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181.アメノヒボコと伊和大神の播磨国の波加村での土地争い

前記事にて四隅突出型墳丘墓が出現、出雲の山陰や瀬戸内、北陸方面とのつながりを示した。本記事では主に播磨国を舞台とし、日本書紀にみられるアメノヒボコ播磨国風土記にみられる伊和大神を紹介する。越の国が新羅派である理由がわかる。

播磨国風土記
奈良時代初期に編纂された。播磨国山陽道に位置、現在の兵庫県南西部にあたる。
アメノヒボコ
播磨国風土記」では渡来神、「古事記」では「天之日矛(あめのひぼこ)」、「日本書紀」では「天日槍(あめのひぼこ)」と表記される。「日本書紀」の垂仁天皇三年三月の箇所にて、新羅の王の子、天日槍が帰って来たと記されている。
その際、次の七物(ななくさ)を但馬国に納め、神宝としたとされる。
 ・羽太の玉(はふとのたま):1箇
 ・足高の玉(あしたかのたま):1箇
 ・鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま):1箇
 ・出石の小刀(いづしのかたな):1口
 ・出石の桙(いづしのほこ):1枝
 ・日鏡(ひのかがみ):1面
 ・熊の神籬(くまのひもろき):1具
この別伝では8物を献上したとされ、天皇天日槍に播磨国の宍栗邑(しさはのむら)、淡路島の出浅邑(いでさのむら)への居住を許したとされる。しかし天日槍は諸国をめぐり心にかなったところをたまわりたいと伝えた。天日槍は、宇治川を遡り、近江国の吾名邑(あなのむら)に入ってしばらく住んだ。そして近江から若狭国を経て、西の但馬国(たじまのくに)に居住を定めた。これをもって近江国の鏡村(かがみのむら)の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となったとされる。
※なお、朝貢の文化を持つのは倭人と扶余人。

アメノヒボコの渡来時期を垂仁天皇の在位から推測
在位前29年~70年。次の景行天皇の在位は71年~130年。景行天皇ヤマトタケルの時代を示していると考えられる。すると200年代後半~300年代前半。単純計算では景行天皇200年ほどずれがみられる。垂仁天皇の時期に200年を加える。すると171年~270年頃。出雲から瀬戸内、近畿、北陸などへと拡散した四隅突出型墳丘墓は弥生時代中期後半(紀元前2世紀の後半)~古墳時代手前の220年であった。よって重なる時期がみられる。推測ではあるが、おおよそ150年頃~200年くらいの時期にアメノヒボコ新羅人、渡来系倭人)が帰って来たのだろうか。

■伊和大神(いわのおおかみ)
播磨国宍禾(しさわ)郡伊和村を本拠とする伊和君(いわのきみ)の一族が奉じた神とされる。日本書紀には登場せず、播磨国風土記にみられる。宍禾郡(しさはのこおり)、波加(はか)の村の箇所で、天日槍と国争いをした記述がみられる。天日槍命が伊和大神より先にここに来た。 伊和大神「はからぬ先に到りしかも」と残念がった。そこで波加(はか)の村と言われるようになった、とされる。

■まとめ
日本書紀播磨国風土記アメノヒボコは登場
・推定で150年頃~200年頃の渡来
波加村でアメノヒボコ伊和大神が国の土地争いをした形跡がみられる
アメノヒボコ播磨国近江国、若狭を経て最終的には但馬国に居住したとされる。このあたりが越の
国が新羅派である理由だろう。
■感想
・垂仁と景行の時間的関係性を根拠にアメノヒボコの渡来時期を推測した。ただし風土記の内容の具体さからするともう少し時代が下るのかもしれない。しかし四隅突出型古墳、
纏向の箸墓の誕生を考えれば、この頃、瀬戸内海をある程度の人間が往来していたと考えられる。もともと日本は古来から海洋国家であった。

<参考>
風土記 下 現代語訳付き 中村啓信 監修訳注
日本書紀(二) 岩波文庫

アメノヒボコと伊和大神の足跡 | 兵庫県立歴史博物館:兵庫県教育委員会
アメノヒボコ - Wikipedia
・『播磨国風土記』における伊和大神伝承について
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=22498&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1
播磨国 - Wikipedia