シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

182.中国の皇帝と三国志からかわる弥生時代後期の時代

日本史は東アジアの東の地で、世界史の影響を大きく受けた国だった。そして中国、朝鮮半島に影響を大きく受けていた。今回は特に中国の弥生時代における歴代皇帝と三国志の時代を紹介する。これより220年頃の四隅突出型古墳が終わり、箸墓に前方後円墳ができる頃の時代、新羅の渡来者が増える原因を理解する。
※秦韓、新羅とも朝鮮半島の東側(右側)、日本側の地域です

■秦
秦は中国初の統一王朝。嬴政(えいせい)が初の皇帝を名乗り始皇帝と呼ばれる。実は始皇帝の時代は11年間(紀元前221年 - 紀元前210年)。二世皇帝は約2年間(紀元前210年 - 紀元前207年)、3代目の秦王はわずか46日間(紀元前207年)、あわせて15年程度と短く、その理由は厳しい法による統治と公共事業による民衆の疲弊とされる。しかし秦の始皇帝より前も含めればその歴史は長く、始まりは荘公(紀元前821年 - 紀元前777年)にまでさかのぼる。秦の祖先は五帝の一人、顓頊(せんぎょく)の子孫とされる。「史記」秦本紀によれば、顓頊の孫娘が女脩(じょしゅう)であるとされ、次のような卵生神話がある。玄鳥(つばめ)の卵を飲んで身ごもって大業を、そしてその大業の子供が大費(益(えき)とも)とされる。
始皇帝については「143.秦の始皇帝陵はピラミッドなのだろうか?」↓参照頂きたい。
143.秦の始皇帝陵はピラミッドなのだろうか? - シン・ニホンシ

前漢西漢)と後漢東漢
前漢は紀元前206年~ 紀元後8年まで続いた。そして間に新(8年~23年)を挟んで、後漢(25年~220年)と続いた。皇帝制度はその帝位が穏便に継承されることはなく、高官、外積、宦官、将軍たちが争ったとされる。しかしその統治者たる「天子」がある意味での王権神授説、天界と人間界を仲介し、徳を持つ「天の子」たる「天子」が天下に調和と繁栄をもたらす代理者とされた。

易姓革命(えきせいかくめい)
孟子は中国の戦国時代の儒学者、思想家。紀元前372年頃 - 紀元前289年頃の人物とされる。孟子が革命の思想を明らかにしたとされる。天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせる。しかし徳を失った王朝に天が見切りをつけたとき「革命(天命をあらためる)」が起きるとされた。それを悟って天子が自ら位を譲れば「禅譲」、武力によって追放されることを「放伐(ほうばつ)」という。つまり易姓革命が起これば、基本、君主である天子は禅譲しない限りは放伐される。

後漢とその後の時代
後漢は220年に滅亡する。そのあと魏、呉、蜀の三国時代に入る。日本の中国に対する朝貢について「142.古代中国との遣使の歴史:57年、107年、266年の遣使タイミングの意味とは?」に記したが、239年には邪馬台国の女王卑弥呼がこの魏、明帝に対して朝貢を行う。その後明帝が没し、斉王(在位:240年~253年)が王となる。また266年には台与が西晋の都、洛陽に朝貢した。これは西晋の祖、武帝司馬炎:在位265年-290年)に対する朝貢であった。基本、倭国は政変のタイミングを察知、冊封関係を築いた。当時は動乱のたびに亡命者が渡来し、単に渡来者によって人口が増える、新たな技術がもたらされるという以外に、人びとの暮らしの安全が脅かされていた。

■激動の三国志の時代
三国志後漢末期~三国時代の180年頃から280年頃の興亡史。黄巾の乱が184年が起き皇帝の統制力が弱体化する。魏は220年~265年、呉は222年 - 280年、蜀漢(しょくかん、劉備が立てた国)は221年~263年まで続いた。赤壁の戦いは208年。人物としては没年順に紹介すると、董卓(不明~192年)、呂布(不明~199年)、曹操(155年~220年)、劉備(161年~223年)、孫権(182年~252年)。

■呉から戦乱を避けて逃れた人びと
呉の時代の戦乱から逃れ、九州の太宰府などに逃れてきた人々がたくさんいる可能性がある。江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)、福岡県太宰府の隈西小田遺跡から採取したDNAを比較した結果、一致がみられたとの発表がなされている。呉は台湾などとも近い。稲作の渡来ルートにも江南ルート、そして説として南西諸島経由もみられ、この三国時代、中国から武将たちの亡命をもらたした可能性が高い。
参考:
①:倭人 - Wikipedia
②:呉 (三国) - Wikipedia

■考察
三国志の時代(180年頃~280年頃)と邪馬台国卑弥呼、台与の時代、そして纏向の箸墓古墳の成立期が並立していると言うと不思議な感覚に陥る。しかし事実である。いかにその時代おそらく朝鮮が亡命者の影響を受けて激動、そして日本にも亡命者が多く、稲作水田技術をもたらした渡来などとまったく様相の異なるものであったことが想像される。ゆえに、中国の激動に押され、かつて朝鮮半島に進出した者たちの子孫の一部(倭人)が新羅からリターンした。

■感想
中国の歴史と倭国の歴史を易姓革命三国志邪馬台国の遣使、纏向の箸墓古墳出現までを含めて紹介した。

<参考>
・中国皇帝歴代誌
顓頊 - Wikipedia
益 (中国神話) - Wikipedia
卵生神話(らんせいしんわ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
易姓革命 - Wikipedia
142.古代中国との遣使の歴史:57年、107年、266年の遣使タイミングの意味とは? - シン・ニホンシ