シン・ニホンシ

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180.四隅突出型墳丘墓は弥生時代中期後半から~西谷3号墓からわかる出雲と吉備と越の関係~

弥生時代の墳丘墓には方形周溝墓および円形周溝墓、そして今回紹介する「四隅突出型墳丘墓」が存在する。その分布状況などを知ることで、弥生時代に何が起きていたかの手がかりをつかむ。

■四隅突出型墳丘墓
方形墳丘墓の四隅がコタツあるいはヒトデのような形をした墳丘墓。その原型は「方形貼石墓」とされる。四隅突出型墳丘墓は長方形で台上を基調とする。そして斜面部分に貼石を施す。さらに裾まわりに立石(りっせき)の烈、石敷きの、装飾や配列構造を持たせたもの。斐伊川を眼下に臨む丘陵の上にある出雲市の西谷3号墓の場合、立石と敷石(しきいし)が各2列存在している。これまでの墳丘に比べ、この時代の四隅突出型墳丘墓では王墓が見せる王墓へと変わり、権威を象徴するものへと変化していることが見てとれる。この西谷3号墓では北陸系や吉備系の土器も見つかっており、それらの地方からとの連携ないしは支配関係が想像される。最初に1969年に順庵原1号(島根県邑南町)で発見された。現在は100基余りが発見されている。
参考:↓は西谷古墳群

ja.wikipedia.org↓では西谷3号墓から出土したものが紹介されている。弥生時代後期(1-3世紀前半)の山陰地方、特に出雲で王が存在していたことがわかる。
弥生王墓誕生―出雲に王が誕生したとき―|島根県立古代出雲歴史博物館

■四隅突出型墳丘墓の分布
弥生時代中期後半に広島県三次盆地周辺で四隅墓が誕生する。弥生時代後期になると伯耆(ほうき)や因幡などの山陰地方、出雲を中心としながら北陸地方へ広がっていった。ただし、近年、出雲の青木遺跡から最も古い時代のの四隅突出型墳丘墓が見つかった。これより四隅突出型墳丘墓は出雲が起源であると考えられるようになった。

参考①:出雲市青木遺跡がYOUTUBEにて確認できる

www.youtube.com

参考②:鳥取県埋蔵文化財センター資料、エリアと時期別の拡散状況が確認できる
鳥取県埋蔵文化財センター:https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/76301/yosumi.pdf

■まとめ
・方形貼石墓を原型とした四隅突出型墳丘墓が弥生時代中期後半(紀元前2世紀の後半)に出現、四隅がヒトデのような形をしており、特殊な形である
・四隅突出型墳丘墓は貼石による装飾、配列をもたせるなど、見せる王墓へと変わった
・西谷3号墓から出土した土器により、出雲と吉備、北陸とのつながりが確認できる
・四隅突出型墳丘墓は出雲や安芸・備後・美作から、やがて伯耆因幡で出現、のち石見、出雲、隠岐、あるいは越(北陸)で頻出するようになっていく。

■感想
「四隅突出型墳丘墓」を調べることで、卑弥呼邪馬台国の時期以前の出雲、吉備、越などとのつながり、そして四隅突出型墳丘墓の出現を確認できた。この四隅突出型墳丘墓の時代が終わると、古墳時代、纏向から前方後円墳が始まる(実際は纏向に王権が誕生したので四隅突出型墳丘墓が終わったのかもしれない)。

<参考>
・出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群 渡辺貞幸
京都府埋蔵文化財調査研究センター 方形貼石墓概論
 http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/05higo.pdf
四隅突出型墳丘墓 - Wikipedia
西谷3号墓発掘調査報告書 - 全国遺跡報告総覧