シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

164.吉備の乱と磐井の乱

ここでは古代の有力な地方で起きた中央省庁への反乱をテーマとし、「吉備氏の乱」と「磐井の乱」を紹介する。2つの乱はなぜ起きたかがわかる。

■2つの乱が起きた背景
この2つの乱は吉備と筑紫で起きた2つの力をもっていた古代の国家の反乱である。大和朝廷の基礎が300年頃より出来上がっていく。そして聖徳太子が生まれ574年に生まれ、日本の礎を整えていく中での、朝鮮半島における朝廷と利害関係の不一致により起きた争いと考えられる。

■吉備の乱
吉備氏の乱ともいう。吉備では5世紀前半から中頃にかけて造山古墳、作山古墳など古墳建造が全盛期を迎えていた。そうした中で推定463年(雄略天皇7年)に反乱が起きる。吉備上道臣田狭(きびのかみつみち の たさ)が新羅と結託し、大和朝廷に対して起こしたものとされる。その反乱の理由とは、その田狭と稚媛(わかひめ)の間には二人の子供がいた。しかし雄略天皇7年、朝廷において、吉備上道田狭は妻の「稚媛」の美貌を自慢していた。それを雄略が聞きつけたとされる。田狭が任那の長官として朝鮮半島に派遣されている任期中、雄略天皇は稚媛を妃にした。これが原因で起きた乱とされる。

■吉備
岡山県を中心とし広島県東部等に跨った古代国家。位置関係としては出雲の南側、瀬戸内海側にあたる。桃太郎伝説のもとになった百済王子の伝説が残るのも吉備。

磐井の乱(概略)
527年(継体天皇21年)に起こった筑紫君、磐井による大和朝廷への反乱。近江毛野(おうみ の けな)が朝鮮半島南部へ出兵するため、大和朝廷軍を進軍させようとしていた。これを筑紫君磐井が阻止した。これを原因とし、磐井軍は翌528年、物部麁鹿火によって鎮圧された。

■近江 毛野(おうみ の けな)とは
古墳時代の豪族・将軍。近江国の豪族で武内宿禰の後裔とされる。波多氏の支族とされる。波多氏は武内宿禰の長男、波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする。孝元天皇彦太忍信命屋主忍男武雄心命武内宿禰⇒羽田矢代と続いて波多氏となるとされている。

磐井の乱はなぜ起きたのか
新羅によって南加羅・喙己呑(トクコトン)が奪われていた。大和朝廷近江毛野はこれを回復するため6万人の兵を率いて任那へ向かって出発した。この計画を知った新羅は、筑紫君・磐井へ贈賄し、大和朝廷軍の妨害を要請したとされる。磐井は挙兵し、火の国(肥前、肥後)、豊の国(豊前、豊後)を制して海路を封鎖したとされる。これによって近江毛野朝鮮半島へ行くことができなくなってしまう。継体天皇物部麁鹿火を九州へ派兵した。そして物部麁鹿火によって磐井軍は鎮圧された。そして磐井は物部麁鹿火に斬られたとされる。529年、大和朝廷は再び近江毛野任那の安羅へ派遣、新羅との領土交渉を行った。

継体天皇
在位は507年~531年とされる。磐井の乱物部麁鹿火によって鎮圧させたとする天皇(当時は大王と思われる)。記紀によれば、応神天皇の来孫(5代後の子孫、子・孫・曽孫・玄孫の次)。「古事記」は近江国を治めていたとされるが、「日本書紀」では越前国を治めていたとされる。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、四従兄弟にあたる第25代天皇武烈天皇が跡継ぎを残さなかったため、大伴金村物部麁鹿火などの推戴(すいたい)を受けて即位したとされる。

■まとめ
・吉備氏の乱:推定463年、吉備で起きた乱
磐井の乱:527年、筑紫で起きた乱

■感想
・継体の父は彦主人王(汙斯王・うし王)とされる。牛にまつわる文化を持っていたと考えられ、別途、牛をテーマとした信仰について紹介したい。

<参考>
【吉備氏の乱】
吉備氏の乱 - Wikipedia
吉備上道田狭 - Wikipedia
「吉備の反乱」伝承を考える - 岡山県ホームページ
吉備稚媛 - Wikipedia
総社市02 温羅伝説1
磐井の乱
・日本の古代豪族 発掘・研究最前線 TJ MOOK
近江毛野 - Wikipedia
【その他】
新羅 - Wikipedia
高句麗 - Wikipedia
百済史年表 - Wikipedia
伽耶 - Wikipedia
継体天皇 - Wikipedia