今回は日本最初の本格的な寺院である法興寺(飛鳥寺)の建設時、日本は百済から技術者たちを呼んできた。百済から来ていたペルシア人(イラン人)たちを紹介する。
■法興寺(飛鳥寺)
588年、百済から仏舎利(入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨)が献じられた。これを受けて蘇我馬子が寺院建立を発願し、596年に完成した。 当時は現在の約20倍もの壮大な寺院であったとされる。
■百済から日本やってきた職人たち
法興寺は百済からやってきた職人たちと、彼らに指導を受けた人々によって建立された。「日本書紀」の崇峻元年によれば、百済国が仏舎利や僧とともに職人を送ったとされる。その中には寺工(てらたくみ)が2名、鑢盤(ろばん)博士が1名、瓦博士が4名、画工が1名いたとされる。
■職人たちの名前
職人たちはイラン(ペルシア)系の西域から中国南朝を経て、百済に寄留していたイラン系(ペルシア)胡人とされる。
1.寺工
・太良未太/たらみた
パルティア語で「tajar-amid」から来ているとされる。
・文賈古子/もんけこし
「テント型の堂宇」を意味し、パルティア語の「bunak - kosk」から来ているとされる。
2.露盤博士
・白昧淳/はく まいじゅん
露盤(仏塔の相輪の部分)。「露つきのもの」を意味し、パフラヴィー語の「pay - mizne/pay - muzne」から来ているとされる。
3.瓦工
・麻奈文奴/まな もんぬ
「家(man)を葺く人=家瓦葺工人」を意味し、パフラヴィー語の「mān - hahumbān」から来ているとされる。
・陽貴文/よう きぶん
「文様瓦、鴟尾瓦など特殊瓦」を意味し、パフラヴィー語の「āyin- xumb」から来ているとされる。「クンブ(xumb)」が「瓦」を意味する。
・㥄貴文/りょうきもん
「色瓦」を意味し、パフラヴィー語の「afrang-xumb」から来ているとされる。
・昔麻帝弥/しゃくま たいみ
「軒丸瓦・鐙瓦」を意味し、パルティア語の「syaxmān-tōxm」から来ているとされる。
4.画工
・白加/はくか、または、びゃくか
「像」を意味し、パルティア語の「paykar」もしくは「pahikar」から来ているとされる。
■パルティア語とパルティア
パルティア語はパルティアで使われていたイラン語の一種。パルティアは古代イランの王朝で紀元前247年 - 紀元後224年まで続いた。王朝の名前からアルサケス朝とも呼ばれ、日本語でアルサケス朝パルティアという名前でも表記される。
■パフラヴィー語
主に3世紀から7世紀にかけてのペルシア語(主に文語)を指す呼称とされる。ササン朝ペルシアの公用語として碑文やゾロアスター教の文献などで用いられた。
■ペルシア人とアラブ人の違い
おおよそではあるが、イラン人≒ペルシャ人とされる。またアラブ人は人種的な分類が難しい。「アラビア語」という言語と「アラブ文化」を持つ人たちとされる。以下を参考として欲しい↓
参考:ペルシャ人とアラブ人の違い|特徴や歴史から分かる違いとは? | 世界雑学ノート
■まとめ
・百済と日本は仏教において強いつながりを持つ
・百済の職人たちはイラン人
■感想
・イラン⇒インド経由⇒中国⇒百済のルートがある
・南北朝時代 (中国)の南朝、江南、現在の南京あたり、420年から589年にイラン人が到達している
・直接的にユダヤ人が来ていた杭州市より南京市は北方にあたる位置
■謝辞
主に職人の名前についてはwikipediaを参考とさせて頂いた。日本のイラン学者、伊藤 義教氏によって漢字名とパルティア語、パフラヴィー語の解明がなされた。
<参考>
・百済から瓦博士がやって来た!/瓦の歴史(三州瓦)/三州瓦の紹介/瓦Web・愛知県陶器瓦工業組合
・日本神話・神社まとめ: 僧と仏舎利と寺工と鑪盤博士と瓦博士と画工
・太良未太 - Wikipedia
・文賈古子 - Wikipedia
・白昧淳 - Wikipedia
・麻奈文奴 - Wikipedia
・陽貴文 - Wikipedia
・㥄貴文 - Wikipedia
・昔麻帝弥 - Wikipedia
・白加 - Wikipedia
・陽古 - Wikipedia
・仏舎利 - Wikipedia
・パルティア語 - Wikipedia
・パルティア - Wikipedia
・パフラヴィー語 - Wikipedia
・伊藤義教 - Wikipedia