長野県、諏訪と関りの深い金刺氏、武五百建命について取り上げる。次の流れで紹介してく。
・金刺盛澄(かなさしのもりずみ)
・手塚光盛(てづか みつもり)
・金刺氏(かなさしし)
・磯城島金刺宮跡(しきしまかなざしぐうあと)
・金刺氏の出自
・「かなざし」とは
・金刺氏
・科野国造(しなぬのくにのみやつこ、しなぬこくぞう)
・建五百建命(たけいおたつのみこと)
■金刺盛澄(かなさしのもりずみ)
平安時代後期の諏訪大社下社の神官・大祝(おおほうり)でかつ武士である。
弟は手塚光盛。
金刺盛澄は治承・寿永の乱(1180年~1185年)では源義仲(信濃源氏の武将)の挙兵に従った。源義仲が討伐され、源頼朝によって捕縛されて梶原景時(かじわらかげとき、武将)に預けられたという。
源頼朝は金刺盛澄を処刑しようとしていた。しかし金刺盛澄は藤原秀郷流弓術の名手であった。これにより鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市雪ノ下に所在)での放生会にて流鏑馬を披露。源頼朝は無理難題を押し付けるが盛澄は的や串を射ぬいたため、赦免されたという。
↓はwikipedia、金刺盛澄
参考)
・治承・寿永の乱 - Wikipedia
・梶原景時 - Wikipedia
・源義仲 - Wikipedia
■手塚光盛(てづかみつもり)
生没年は不明~1184年。
篠原の戦い(加賀国篠原において源義仲軍と平氏軍との間で行われた戦い)にて斎藤実盛を討ち取った話が平家物語に残る。
参考)手塚光盛 - Wikipedia
■金刺氏(かなさしし)
古代氏族のうちのひとつ。
科野国造(しなののくにのみやつこ)の末裔が金刺氏と称した。
代々にわたって諏訪神社下社の大祝を務めたという。
金刺盛澄は後裔の著名な人物のひとり。
金刺氏は欽明天皇(在位:539年~571年)に舎人として仕え、そして宮の名前を氏の名前としたと考えられている。
参考)金刺部氏 - Wikipedia
■磯城島金刺宮跡(しきしまかなざしぐうあと)
磯城島金刺宮跡は欽明天皇の宮があったと推定されている。
所在は奈良県桜井市慈恩寺。
↓はgooglemap、磯城島金刺宮跡
■金刺氏の出自
出自は多氏。
その始祖は神八井耳命。
氏祖は武五百建命(たけいおたけのみこと)。
太安万侶(おおのやすまろ)、そして金刺氏もともに始祖を神八井耳命とし、同族であったと考えられている。
↓は太安万侶(おおのやすまろ)を取り上げ神八井耳命とヤイルについて考察した回
■「かなざし」とは
「かなざし」「かなじゃく」「金定規」「金指」あるいは「矩尺」「指金 (さしがね)」。 「まがりがね」は大工道具の一種。
直角に曲りL字形。
なお、古墳から出土される鉇(やりがんな)も大工道具の一種で、木材の表面を削るもの。
■科野国造(しなぬのくにのみやつこ、しなぬこくぞう)
信濃国となる地域(科野国)の全域を支配した国造。
古事記で神武天皇(初代天皇)の皇子の神八井耳命が科野国造などの祖であるとされている。
参考)科野国造 - Wikipedia
■建五百建命(たけいおたつのみこと)
先代旧事本紀の国造本紀によれば、崇神天皇の時代、神八井耳命の孫の建五百建命(たけいおたつのみこと)が初代科野国造に任命されたという。
和歌山市の伊達神社では五十猛命(いたけるのみこと)と神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祀る。
イソタケルの「五十」とイオタツの「五百」はのちの後裔の子孫によって、出自に関連があったものと考えられる。
↓は和歌山市の伊達神社を紹介、五十猛命(いたけるのみこと)が登場
長野の諏訪においても九州・伊都国(いとこく)ー意富(おほ)ー太氏、金刺氏という系図が確認できる。
これはヤマトタケルの東征および同行者による影響が関東に影響した結果と推測される。
<参考>
・金刺部氏 - Wikipedia
・欽明天皇 - Wikipedia
・科野国造 - Wikipedia
・武五百建命 - Wikipedia