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176.魏志倭人伝と卑弥呼の時代:遣使の登場人物と卑弥呼の死亡の経緯編

前記事に続き魏志倭人伝の内容から、今回は遣使時の登場人物や朝貢した物、もらった物などを時系列で紹介することで当時の倭国の様子を具体化する。

注:魏志倭人伝など中国の史書は古く、また他国の人の見方で書いており、全てが正しいとは限らない。

■238年6月(景初2年)
卑弥呼は大夫の難升米(なしめ / なんしょうまい)、次使の都市牛利(つしごり)らを帯方郡に派遣、天子に朝献(外国の使いが来朝し朝廷に貢物をさし出すこと)を願い出た。

・帯方太守の劉夏は役人を遣わし彼らを都の洛陽に送った。倭の使者は男の生口4人、女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。

解説:
・生口:奴隷のこと。10名が移民したことになる。帯方郡、洛陽かは不明。
・班布:木の繊維をもとに織られた布。1匹は4丈。2匹2丈は計10丈。1丈は10尺。よって2匹2丈は100尺。1尺は約30.3cmのため100尺だと約30mくらいの長さ。

■238年12月
皇帝は詔書し、倭に対して返答する。女王を親魏倭王とした。金印紫綬を授けるよう帯方太守に手配した。魏では国王に対して金印紫綬を授ける制度があった。銅鏡100枚、そしてほかの下賜品を与えられた。遠きを渡った勤労として難升米が率善中郎将を、都市牛利が率善校尉を与えられ、また銀印青綬を仮授した。

解説:
仮授:仮に授けるのか、天子からの代理の者が授けるかなど諸説ある
率善中郎将:率善とは現地人を率い善をなす意味があるという。中郎将とは宮や城の脇の門を守衛する武官にあたる。その中郎将の下僚が校尉。
その他の下賜品:
・絳地交龍錦(あかじこうりゅうきん):5匹。赤の布地に龍が交差した錦で高級の織物
・絳地縐粟罽(あかじすうぞくのけい):十張。赤の布地に粟模様のちぢみ毛織物
・蒨絳(あかねあか):五十匹。深紅色のつむぎ。
・紺青(こんじょう):五十匹。濃い群青色の織物。
・紺地句文錦(こんじくもんきん):三匹。紺色のカギ模様のついた錦
・細斑華罽(さいはんかけい):五張。細かい花模様をまだらにあしらった毛織物。
・白絹(しらぎぬ):五十匹
・金:八両
・五尺刀(ごしゃくのとう):二口
・銅鏡:100枚
・真珠
・鉛丹(えんたん):各五十斤。黄色がかった鮮やかな赤色顔料。

卑弥呼に関わる場所を比定する際「三角縁神獣鏡」の出土を根拠とする場合がある。しかし中国や朝鮮で「三角縁神獣鏡」の出土がない。このことは三角縁神獣鏡」は国産の鏡ではないかとする見解がある。
・一大率の伊都国で検品し保管されている可能性もある。伊都国(糸島市)の弥生時代の古墳に「平原遺跡」がある。1号墓は方形周溝墓。その副葬品の中で上記の卑弥呼の遣使で授かったものの中で合致しそうなものは次のようなものがある。大型内行花文鏡:5面(または4面)、内行花文鏡:2面、方格規矩鏡:32面、四螭文鏡:1面、素環頭大刀:1本。ただし銅鏡が見つかっている遺跡は他にもあり特定は難しい。

■239年(景初3年)
1月1日、魏の皇帝である明帝(曹叡)が崩御、斉王が皇帝となった。

■240年(正始元年)
明帝の239年の崩御により魏の明帝の下賜品は240年に届くこととなった。帯方太守の弓遵(きゅう じゅん)は建中校尉梯儁(ていしゅん)らを遣わした。詔書印綬倭王に仮授、そして下賜品を与えた。倭王は来日した使者に対し、感謝を示す上表文を提出した。
解説:
・当然だが倭国に当時の中国語を話せる者がいることがわかる。また上表文を作成する文書を書ける者がいる。文書を作成できる者は邪馬台国内でも位が高かったであろう。
・弓遵:245年に韓族の臣智(しんち)が反乱を起こした際に、鎮圧にあたったときに戦死した。臣智は三韓の官名で政治的支配者の称号の一つ。東アジア民族史1によれば臣智は朱智(国王)の意味とされる。秦支または、踧支とも呼ばれた。臣は秦、辰と共通する音であるとされる。

■243年(正始4年)
女王は再び魏に使者を送る。大夫の伊聲耆(いせき、いせいき)、掖邪狗(ややく、えきやく)ら8人を遣わした。絳青縑(あかあおのかとり)、緜衣(めんい)、帛布(はくふ)、丹木、短い弓、矢を献上した。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした。

■245年(正始6年)
皇帝(斉王)は帯方郡を通じ、難升米に黄幢(こうどう)を下賜するよう詔した。
解説:
・黄幢:黄色い旗さし
・245年、韓との戦いにおいて太守弓遵が戦死したため下賜は実行されていないとされる。

■247年(正始8年)
新太守に王頎(おうき)が着任する。卑弥呼は狗奴国(くなこく)の男王、卑弥弓呼(ひみここ)と不和であった。倭は載斯烏越(さしうお)らを使者とし、帯方郡に派遣、狗奴国と互いに交戦している状況を報告した。太守は塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)らを倭国に派遣した。詔書と黄幢を難升米に仮授した。そして木簡により人員招集の触れ文を出した。そして卑弥呼以(すで)に死し、大いなる塚をつくったと。殉葬者は奴婢100人余りがいた。その後、男の王がたった。しかし国中が従わず誅殺しあった。これにより千人程度が死んだ。のち台与が王としてたった。卑弥呼の宗女、13歳のときであった。張政は木簡をつくって告諭した。台与は大夫率善中郎将の掖邪狗ら20人を遣わせ、張政らを送って帰らせた。掖邪狗らは都に向かい、男女の生口30人、白珠5000孔、青大句珠(あおのおおまがたま)2枚、異文雑錦(いもんざっきん)20匹を朝貢したとされる。
解説:
・塞曹掾史:武官を示す肩書。
卑弥呼の後に立った男王:大日之命と考えられる
卑弥呼以(すで)に死し:北史の倭伝によれば「正始中、卑弥呼死す」とあり、正始8年から10年にあたる247年~249年までの3年間の間に死亡したとされる。必ずしも247年に死亡したとは限らない。
・大いなる塚:径百余歩とあり一歩が6尺、24cm前後で144m程度の塚と考えられる。
・殉葬者:埴輪は殉葬をやめるため焼き物の人形を使うことになったと考えられる
・台与の遣使:晋が265年に建国され、晋書によれば倭人が266年に朝貢した記録が中国の史書に残っている。266年の遣使の人物は台与と考えられている。

■まとめ
卑弥呼の死亡は狗奴国との戦いに起因、247-249年に死亡か
・張政らは武人であり、複数名の存在が示されている。戦地に赴いたのであり最低数十人規模だろうか。するとその関係性は同盟関係であっただろうか。偵察の意味もあったのかもしれないが。また滞在期間は247年~266年、19年ほど。魏や倭国も乱れていたための長期滞在となったか。あるいは倭人伝の記述の矛盾、あるいは記載外のこともあるのかもしれない。

■感想
卑弥呼の塚は熊本だろうか
・弓遵を調べたことにより。臣智、秦支または踧支が240年~245年時点で秦氏に近い者たちが帯方郡にいる。そして帯方郡に対し乱を起こしていることがわかった。
卑弥呼の遣使と平原遺跡の関係ははたしていかがだろうか

<参考>
・現代語訳 魏志倭人伝 松尾光
・新訂 魏志倭人伝 他三篇 石原道博編訳
・東アジア民族史1
魏志倭人伝 - Wikipedia
平原遺跡 - Wikipedia

劉夏 (帯方太守) - Wikipedia
大夫 - Wikipedia
弓遵 - Wikipedia
臣智 - Wikipedia
王頎 - Wikipedia
張政 (塞曹掾史) - Wikipedia