前記事で唐書を根拠として倭奴国は鹿児島、魏志倭人伝の狗奴国であることがわかった。本記事ではこれまでの内容をふまえつつ「倭奴国(狗奴国)」の視点で古代史を紹介。次の流れで紹介する。
・倭奴国
・倭奴国史(57年~250年頃)
・参考:後漢書倭伝
■倭奴国
古来の天之御中主、天照らの英雄・神々による南九州の王朝。場所は邪馬台国の南側、九州の南端とされるため、鹿児島と推定される。西暦180年頃の倭国大乱により邪馬台国が台頭しやがて勢力を失う。しかしその後も一定の力を保った。
■倭奴国史(57年~250年頃)
西暦42年、朝鮮半島の南部において首露王(スロワン)が駕洛国(金官伽耶)を起した。そして金官伽耶をはじめとする6つの小国の伽耶連盟が形成されていた。57年には新羅において「脫解尼師今(だっかいにしきん)」が王となったとされる時代。そのような半島情勢の中で同57年、倭奴国は後漢に朝貢を行った。光武帝は金印を授けた。
続いて中国で106年、後漢の皇帝が安帝へと変わる。倭奴国はそのタイミングを見計らい107年に師升(すいしょう)が遣使を行った。朝貢の規模は生口を160人となった。大船団となった。
その後、九州をまとめる男王が立った。70年~80年間継続した。しかし中国の霊帝の光和年間(178年 – 184年)の頃に「倭国大乱」が起きた。その争いは主に狗奴国と新興勢力の邪馬台国との闘いであった。
大乱の結果、倭国・九州の王が不在の状態が何年も続いた。そのよう中で邪馬台国は30余国をまとめるまでに成長した。そして卑弥呼が現れ、女王として立つことで国どうしの争いが治まった。
三国志・魏書倭人伝によれば狗奴国(倭奴国)の王は男子でその長官は狗古智卑狗(くこちひく)であった。邪馬台国に卑弥呼が立った時代においても狗奴国は服従していなかったとされる。
■参考:後漢書倭伝
後漢は25年から220年の時代。成立は432年とされる。編者は范曄(はんよう)による。
<参考>
・後漢書倭伝
・三国志・魏書倭人伝
・186.唐書からわかる倭奴国は鹿児島にあった - シン・ニホンシ
・175.魏志倭人伝と卑弥呼の時代:倭国大乱と人物関係編 - シン・ニホンシ
・142.古代中国との遣使の歴史:57年、107年、266年の遣使タイミングの意味とは? - シン・ニホンシ