シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

188.日本書紀の成立と隼人の乱のあった720年

邪馬台国の時代であった狗奴国、かつての倭奴国大和王権の時代を経てその後どうなっただろうか。「神話」と「鹿児島」をテーマに720年に起きた2つの出来事を通じて紹介。次の流れで見ていく。
日本書紀の成立した720年
高千穂峰の王国と伊邪那岐の大分の国
・隼人の乱(大隅の乱)
・隼人の乱の経緯
・戦略的要衝の地、薩摩
・まとめ

日本書紀の成立した720年
律令国家体制のできた701年より19年後の720年、日本書紀が完成した。日本書紀ではどのような内容が記載されているか。神代(かみよ、じんだい)から持統天皇(在位:690年~697年)の時代までを扱う。一方これより先に完成した古事記ではどうか。古事記は712年に成立。扱っている時代は天地開闢から推古天皇(在位:592年~628年)まで。日本書紀では天皇の年代に関しては追加があった。古事記では聖徳太子のいた「推古天皇」までだった。日本書紀ではその後の「舒明」「孝徳」「皇極/斉明」「天智」「弘文」「天武」「持統」が追記された。

高千穂峰の王国と伊邪那岐の大分の国
かつての紀元前9世紀~8世紀頃から存在したと考えられる天之御中主や天照の「高千穂峰の王国」、そして伊邪那岐伊邪那美のいた大分の国。記紀ではどう扱われているのだろうか。

神話化された神々がどこで活躍したかはわかるだろうか。高天原という天上界に天之御中主や天照がおり、天之御中主に関しては天地創生の箇所で名前が登場する。一方の天照に関しては伊邪那岐伊邪那美による国生みが終わったあと、天照大御神須佐之男命の箇所にて登場する。

地名のかわる記述に関しては神武の父の鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)の誕生において高千穂宮(たかちほのみや)が、神武の東征において日向(九州南東部)が登場する。
↓下記は神武の東征のイメージ

ja.wikipedia.org

■隼人の乱(大隅の乱)
霧島市隼人町の「隼人塚」は720年に「隼人の反乱」があったとされる場所。律令国家体制を築こうとしていたヤマト王権に対し、熊襲あるいは隼人と呼ばれた九州南部の人びとが反乱を起こした。大隅国国司の陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を殺害、その反乱は1年半に及んだとされる。理由は稲作中心の徴税制度に対してシラス台地の土壌が適さなかったためとされる。ヤマト王権側は征隼人持節大将軍大伴旅人(おおとものたびと)大伴旅人、副将軍の笠御室(かさのみむろ)、巨勢真人(こせのまひと)らを派遣し、反乱を鎮圧させた。一方朝廷に対して戦った人物として弥五郎どん(やごろうどん)または大人弥五郎(おおひとやごろう)の伝承がある。言い伝えによれば720年に勃発した「隼人の反乱」の際、律令政府に対抗した隼人側の統率者であったとする説が有力。これが「弥五郎どん祭り」の起源とされる。

参考:同じ720年、東北の蝦夷が蜂起したとされる。

■隼人の乱の経緯
日本では白村江の戦い(663年)による敗戦、そして壬申の乱(672年)による近江朝を制した天武天皇(在位:673年~686年)が飛鳥浄御宮原(あすかきよみやはら)を造営して673年に即位。そのような中で政権は隼人に対して朝貢を要請、また一部の隼人を政権周辺に強制移住などさせた。682年には「大隅隼人」「阿多隼人」のヤマト朝廷への朝貢の記録が残っているとされる。また、朝廷は南西諸島を経由した中国大陸との交流のため覓国使(べっこくし)という調査隊を組織、九州南部や南西諸島の調査を行っていた。700年、九州南部の各地で現地住民から威嚇を受ける事件が発生。702年には朝廷は大宰府に大量の弓を甲斐や信濃から集めた。そして薩摩・多褹(たね、現在の種子島)の叛乱を契機とし、九州南部に兵を送り日向国を分割、唱更国(しょうこうこく)を設置、この国はのちに薩摩国と呼ばれるようになった。713年に日向国から分立し大隅国が制定された。そして律令制導入の先進地であった豊前国から4,000~5,000人を移住させ指導にあたらせ、支配体制を強化したとされる。秦氏など豊前国に住む朝廷に協力的な渡来人を祖とする人々を移住してもらったのだろう。

■戦略的要衝の地、薩摩
上記のように朝廷は覓国使(べっこくし)という調査隊を組織して、南西諸島を経由した中国大陸との交流をはかろうとしていた。のちに種子島に鉄砲が伝来したように、南方から日本に来る際の要衝の地が多禰国(たねこく、種子島)や薩摩であったと考えられる。中国、朝鮮半島経由だけではなく、古来からもたびたび南方経由からの渡来はあったのだろうか。

■まとめ
・隼人は邪馬台国のころより朝廷にくみしない人たち。古来より明治維新まで続く。するとやはり土地の持つ遺伝子的(地政学的要素含む)なものもあるだろう。
・713年頃、秦氏など豊前国の渡来人を九州南部に移住させた。

<参考>
127.日本人のルーツと天之御中主神が築いた高千穂峰の王国 - シン・ニホンシ
・新版古事記 中村啓信 訳注
・現代語訳 日本書紀 福永武彦
・隼人の実像 中村明蔵
古事記 - Wikipedia
日本書紀 - Wikipedia
隼人の反乱 - Wikipedia
陽侯麻呂 - Wikipedia
大伴旅人 - Wikipedia
巨勢真人 - Wikipedia
笠御室(かさの みむろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
弥五郎どん - Wikipedia
蝦夷との三十八年戦争【名古屋刀剣ワールド】
多禰国 - Wikipedia