シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

168.渤海国と日本の交易

高句麗の後継となった「渤海国」との交易ルートを探る。歴史を学びつつ、古代日本における日本海側、特に敦賀の可能性を探る。

白村江の戦い
百済遺民の鬼室福信(きしつふくしん、扶余福信とも)から第37代斉明天皇(※)は救援要請を受ける。扶余豊璋、上毛野稚子、阿倍比羅夫らは白村江の戦いにて百済復興を目指す。日本と百済遺民、耽羅(たんら、現在の済州島)の軍は663年、白村江(現在の錦江河口付近)において唐・新羅の連合軍と戦う。しかし、唐・新羅の前に敗れることとなった。
※第35代皇極天皇は一度を退位していたが、重祚、再び天皇となり斉明天皇となった

高句麗の滅亡
668年、高句麗は唐・新羅連合軍に攻撃され滅亡する。唐は平壌安東都護府を置いて統治した。結局、朝鮮半島の三国(新羅高句麗百済)では新羅(676年~939年)だけが残った。その後、後継国家として渤海(698年~926年)と高麗(918年に建国、935年には新羅も滅ぼす)にわかれた。

渤海の建国
ツングース系靺鞨族の大祚栄(だいそえい)が建国した。渤海高句麗の後継を意識し固有の年号を用いるなど独自色を出した。ただし唐へ朝貢冊封を受けながらも律令制度や仏教文化を取り入れた。最初は振国(あるいは震国)と名乗っていたとされる。渤海国のエリアは下記の画像の通り↓

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渤海と日本
新羅とは対立関係にあったため日本との交易や文化交流が盛んとなった。727年には出羽に渤海使が来航する。その後、日本からも遣渤海使を派遣した。日本からは絹布や生糸などを輸出し、渤海からは人参、熊、虎やテンなどの毛皮、経典、仏具などがもたらされた。渤海の国が滅びるまでの約200年間交流は続いた。その間、渤海から日本へは34回、日本から渤海へは13回使節が送られた。訪日の間隔制限が取り払われたのちの渤海使は、809 年、810 年、814 年、818 年、819 年、821 年、823 年、825年、827 年と立て続けてやって来た。その回数が多かったため12年に1度に制限されたという。

■交易のために設けられた客館
松原客館は、現在の福井県敦賀市気比の松原近辺に渤海使節団を迎えるために越前国に設置されたとされ、「延喜式」「扶桑略記」などに記述がみられる。ほか、804年、能登国能登客院(のときゃくいん)が福良津(現在の石川県志賀町福浦港)に設置されたとされる。渤海使は石川に着くことが多かったようだ。

渤海船の渡航ルート
日本へ渡来はメインは太宰府となるが、渤海からはうまく着港せず、複数の航路、港での出迎えとなったようだ。渤海から日本へのルートは南渤海航路、高句麗渤海航路、北渤海航路、靺鞨(まつかつ)航路が存在。一方の日本から渤海へのルートは渤海渡航路がある。冬に日本に渡来し、春になるまで客館でもてなされていたのだろう。接待費に関する持ち出しが多くなったため遣使への制限が行われたようだ。

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渤海の滅亡
9世紀前半、第10代のときに国土は最大となって繫栄した。しかし次第に内部崩壊、第15代の926年のとき契丹からの攻撃を受けて滅亡した。当時、東アジアは激動の時代であった。907年には唐も滅亡していた。また、939年に新羅も滅亡、今度は高麗が朝鮮を統一する。渤海では809年、日本に来た高南容の一行が810年に帰国する際、首領の高多仏が使節団から脱走、越前国に留まったとされる。

■まとめ
渤海(以前の高句麗)側からすると最も辿り着きやすかったのは石川(能登)、福井(敦賀)などの北陸、入り江となる地域。

■感想
渤海からの渡航ルートを確認できた。日本海側の能登敦賀など古代においても渤海方面からの渡来が多かったと思われる。継体天皇(男大迹(ヲホド))は越前国あるいは近江国を治めていたとされる。敦賀は琵琶湖とも近く、古代の日本史に大きく影響を与えていたと考えられる。

<参考>
白村江の戦い - Wikipedia
耽羅 - Wikipedia
斉明天皇 - Wikipedia
渤海 (国) - Wikipedia
・世界の窓:渤海/海東の盛国
松原客館 - Wikipedia
能登客院 - Wikipedia
日本海学講座 「渤海と古代の日本」 講師 國學院大學栃木短期大学 教授 酒寄 雅志 氏/渤海とその交易ルート http://www.nihonkaigaku.org/library/lecture/i110211-houkoku.pdf
教養番組「知の回廊」23「古代アジアの交流」 | 中央大学