シン・ニホンシ

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179.周溝墓から弥生時代前期がわかる

前記事で「古墳時代」という時代区分は纏向の箸墓古墳を基準に定義されていることを紹介した。今回は墓制である「周溝墓」に着目し、弥生時代の謎に迫る。現在弥生時代は500年程度さかのぼることが知られている。すると旧来の定義の「紀元前300年頃」には何が起きていたのだろうか。

弥生時代の墓制
稲作や渡来によって人口も増え、また王と一般民の身分の関係から墓制が多様化する。
・土壙墓:穴を掘ってその中に埋葬したもの
・木棺墓:木の板を組み合わせ棺をつくり、その中に埋葬したもの
・土器棺墓:土器を棺としたもの
・石槨墓(せっかくぼ):穴を掘り、石を積み上げ、その空間に埋葬したもの
・墳丘墓:周辺を削ったり、盛り土をしたりして一部を高くして墳丘をつくったもの
・周溝墓(しゅうこうぼ):土を盛って墳丘をつくり、周りを溝によって区画をつくったもの。方形と円形がある。墳丘が方形のときは方形周溝墓、円形のときは円形周溝墓とされる。方形のときはたくさん棺があることが多く、円形のとき棺は原則1つとされる。

■周溝墓のはじまり
縄文時代には周溝墓はなかった。方形周溝墓、円形周溝墓とも弥生時代に入ってから出現した。しかし、その分布の範囲は異なる。なお、周溝墓発見の経緯は1964年に東京都八王子市の宇津木遺跡で方形周溝墓が最初に確認された。以降、各地で発見された。

■方形周溝墓
弥生時代前期に出現し九州から東北までの範囲で分布した。地域を細かくみると、
福岡()、丹後、但馬、そして兵庫県大阪府香川県といった瀬戸内海東部地域(沿岸)に出現する。前期後半には近畿地方のほぼ全域でみられるようになる。そして前期末には三重県、愛知県、岐阜県と東に広がった。ただし岡山県から西の地域には広がらなかった。なお、現時点では最古の方形周溝墓は弥生時代前期中頃(紀元前250年頃)の大阪府茨木市の東奈良遺跡 とされる。
※福岡の方形周溝墓には東小田峰遺跡(福岡県朝倉郡筑前町)、板付遺跡(福岡県福岡市博多区)がある

■円形周溝墓
弥生時代前期には瀬戸内の岡山県香川県で分布する。その後、兵庫や大阪にも広がったが、方形周溝墓と比べると数は少なく例外とされる。よって方形周溝墓と違い範囲は広がらなかった。特に円形周溝墓は、一人の人を埋葬するために建造された。

■まとめ
・近畿・東海は方形周溝墓
・瀬戸内は円形周溝墓
・福岡の筑前、博多、丹後、但馬などにも存在

■感想
・従来の弥生時代は紀元前3世紀~古墳時代が始まる前の3世紀中ごろまで。最新の定義では500年さかのぼることがわかっている。
・記事166.水田稲作の拡散状況から再定義する「弥生時代」の始まりでは水田稲作が普及したことを示した。
・本記事では旧来定義による紀元前300年頃より「周溝墓」の墓制文化を持つ人たちが活躍している可能性を示した。
・周溝墓の分布状況から場所は福岡、あるいは丹後、但馬を起点とし、その後瀬戸内(例えば播磨)に到達、そして兵庫、近畿へ移動へと移動したようだ。

日本書紀風土記などに記された、丹後、但馬、播磨、大和、摂津、尾張などに関して渡来人に関する情報が何らかの真実を語っているという手がかりが示された。

<参考>
・詳説 日本史図録 山川出版社 第9版
・播磨の弥生墓:http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/unekokokan/pdf/tokubetuhaifu2015.pdf
京都府埋蔵文化財情報 方形周溝墓の成立 p32
  http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/jyouhou/kyoutofu-J82.pdf

京丹後市制10年記念・丹後古代の里資料館秋季特別展示/但馬国府・国分寺館連携事業 丹後VS.但馬-古代文物の徹底比較!- https://www.city.kyotango.lg.jp/material/files/group/43/tangovstajima.pdf