浅草神社の神紋とガド族のシンボルについて類似する点がみられる。浅草神社や浅草寺の由緒に関わる土師氏、檜前(ひのくま)からわかる関連事項から歴史をつなぐ。次の流れで紹介していく。
・浅草神社(あさくさじんじゃ)
・浅草神社の神紋
・三網紋とガド族のシンボル
・土師中知と檜前兄弟
・三網紋の使用家
・網干(あぼし)
・魚吹八幡神社 (うすきはちまんじんじゃ)
・中臣印達神社(なかとみ いたてじんじゃ)
・神八井耳命(かむやいみみのみこと)
・土師氏
・檜隈(ひのくま)
・まとめ
■浅草神社(あさくさじんじゃ)
現在の社殿は1649年だが、その歴史は古い。
浅草神社の由緒によれば、その創建は平安末期から鎌倉初期以降と推測されている。
■浅草神社の神紋
その神紋は「三網紋」。
この丸に三つ網紋は「投網」を意識して作られたものという。
ただし、網の紋自体には、2つタイプのものも存在する。
浅草神社では「三」を意識して三網紋となっていると考えられる。
それは三網紋、三社祭、御祭神が三人であることがあげられる。
次の3人が祭神である。
・土師真中知(はじのまなかち)
・檜前浜成(ひのくまのはまなり)
・檜前竹成(ひのくまのたけなり)
徳川家康を祀るのは、現在の社殿が1649年に第三代・徳川将軍家光公により建立寄進されたためだろう。
三社祭の始まりは1312年とされる。一之宮、二之宮、三之宮の三社の神話に基づき舟祭を始めたことが起源という。
↓は浅草神社の由緒
浅草神社近隣の歴史については、浅草寺(せんそうじ)の浅草寺を知る も参考となる。
↓は浅草寺 浅草寺を知る
■三網紋とガド族のシンボル
ユダヤの12支族にはシンボルがある。
ガド族はテント(遊牧民のゲルのようなもの)のマークがシンボルである。
このテントのシンボルと、浅草神社の三網紋が酷似するという。
以下で浅草神社の三網紋に関わる事象の由来をみていく。
■土師中知と檜前兄弟
土師中知は飛鳥時代の官吏とされる。
檜前浜成、竹成(または武成)は兄弟で漁師とされる。
「浅草寺縁起」より次の内容であるという。
628年3月18日(推古天皇・36年)、漁師の檜前浜成、武成の兄弟が、現在の隅田川である浅草浦にて漁労に精を出していた。
その日に限っては一匹の魚も獲れなかった。
投網に掛かったのは人形の尊像だけであった。
檜前浜成、武成の兄弟はこれを当時の郷土の文化人・土師真中知に問い合わせた。
土師真中知は「これぞ聖観世音菩薩の仏像にして現世御利益仏たり、自らも帰依の念深き仏体である」と告げたという。
■三網紋の使用家
三網紋は浅草神社のほか、使用していた家は
・網干家
・菅井家
・菅谷家
・安田家
などがあるという。
「網干」は現在の兵庫県南西部である播磨国揖保郡網干庄が起源とされる。
「菅谷」は茨城県である常陸国鹿島郡菅谷村が起源である。
現在の「茨城県那珂郡菅谷村」だろう。
まず「網干」について。
■網干(あぼし)
網干は、兵庫県姫路市南西部の網干区の各町からなる地区。
揖保川下流東岸と大津茂川下流西岸に挟まれた一帯。
旧自治体は揖保郡網干町。
太子町と隣接する。
この太子町は聖徳太子ゆかりの地であることに由来。
1951年に斑鳩町と石海村・太田村が合併して太子町となった。
参考
・網干 - Wikipedia
・網干町 - Wikipedia
・太子町 (兵庫県) - Wikipedia
■魚吹八幡神社 (うすきはちまんじんじゃ)
兵庫県姫路市網干区宮内に所在する。
「ちょうちん祭り」で有名な神社。
延喜式神名帳の名神大社である中臣印達神社(なかとみ いたてじんじゃ)の比定社の一つであるという。
↓はwikipedia、魚吹八幡神社
このイタテとは何か。
■中臣印達神社(なかとみいたてじんじゃ)
祭神は五十猛神(イタケルノミコト)。
創祀は770年と考えられている。
中臣印達神社の「印達(いたて)」の「イタテ」は「イソタケル」「射楯の神」を表すと考えられる。
↓はwikipedia、中臣印達神社
↓は射楯兵主神社
↓は和歌山に残るイソタケルについて紹介した回
和歌山市の伊達神社では五十猛命(いたけるのみこと)と神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祀る。
↓は和歌山市の伊達神社
■神八井耳命(かむやいみみのみこと)
「八井耳(ヤイミミ)」はヤイル、矢を射るなどから来ていると推測される。日本書紀などにも登場する。
耳を「ル」と読むのはおかしいではないかとも考えられるが、トルコの当て字が土耳古でトルコ。
この「ヤイル」はユダ族のヘツロンの孫から名付けたものと推定される。
↓神八井耳命とヤイルについて考察した回
続いて、「土師真中知」の土師氏について。
■土師氏
土師に関連する古代の事象を紹介。
大阪府藤井寺市の道明寺は7世紀中葉に土師氏の氏寺として建立された土師寺を起源とする。
土師器を製作していたがのちに葬送を司る氏族とされた。
やがて「菅原」を名乗った。
後裔の菅原道真が有名である。
↓は藤井寺市の「道明寺」が登場した回
土師氏はアメノホヒノミコトと関りがあると記される。
アメノホヒノミコトの後裔氏族には
・野見宿禰
・野見から土師氏
・土師氏から秋篠氏、菅原氏、大枝氏(後の大江氏)へ改姓
らがいる。
↓は土師氏の後裔を記した回
雄略天皇期の出来事を過去記事でいくつか紹介した。
ちなみに、雄略天皇の在位は456年〜479年である。
↓では雄略天皇期、土師氏から食器を製作する贄土師部(にへのはじべ)が誕生している
出雲出身の野見宿禰と当麻蹴速の相撲によって出雲と土師氏がリンクされている。また垂仁天皇期、纏向の土師氏が殉死を改めさせて埴輪を提案したことを示した。野見宿禰の「ノミ」は切削加工を行う「ノミ」という道具を用いた石切りの石工関連の技能集団と思われる。
↓野見宿禰の「ノミ」について記した回
続いて、檜前兄弟の檜前(檜隈)について。
■檜隈(ひのくま)
檜隈は明日香村南西部の古代地名。
渡来系集団の東漢(やまとのあや)氏が居住していたとされる。
阿知使主(あちのおみ)、その子の都加使主(つかのおみ)らが檜隈邑に居住した。
その子孫が「檜隈忌寸(ひのくまいみき)」と称された。
↓は檜隈の渡来人を紹介した回
野口王墓古墳(のぐちのおうのはか)は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)とも。場所は奈良県高市郡明日香村野口。被葬者は第40代・天武天皇(在位:673年~686年)、第41代・持統天皇(在位:690年~697年)の合葬、陵として治定されている。
↓は野口王墓古墳について記した回
雄略は即位8年に次の記録がある。
・身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉(宋)に派遣している。
↓雄略は即位8年、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)が登場した回
↓は雄略即位10年、身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)は呉の献上した二匹の鵝(ガチョウ)を持って筑紫に到着。
↓は雄略即位12年、身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉(宋)に派遣。この頃、秦酒公が登場。また、猪名部御田(いなべのみた)という、反対から読むと「たみのブナイ」で「民の息子」を示す人物が日本書紀では挿入される(または実在した)。
↓は雄略即位14年、呉人を檜隈野(ひのくまのの)に安置、呉原(くれはら)と名付けられた回
↓は和歌山の日前神宮(ひのくまじんぐう)の日前(ひのくま)と檜隈(ひのくま)と読みが同じであることを示した回
■まとめ
・浅草神社に用いられている投網をモチーフとした「三網紋」はガド族のシンボルのテント(宿営)と酷似する
・浅草神社の創建は平安末期から鎌倉初期以降という。
・浅草神社の祭神は土師真中知、檜前浜成、檜前竹成、檜前兄弟が628年に聖観世音菩薩の仏像を発見、土師真中知が鑑定したという。
・土師氏は相撲、檜前は渡来人の土地と関連する
・雄略記に身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)が呉(宋)に何度か派遣されている。
・三網紋を使用した「網干家」の網干地区に魚吹八幡神社(中臣印達神社・創祀は770年 ではないか)がある。
・印達のイタテはイソタケル、射楯の神と関係がある
・矢を射る、ヤイル、神八井耳はユダ族のヘツロンの孫から想起、日本書紀などに採用された名前では。
・三網紋を使用した「菅谷家」の菅谷の起源は茨城県である常陸国鹿島郡菅谷村。
現在の茨城県那珂郡菅谷村。
そう遠くない位置に日高見国があったと想定される。
この「那珂(なか)」は福岡県にも那珂(なか)がある。現在の福岡県福岡市博多区の地名。
↓はgooglemap、那珂
↓の日高見国はどこにあったかでは、常陸国風土記から、茨城にある。
場所の特定は難しい、
↓は同雄略期に、ユダニツク、「委ねる」の語源に近いものを記した回
↓は倭の五王の時代、倭の五王の存在を示す文献と同じ文献から韓国に秦韓国が存在していたことを示した回。
魏志倭人伝にて一大率が置かれた国が伊都国。おそらく秦王国と同じと推定される。鹿春と郷いう八幡製鉄所(かつて福岡県北九州市八幡東区にあった官営の製鉄所)に位置的に近いところで製鉄をユダヤ人が行っていたと推定される。
↓は豊前国に秦王国があったことを記した回。鹿春郷