シン・ニホンシ

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377.阿蘇ピンク石が出土した植山古墳と阿蘇の影響

九州のヤマトタケルが東征後、熊本と各地とのつながりを示すものがある。そのうちのひとつ、阿蘇ピンク石を取り上げる。あわせて熊本、推古天皇に関連する古墳を扱い、阿蘇が影響した歴史をまとめる。次の流れで紹介していく。

阿蘇と各地のつながり
・女性首長が葬られた熊本県宇土市の向野田古墳
ヤマトタケルの東征前の人物たち
・スイジガイを模したと思われる双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)
・装飾古墳
蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)
阿蘇神社
阿蘇ピンク石
奈良県の植山古墳(うえやまこふん)
 - 関連:牧野古墳(ばくやこふん)
 - 関連:山田高塚古墳
阿蘇ピンク石の使用の歴史
・まとめ

阿蘇と各地のつながり
馬冑の出土例は少ないとされるが、そのうちのひとつ、和歌山県和歌山市の大谷古墳の石棺で阿蘇山凝灰岩(ぎょうかいがん)が使われている。
石棺は組合式である。
5世紀末から6世紀はじめの古墳と考えられている。

↓は馬冑について取り上げた回

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■女性首長が葬られた熊本県宇土市の向野田古墳

大分出身の天照大神高千穂峰の王朝から召喚を受け承諾。
地上にて活躍時、その伝説が語り継がれたという。
そして以後、千年にわたって女性が活躍する時代が続いたという。

卑弥呼の時代には、身の回りのお世話をしたり、今でいう女性官僚を含め、1000人規模の女性が卑弥呼(当時はヒムカ)の周りを固めていたようだ。

トヨはヒムカの宗女。
ヒムカ、トヨとも巫女タイプの王(いまでいう共和国制)である。

その名残だろう。
古墳時代には女性が首長であったと考えられている古墳が10か所は確認できる。

↓女性首長が葬られた遺跡、古墳を扱った回

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ヤマトタケルの東征前の人物たち

有明海付近の熊本を含むと思われる地域に邪馬台国ことヤマト国があった。

↓はヒミコ、トヨ、大日之命、ヤマトタケル、オトタチバナについて紹介した回

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■スイジガイを模したと思われる双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)
装飾壁画の中に双脚輪状文が現れる古墳には、熊本では

熊本市・横山古墳
熊本市・釜尾古墳

がみられる。

↓双脚輪状文について取り上げた回

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■装飾古墳
装飾古墳は4世紀末頃から7世紀頃まで造られた。
九州で56%以上を占めている。
王権(政治と武力)が近畿に移動したため、九州では芸術の時代となったのだろう。

↓は装飾古墳を取り上げた回、熊本にはチブサン古墳(6世紀前半)、弁慶ヶ穴古墳(6世紀後半)がある

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蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)

走水・現在の浦賀水道にて抵抗勢力の恨みを買う。そのとき天候が乱れ窮地に立つ。それを救ったのは弟橘媛オトタチバナヒメ)である。その弟橘媛の従者と考えられる人物にソガヒメがいる。ソガヒメが流れ着き、やがて千葉県千葉市中央区蘇我蘇我比咩神社創建されたという。

蘇我比咩神社は
武甕槌神(たけみかづち)を「たけみかづきのかみ」とし、建国の神であるという。
↓は蘇我比咩神社について取り上げた回

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■阿蘇神社
 
「クルソン」は仏教用語であるが、その歴史を追うと、古代インドの八大竜王娑伽羅(しゃがら)、そして熊本の人物と推定される健磐(たていわ)にたどり着く。
この健磐龍命(たけいわたつのみこと)阿蘇都彦命(あそつひこ)とも同一とされる。

例えば東京都羽山市の阿蘇神社は推古天皇601年の神託によって創建されたとされる。
↓はクルソンについて取り上げた回にて阿蘇神社が登場

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以降、上記の前提をふまえた上で阿蘇ピンク石を取り上げる。

阿蘇ピンク石

色が桃色の阿蘇溶結凝灰岩。
熊本県宇土市網津町の馬門地区で産出される。
産出地にちなんで馬門石(まかどいし)とも。

↓はwikipedia阿蘇ピンク石

ja.wikipedia.org

奈良県の植山古墳(うえやまこふん)

所在は奈良県橿原市五条野町植山。

形式は長方墳。
大きさは東西40m、南北27m。

築造は6世紀末~7世紀前半。
埋葬施設は横穴式石室、2基存在する。
・東石室は6世紀末葉
・西石室は7世紀前半頃
とされる。
1墳丘に対して2石室あり「双室墳」と呼ばれ、推古朝に限られる墓制であるという。

被葬者は推古天皇、竹田皇子の合葬と推定されている。
玄室には阿蘇ピンク石阿蘇溶結凝灰岩)でできた刳抜式(くりぬきしき)の家型石棺が置かれていた。
東石室は牧野古墳(広陵町)の玄室に類似するという。

↓はgooglemap、植山古墳

maps.app.goo.gl

↓は橿原市、植山古墳、家形石棺の様子が画像で確認できる

www.city.kashihara.nara.jp

日本書紀にて推古天皇は628年、竹田皇子の墓に合葬されたとある。
また古事記では「大野岡の上にありしを、後に科長の大陵に遷す也」とある。

これらから、植山古墳は山田高塚古墳(伝・推古天皇陵)に改葬される前の合葬墓であった可能性が考えられている。

続いて、植山古墳に類似するという牧野古墳(ばくやこふん)について。

■牧野古墳(ばくやこふん)

所在は奈良県北葛城郡広陵町馬見北。
形状は円墳。
大きさは直径48m~60m
埋葬は両袖式横穴式石室。
築造は6世紀末。

被葬者は不明だが、第30代敏達天皇(在位:572年~585年、生没年:538年頃~585年頃)の皇子、押坂彦人大兄皇子に比定する説が有力視される。

参考:googlemap、牧野(ばくや)古墳

maps.app.goo.gl

つづいて推古天皇陵とされる山田高塚古墳について。

■山田高塚古墳

所在は大阪府南河内郡太子町大字山田。
磯長谷古墳群に属す。
方墳、または長方形墳とされる。
大きさは東西59m、南北55m。
埋葬施設は推定で横穴式石室、2基ある。
被葬者は不明。
宮内庁では
・第33代推古天皇(628年崩御
・その子の竹田皇子崩御年不明)
の合葬陵墓と治定している。
↓はgooglemap、山田高塚古墳

maps.app.goo.gl

阿蘇ピンク石の使用の歴史

最古の馬門石の利用は長砂連古墳の石障とされる。
長砂連古墳の所在は熊本県上天草市
築造は5世紀前半頃。
これ以降宇土半島周辺では6世紀中頃まで石障系の横穴式古墳の壁体や羨道部で用いられたという。

一方、中国・近畿地方では。
5世紀中頃に馬門石製舟形石棺が見られるようになる。
5世紀終わり頃に中国地方を経て近畿地方に広がり、6世紀前半まで近畿の有力者の石棺で阿蘇ピンク石が用いられたという。

宇土周辺および中国・近畿地方で馬門石が使用されたが宇土を除く九州では見られないようだ。
これより古墳時代において阿蘇ピンク石をヤマト王権が独占して使用していたのではないかと考えられている。

ほか、四天王寺にある熊野権現礼拝石が阿蘇ピンク石であるという。
発掘状況から平安時代末期以降の設置されたと考えられていう。
ただし、石材は再利用の可能性があるため詳しい経緯や時代推定は難しいとされる。

出典:阿蘇ピンク石 - Wikipedia

■まとめ
・アマテラスから続くヒミコの時代を経て女性が活躍していた時代がある

古墳時代の首長墓からも女性が埋葬された古墳がいくつかある

・300年前後、九州からヤマトタケルが東征

 参考:中国の五胡十六国時代は304年~439年

 アマテラス、スサノオ、ヒミコ、トヨ、ヤマトタケルは日本人

オトタチバナヒメの従者の一人がソガヒメであった可能性

・千葉に蘇我の地名が残る

・九州では古墳時代、装飾壁画がみられる
 双脚輪状文は壁画、埴輪にみられるが、
 熊本では装飾壁画にみられ、うち熊本では横山古墳、釜尾古墳にみられる

阿蘇山凝灰岩は通称、阿蘇ピンク石とも。その使用は、

 熊本県上天草市・長砂連古墳:5世紀前半頃
 和歌山県和歌山市・大谷古墳の石棺:5世紀末から6世紀はじめ

 以降、5世紀中ごろから中国地方、5世紀終わり頃から近畿地方に広がった。
 6世紀前半まで近畿の有力者の石棺で阿蘇ピンク石が用いられた。

推古天皇および竹田皇子の埋葬は

 ・奈良県の植山古墳(うえやまこふん)
 ・大阪府南河内郡太子町大字山田の
山田高塚古墳

 の可能性が高く、植山古墳から山田高塚古墳に移送された可能性が高い。

推古天皇の託宣によって阿蘇神社が各地に広がったと推定される

<参考>
阿蘇ピンク石 - Wikipedia
植山古墳/橿原市公式ホームページ
山田高塚古墳 - Wikipedia
牧野古墳 - Wikipedia
敏達天皇 - Wikipedia
押坂彦人大兄皇子 - Wikipedia