シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

169.新羅との532年以後の遣使による関係

日本にとっては新羅とは、任那を奪われたり、白村江の戦いで破られた相手である。そのため古代においてはある時から敵国となっていたかのようなイメージがある。しかしそれは一面的な見方であって、新羅との関係が遣使を通じて続いていた。

任那白村江の戦い新羅
日本は562年までに朝鮮半島加耶地域(金官国含む)の支配権を失う。その一方で新羅が532年に金官国を獲得、562年に大加耶を戦いによって獲得、任那の官家(みやけ、屯家とも。ヤマト王権の直轄地)を占領したとされている。さらには白村江の戦いでは唐・新羅軍が日本、百済遺民軍を破る。新羅の内政としては、527年には仏教を導入、536年には新羅独自の年号「建元」を制定した。

■日本の新羅使の始まり
562年より始まったとされる。575年(敏達天皇4年)には、新羅が旧任那の4つの村の貢納を代理で行う義務を負ったとされる。その4つの村とは529年(継体天皇23年)に日本書紀で記載のある多多羅(たたら)、須那羅(すなら)、和多(わた)、費智(ほち)の村。近江毛野が失った旧任那の地域にあたるとされる。

新羅朝貢スタイル
新羅は日本に対し、自国の調と任那の調を同時に貢上するという形式をとった。611年には新羅任那の使人が到着する。このとき、「二つの国」の使者に入国の目的を弁じさせ、額田部連比羅夫、膳臣大伴が「各国」の荘馬(かざりうま)の長(おさ)を担当するという、別々の国に対し、入国目的を伺い、そして別々の国として対応するという形式をとったようだ。

百済新羅から旧任那の中心地域を奪った642年
642年(皇極天皇元年、百済義慈王2年)、百済新羅から旧任那の中心地域を奪う。すると、任那の調は百済が納めることとなった。645年、高句麗百済新羅の3国が調を日本に対して献上する。その際は百済任那の使いを兼任した記述がみられる。その後、新羅からは人質を取ろうとなる。小野妹子などと遣隋使として同行した学者、高向 玄理(たかむこ の くろまろ)が新羅に赴いた。外交交渉を行い、647年に金春秋が人質として日本に送られてくる。この金春秋はのちの新羅の第29代の武烈王(在位:654年 - 661年)であった。

白村江の戦い後の遣使
日本は663年の白村江の戦い新羅との国交はいったん中断する。しかし668年(天智天皇7年)に再開、頻繁な遣使が双方でなされた。8~9世紀には日本からの遣新羅使は17回、 双方あわせて20回ほどとされる。

新羅の国交の終わりと滅亡
日本と新羅の正規の国交は779年までとされる。また、918年には後高句麗の豪族「王健」が新羅を滅ぼし、高麗を建国する。 935年、新羅の敬順王は高麗に国を譲渡、新羅が滅亡した。

新羅からの輸出品
新羅からは唐、西域、南海からの香料、顔料、染料や薬品類。そして国産品として人参、松の実、蜂蜜、食器・じゅうたんなどが取引されたようだ。

■まとめ
任那を失ったあとも新羅との関係は続いていた。白村江の戦い後も、5年後には遣新羅使が復活する。

■感想
白村江の戦い後の国内が疲弊、防人を設置などをするのだが、それを考慮に入れても、その後の新羅との関係をみると日本の敗戦は致命的ではなかった様子。一方、渡来人の高向玄理のまるで岩倉具視のような活躍、百済高句麗の亡命者の受け入れ、新羅渤海、唐との遣使などをみていくと、日本は負けながらも次々と戦略目標を達成したり、テクノクラートを獲得していくプロフェッショナルであるという独特の国家像が古代日本を通じて伺える。

<参考>
新羅 - Wikipedia
朝鮮の君主一覧 - Wikipedia
新羅使 - Wikipedia
武烈王 - Wikipedia
高向玄理 - Wikipedia