シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

185.弥生時代の文化を知る「重さを計る分銅」の出土

弥生時代の「重さを計るための分銅」が出土されている。石、青銅製の2つのタイプが出土されている。古代の分銅が顔料の計測などに使われたことがわかる。
※6/5、吉野ケ里遺跡で顔色赤料が検出されたため、多少関連するテーマを記事にしました

次の流れで紹介する
・国内最古の石の分銅
・計量用の石の重り「権」 
・青銅製分銅「環権」
後漢書倭人伝での倭人の記述
・まとめ

■国内最古の石の分銅
大阪・亀井遺跡は弥生時代前期末、約2400年前の環濠集落。亀井遺跡(大阪府八尾市など)で出土していた石製品、11点が国内最古の分銅であるということがわかっている。石の分銅と一緒に出土した石きねには祭祀などに用いられた貴重な赤色顔料の朱が付着していた。このため朱の配分を行う際、重さを量るために用いたと考えられる。
↓は日経新聞のサイトによる記事
www.nikkei.com
以下はYOUTUBE:共同ニュースでの動画↓

www.youtube.com

■計量用の石の重り「権」 
福岡県春日市の須玖(すぐ)遺跡群において2020年12月、福岡県春日市での、石の分銅「権(けん)」が出土された。須玖遺跡群は魏志倭人伝に記された奴国(なこく)の王都とされている。弥生時代中期前半(紀元前2世紀頃)とされる。記事では奴国が大陸の度量衡の制度をいち早く受容していたことがわかった、と紹介されている。
www.yomiuri.co.jp

■青銅製分銅「環権」
滋賀・下鈎遺跡(しもまがりいせき)において、1999年に出土した銅環(環状の青銅製品)は中国起源であり、天秤の分銅として使われた「環権(かんけん)」であると推定されたと発表がなされた。下鈎遺跡は弥生~古墳時代の集落跡。顔料の計量に使用されたのでは、とされている。

mainichi.jp
後漢書倭人伝での倭人の記述
後漢書倭人伝は25年~220年頃の時代の倭人について記されたもの。
・糸を紡いで布を織る技術を持っていて、縑絹(かとりぎぬ)を生産する。縑絹とは太糸で糸密度を多くし、固く厚手に織ったもの、あるいは別の見解では生地のまま(未精練の状態で)の織物とも考え られている。
・男子はみな黥面文身(げいめんぶんしん)し(顔や体に入れ墨)、入れ墨の位置の左右や大小によって身分の上下を区別している。
・男子の衣服は横広の布を結束して連ねただけのもの
・女子は髪を束ねているだけで、単衣のような衣服に頭を通して着ている
・男女ともに丹や朱を体に塗りたくっているが、これは中国で白粉を使って化粧するようなもの

と紹介されている。
黥面文身土偶岡山市で見つかっている↓
黥面文身土偶 | 岡山市
■まとめ
弥生時代倭人は織物の技術を持っていた。
・男性は顔、あるいは体に入れ墨していて「黥面文身」という
・女性は髪を束ね、単衣のような衣服を着ている
・顔料は貴重であり、当時の分銅で重さを計っていた形跡のある遺跡もある

<参考>
・昔の絹 ・ 今の絹:https://www.jstage.jst.go.jp/article/senshoshi1960/24/3/24_3_82/_pdf/-char/ja
奴国 - Wikipedia