シン・ニホンシ

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177.倭の五王の称号から秦氏の「秦韓国」の存在を確認する

朝鮮史における三国時代では、朝鮮半島満州地域にて高句麗百済新羅の三国が鼎立した状態となる。しかし実際はこれら3国だけが存在していたわけではない。時代や地域をわけるとより多くの国名(地域)が存在する。ここでは歴史の中に埋もれていった「秦韓国」に焦点をしぼり、その存在について倭の五王の称号から確認する。

■前提知識:4世紀頃~
4世紀頃には朝鮮半島満州地域において高句麗百済加耶新羅が存在していた。
なお5世紀には領土は変化していき、7世紀には加耶地域は百済新羅の領土となっていく。

■3世紀頃
3世紀頃までさかのぼった時代ではどのような状況であっただろうか。
高句麗高句麗楽浪郡の地域だった。楽浪郡は紀元前108年~313年まで存在した。
百済馬韓帯方郡の地域だった。帯方郡は204年~313年まで存在した。
加耶弁韓の地域だった。
新羅辰韓の地域だった。

■秦韓国の存在を確認する
つぎに、歴史の流れで埋もれてしまった秦韓国を確認したい。そこで5世紀から6世紀にかけての倭の五王の遣使に関する情報を利用する。

倭の五王の遣使
かつて朝鮮半島エリアの軍事や支配の正当性に関し中国が称号を与えた。413年~512年頃まで、倭国は賛、珍、済、興、武らが中国に対し遣使を行った。いわゆる冊封体制の一環である。その際、朝鮮半島における支配を求めるため、倭国側が将軍号の承認を要求したり、中国側がそれを許可した。なお、要求(自称することを含む)と承認は異なるが、双方がその国々の存在を認めていたからこその主張と判断できる。

倭の五王の遣使から証明する意味
倭の五王の遣使は日本の歴史学会でも正統な史実として扱われている。その情報入手の容易性と透明性からくる客観性に着目、朝鮮半島エリアでの国名の動きをとらえる。これより「秦韓国」の存在を検証する。
※詳しくは過去記事「142.古代中国との遣使の歴史」も参照頂きたい。

■438年・珍
倭が「使持節都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し「安東将軍倭国王」を賜った。これより国としては
 ・倭
 ・百済
 ・新羅
 ・任那
 ・秦韓
 ・慕韓
の六国が存在していることがわかる。

■ 451年・済
「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はそのままであった。これより国としては
 ・倭
 ・百済
 ・新羅
 ・任那
 ・加羅(新規)
 ・秦韓
 ・慕韓
と新らしく加羅が登場した。

■477年:武(?)
武は自ら「使持節都督倭・百済新羅任那加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称す。国としては451年と同様である。

■478年:武
自ら「開府儀同三司」と称して承認を求めた。順帝は武を「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とした。国としては451年と同様である。なお、479年は武で「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号、502年も武で「征東大将軍」に進号するが、国(地域)の名前は登場しない。

■考察
高句麗百済加耶新羅と便宜的に呼んでいる地域において、倭の5王が遣使した5世紀においては次の通り。
伽耶エリア ⇒ 任那加羅弁韓とも)
百済エリア ⇒ 慕韓(馬韓とも)
新羅エリア ⇒ 新羅、秦韓(辰韓とも)
となっていた。なお満州地域にあたる高句麗では中国と近接、強国でもあったため倭の支配は及ばない。ちなみに高句麗は502年時点では「車騎大将軍」であった。

■補足
「東アジア民族史1/後漢書韓伝」より引用する。”辰韓の老人たちは次のように言っている。私たちは秦から逃れてきた亡命者です。秦の苦役を避けて、韓族の国にやってきました。馬韓はその東部の地域を割いてわれわれに与えてくれました。”とある。
百済が秦韓に土地を与えた。最終的には新羅が強くなり秦韓も新羅が吸収していったのだろう。なお扶余族が高句麗百済を建国した。また扶余自身は濊の土地に扶余族が入ったという経緯を持つ。濊、扶余とも南下、三韓の時代、朝鮮半島において濊も領土を持っていた。

■まとめ
・413年~513年の倭の五王による遣使の時代、辰韓と呼ばれた地域に新羅、そして「秦韓」が存在していた。
・秦韓は中国の秦王朝(紀元前221年~紀元前206年)の亡命者による、移民の国家と考えられる。

■感想
秦氏は弓月国(中央アジアカザフスタンあたり)⇒秦王朝(首都は咸陽市)⇒秦韓と移動する。
・秦の始皇帝(あるいは呂不韋)の立法能力、始皇帝陵(ピラミッド型)の都市建設能力、および兵馬俑の彫刻能力は西方由来と考えられる。
・辰国が辰韓弁韓に分かれた。辰国がさらに古い時代のスサノオの関与地域だろう。
渤海は「震国」を名乗った。「震」という国名は「易経」にある「帝は震より出ず」から名づけたとされる。「辰」と共通の概念と考えられる。

<参考>
142.古代中国との遣使の歴史:57年、107年、266年の遣使タイミングの意味とは? - シン・ニホンシ
・東アジア民族史1
楽浪郡 - Wikipedia

帯方郡 - Wikipedia
倭の五王 - Wikipedia
武 (倭王) - Wikipedia
三韓 - Wikipedia
秦(王朝) | 世界の歴史まっぷ
渤海 (国) - Wikipedia