シン・ニホンシ

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152.漢委奴国王の印で示された国は奴国か、それとも委奴国か

57年に後漢光武帝が倭の奴国王に授けたとされる金印。金印に刻まれた名前の国はいったい何を意味するのだろうか。

■金印には何が刻まれているのか
教科書などでは中国の皇帝から倭の奴国王に金印が授けられたと紹介される。まず金印には何と書いてあるだろうか。「漢」と「委奴國王」と記されている。倭とは書いていない。ただし、倭を省略して委とすることはありえるとされる。
↓下記で金印を画像で確認できる

www3.nhk.or.jp

■金印はどこで発見されたのか
志賀島(福岡県福岡市東区)、江戸時代に、農民が地面を掘っていたら金印が出てきたとされる。
■金印への疑惑がある
発見の経緯が疑問とされる。疑惑の論証がなされないまま「本物」と認定されてしまったことにより、偽物なのではないかという議論もみられる。2006年の「金印偽造事件 三浦佑介」などだ。「志賀島から出土したとされる国宝の金印は、江戸時代に、亀井南冥(かめいなんめい)らによって、わが国で製作された偽造物」との主張がなされた。邪馬台国の会「第311回」でも紹介がなされている。漢時代(前漢後漢問わず)の金印を検証している。
参考:邪馬台国の会 第311回活動記録

■奴国説:須玖・岡本遺跡(すぐおかもといせき)
須玖・岡本遺跡は弥生時代中期とされる。前漢鏡(草葉文鏡)が出土した。そのほか星雲文鏡、連弧文鏡、重圏文鏡など30面以上の前漢鏡、そして銅剣・銅矛・銅戈(どうか)などが8本以上、ガラスの勾玉、管玉(くだたま)が発見された。これらの出土品や遺跡の規模や出土品から須玖・岡本遺跡(すぐおかもといせき)が奴国ではないかとされる。他の遺跡を奴国とする説も多数みられる。
参考
第1章 弥生時代の年代 2.弥生時代の年代 | 弥生ミュージアム
九州大学 倭人伝の道
須玖・岡本遺跡(すく・おかもといせき)|Historist(ヒストリスト)
奴国 - Wikipedia

■奴国と伊都国
魏志倭人伝では「奴国」と「伊都国」は区別されている。3世紀後半に成立のものなので57年時ではないので注意が必要。伊都国は同福岡県の糸島市。須玖・岡本遺跡は福岡県春日市朝鮮半島から渡来する側の港としては、伊都国:糸島市側の唐津湾、奴国:志賀島側のほうに着くのかといった違いがあるのだろうか。

■金印の成立時時点に着目
まずは本物なのかどうか。なお金印が本物かどうかを金の純度からも調査が行われている。純度などはわかっているが、比較の対象として前漢時代の他の金印などを調べる必要があるなどでそこまでの調査はなされていない。一方で、成立した時点はどのような状況であったか。57年当時は新羅が誕生したとき。日本側の一国から朝貢がなされても不思議なタイミングではなく、朝貢はあったとして問題ないのではないだろうか。
■委奴国
金印には「委奴」と書かれている。使われた文字も「委」であり、倭ではない。また伊や威、といった当て字にはなっていない。また「奴」についても、倭人のことが「倭奴、わど」と呼ばれたこともあり、「ド」と呼んでいたと考えられる。

■岬や入り江の語源
語源から考える。「江戸」の由来は「入り江」や門戸説が有力。またアイヌ語では岬を「エトゥ」という。ただし「入り江」は「モイ」と言って区別している。古代の舟が陸に上がる際、比較的波が穏やかな入り江が好まれるはず。糸島(伊都)、伊豆(いず、イト)、戸来に近い陸奥湾などの「湾を持つ岬」は着港のための目印として重宝したと考えられる。
参考:「江戸」の由来について(2004年) - 江戸東京博物館

■本記事での結論
考古学的には糸島と須玖・岡本遺跡は異なるものである。ただし、地政学的には同じエリア。伊都国、奴国は歴史的に区別すべきものではあるが、朝鮮半島側から見たとき、対馬、壱島を通過後、伊都国、奴国のどちらに着港するのか、2つの港のうちのいずれかひとつととらえたい。さらには、卑弥呼より速い時代に須玖・岡本遺跡に前漢の時代(紀元前206年 - 8年)の鏡が残されており、どのような人物が前漢と交流を開いたのかを解明することのほうが歴史的な意義があるのではないだろうか。

<参考>
魏志倭人伝後漢書倭伝 宋書倭国伝・隋書倭国伝 石原道博編訳
・金印偽造事件 三浦佑介
・金印再考 大谷光男
伊都国 - Wikipedia