採取され、精錬炉4基、炭釜3基を使って製鉄が行われた。こうして吉備では鉄製の農具によって沖積平野の開発が促進された。また鉄製の武具によって軍事力が強まった。岡山県の吉備地方に製鉄炉が現れたのは6世紀後半とされる。
■感想
・吉備地方、出雲地方ともたたら製鉄は百済からの渡来人による製鉄技術と考えられる
・百済には6世紀当時でメソポタミアと関連した末裔がいたことがわかる
・卑弥呼は九州の王朝、247-248年頃の死去、日本武尊の東征は3世紀~4世紀はじめ頃とわかっている。纏向の古代都市の存在について、桃からは西暦135年~230年、土器の付着物からは西暦100~200年頃の可能性が示されている。すると纏向は卑弥呼や台与の勢力とは別なのだろうか。
<参考>
・岡山県古代吉備文化センター古代のモモ - 岡山県ホームページ
・蟠桃 バントウ Plattpfirsiche 平桃:旬の果物百科
・日本の土壌と文化へのルーツ㊿ 中国文明以来の果実 桃 | 東邦大学医療センター大森病院 東洋医学科 コラム
・道教 - Wikipedia
・神秘主義 - Wikipedia
・温羅~鬼と見なされた吉備一族の首領 | 歴史人
・02 温羅伝説1
・ウル - Wikipedia
・第2回 鉄づくりは日本の文化 〜たたら製鉄の「たたら」って何?〜|ものづくり新聞
・千引カナクロ谷製鉄遺跡 - 岡山県 - 行ってみよう〜全国遺跡・博物館マップ〜- 全国こども考古学教室