シン・ニホンシ

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413.中央アジアから渡来したと考えられるアヂスキタカヒコネと騎馬民族・賀茂氏の関係

阿遅鉏高日子根とは。文献、考古学、世界史の流れ、そして祭りから読み解く。日本古代史に強く影響した賀茂氏とはどこから渡来した民族であったか。次の流れで紹介していく。

・阿遅鉏高日子根神あじすきたかひこねのかみ、アヂシキタカヒコネ
葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)アメノワカヒコ
・アジスキタカヒコネとカンドの剣
・神渡剣(カンドのツルギ)
アヂスキタカヒコネを祀る賀茂氏
賀茂神社
賀茂祭葵祭
・神紋の双葉葵
美濃国とカモ氏の関係
・美濃の藍見の喪山
美濃国壬申の乱への影響
サマルカンド
日本書紀成立後のサマルカンド
・馬冑(ばちゅう)騎馬民族の到来
賀茂建角身命とヤタガラス
鴨長明(かものちょうめい)
猿丸大夫(さるまるだいふ)
・まとめ

■阿遅鉏高日子根神あじすきたかひこねのかみ、アヂシキタカヒコネ
古事記
・阿遅鉏高日子根神
・阿遅志貴高日子根神
・阿治志貴高日子根神
と記される神。

アヂは可美(ウマシ)と同等、「シキ」はを磯城を表すなどとする説もみられる。

ウマシとは馬のことだろう。

これに加え、
・阿遅(アヂ)はアジア
・鉏高(スキタカ)はスキタイ、イラン系
であると考えられる。

以降でその根拠を示す。結論としてはアジアの中央アジアサマルカンドからきた馬の文化を持つ民族を示すと考えられる。

葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)アメノワカヒコ

葦原中国平定天之菩卑能命アメノホヒが3年たっても戻らない。

そこで天若日子アメノワカヒコが遣わされることになる。

このアメノワヒコは大国主神の娘の下照比売シタテルヒメと結婚したとされる。
アメノハワヒコは葦原中国を得ようとする。
しかし8年たっても高天原に戻らない。
やがてアメノハワヒコは弓矢が刺さり死んでしまう。

そして下照姫の兄の阿遅鉏高日子根神アヂスキタカヒコネが葬儀の場面で登場する。

アヂスキタカヒコネ大国主神宗像三女神多紀理毘売命の間の子であるという。

↓はwikipediaアメノワカヒコ

ja.wikipedia.org

■アジスキタカヒコネとカンドの剣
アジスキタカヒコネは下照姫の兄であるとされる。
アジスキタカヒコネのアメノワカヒコの葬儀でのシーンにて。

アメノワカヒコの父と妻は「天若日子は生きていた」と抱きついたという。
するとアジスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒った。

そして神渡剣(カンドのツルギ、カムドのツルギ)を抜いて喪屋を切り倒し蹴り飛ばした。

この喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だという。

下照姫は天照姫を意識した名前だろうか。
また、なお古事記で最初から「大御神」と呼ばれるのは天照大御神と迦毛大御神だけであるという。

↓はwikipedia、カンドの剣

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■神渡剣(カンドのツルギ)
神渡剣はアジスキタカヒコネがもっていた十束剣(トツカのツルギ)。

十束剣は日本神話にてたびたび登場する。
・十握剣
・十拳剣
・十掬剣
あるいは
天之尾羽張とされる。

また、十束剣(とつかのつるぎ)
天之尾羽張
・伊都之尾羽張剣
・神渡剣
とも。

まずは賀茂氏との関係について。

アヂスキタカヒコネを祀る賀茂氏
賀茂氏(かもうじ)
・加茂氏
・鴨氏
・加毛氏
とも。

・賀茂県主氏:姓を県主とする古代氏族
・賀茂朝臣氏:姓を朝臣とする古代氏族
・鴨直氏:姓を直とする古代氏族
・足助氏:本氏を源、姓を朝臣とする。別称に加茂氏がある氏族

神社としては日本各地に約300社ほどが存在するという。
例えば、高鴨神社等など。

関連する氏族としては
・三輪氏
賀茂氏
・都佐国造
・長国造
・波多国造
・意岐国造(億岐氏)
などがあるとされる。

アヂスキタカヒコネ大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祀っていた大和の神であったとされる。

賀茂神社
賀茂神社京都府京都市にある次の2つの神社の総称。

賀茂別雷神社上賀茂神社
賀茂御祖神社下鴨神社

のである。

↓はwikipedia賀茂別雷神社上賀茂神社

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↓はwikipedia賀茂御祖神社下鴨神社

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賀茂祭葵祭
有名な葵祭
起源は欽明天皇(在位は539年頃~571年)にまで遡るという。
別雷神(わけいかづち)と関連があるという。

行事の賀茂競馬(かもくらべうま)は1093年に起こったという。

↓は上賀茂神社賀茂祭

www.kamigamojinja.jp

一方、下鴨神社の祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)玉依媛命
玉依媛は賀茂建角身命御子神であるとされる。

www.shimogamo-jinja.or.jp

上鴨神社、下鴨神社、そのほか全国神社と関連し、
・アオイ祭
流鏑馬(馬、弓矢)
が関連する

■神紋の双葉葵
鴨神社のシンボルは双葉葵(アオイ)

なお、徳川家の家紋が「葵紋」である。
それはなぜか。
徳川家の祖先が三河加茂郡松平郷(現・愛知県豊田市松平町で「加茂朝臣松平太郎左衛門」を名乗ったことによるという。

↓は賀茂別雷神社の由緒と御神紋
www.kamigamojinja.jp

推測だが、この葵のデザインは金製耳飾と類似し、それが由来と考えられる。
そのルーツは朝鮮半島騎馬民族、さらに時代を遡って紀元前7世紀のギリシャ・スキタイの美術にまで遡るという。

↓は下記は文化遺産オンライン、金製耳飾、江田船山古墳出土の例

bunka.nii.ac.jp

福岡県うきは市の月岡古墳から出土している金銅製帯金具にもハート形の葵に似たデザインがみられる。

続いて、アジスキタカヒコネと美濃の関係について。

アジスキタカヒコネが神渡剣(カンドのツルギ、カムドのツルギ)を抜いて喪屋を切り倒し蹴り飛ばし、その喪屋が飛ばされた先が美濃の藍見の喪山であったという。

この美濃、そして藍見とは。

美濃国とカモ氏の関係
尾張の近隣の美濃国にかつて鴨県があったとされる。

岐阜、美濃国にはかつて
先代旧事本紀によれば美濃国はもともと
・三野前国
・三野後国
・額田国
にわかれていたという。
額田は愛知県の地名である。

また古事記によると、上述の3つのほか
・本巣国
・牟義都国
の計五ヵ国があったという。

そして各国は国造が設置され、
また県主(アガタヌシ)
・美濃県
・鴨県
・刀支県
の三県に設置されたという。

7世紀、国々と県が統合され美濃国が成立したとされる。

↓はwikipedia美濃国

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■美濃の藍見の喪山
藍見は岐阜県武儀郡にあった村。
壬申の乱時、挙兵し勝利をもたらした戦力に美濃や岐阜の勢力がかかわる。

藍見の藍は藍色の藍。

インディゴ、ジャパンブルーでもある。
サムライブルー騎馬民族の象徴ではないだろうか。
↓はwikipedia、藍見

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美濃国壬申の乱への影響
前述の通りで美濃国はもともと3~5つの国にわかれていたとされる。
そのうちのひとつに額田国がある。

額田王(ぬかたのおおきみ)とも関係があったと考えられる。
額田王は生年は不明であるものの631年~637年頃の間ではないかとされる。
額田王天武天皇(諱は大海人(おおあま))の妃。
↓はwikipedia額田王

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↓はwikipedia天武天皇

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一方、壬申の乱(672年)では。
大海人皇子伊勢国での協力を取り付けた後、美濃国にも向かっている。
美濃では大海人皇子の指示を受けた多品治が兵を興し、不破関(ふわのせき)を封鎖したという。

多品治の子が太安万侶ではないかと推定されている。

↓は不破関(ふわのせき)

ja.wikipedia.org

↓はwikipedia、多品治

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過去記事で太安万侶について取り上げた。
多氏の出自は九州にまで遡り、ヤマトタケルの東征にも参加していたと推測される。
↓はオオシについて、太安万侶の出自を取り上げた回

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サマルカンド
中央アジアウズベキスタンにあるシルクロードのオアシス古都。
ステップ気候による青空、そしてモスクのラピスラズリ色から「青の都」と呼ばれる。

有名な遺跡にカフィルカラ遺跡がある。
このカフィルカラ遺跡はシタデル(城塞)が検出されている。

アジスキタカヒコネは下照姫の兄であった。
下照姫の名前自体はアマテラスとの対比と考えられるが、このネーミングの下地にはこの城塞を意味する「シタデル」が語源と考えられる。

カフィルカラ遺跡のシタデルから木彫の板絵が見つかっている。
ゾロアスター教の女神ナナが描かれているという。
獅子に乗った姿であるとされる。

また、
・捧げものや燭台をもつ人
・琵琶・竪琴・角笛の奏者
などが彫られているという。

↓はwikipediaサマルカンド

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過去記事でオアシス都市、ホータン王国を紹介した。
ホータンは西域南道のひとつ。
日本の大乗仏教中央アジアから中国を経て百済、そして日本へとたどり着いた。
サマルカンドも同じくオアシス都市でシルクロードの行路のひとつだが天山北路にあたる。

西域南道:ミーラン、チャルチャン、ニヤ、ホータン
天山北路:ハミ、トルファンウルムチ、イーニン、アルマトイサマルカンド
という関係がある。

↓はホータン王国を紹介した回。蘇民将来の話のコタンと推定される。

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↓はgooglemap、サマルカンドのレスタン広場のある位置

https://maps.app.goo.gl/Qb2avvsNFJvqZ8aMA

日本書紀では668年、天智天皇7年の是の月(7月)に突厥に関する記述がみられる。突厥(ツゥルク、トルコ系部族)の動向を伺っていた。
突厥に追われて遊牧民(様々な人種が入り乱れた)が東に移動したのだろう。
これには寒冷化、そして旧約聖書イザヤ書なども影響、このことは当時の東アジア状勢は激動の時代であったことがわかる。
↓はトゥルク系遊牧民について取り上げた回

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日本書紀成立後のサマルカンド
不空三蔵は不空三蔵は付法の八祖、伝持の八祖の両方に該当する人物。
755年、安史の乱をきっかけに精力的に教化活動を行ったという。

不空三蔵の弟子の一人に恵果がおり、この恵果は空海の師匠にあたる。
中国の長安青龍寺に住し、東アジアの様々な地域から集まった弟子に法を授けたという。

なお、安史の乱を起こした安禄山は西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血である。

↓は安禄山が登場した回

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■馬冑(ばちゅう)騎馬民族の到来
馬冑は騎馬民族到来の象徴的なアイテムであると考えられる。
馬冑の出土は以下となる

和歌山県和歌山市の大谷古墳:5世紀
・埼玉県行田市の埼玉将軍山:6世紀
・福岡県古賀市の船原古墳:6世紀末~7世紀初め
・馬冑の発見例は朝鮮半島での出土例を含めても20例ほど、希少

日本には少なくとも400年頃に騎馬民族が到来していることがわかる。

↓は馬冑と馬形の埴輪を取り上げた回

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賀茂建角身命とヤタガラス
新撰姓氏録によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫。
神武東征の際、八咫烏に化身して神武天皇を先導したという。

お天之御中主は紀元前800年頃の人物。
天之御中主より高千穂峰の王朝が始まり、カミムスビは3代目の王。
よってヤタガラスとはヤマトタケルの東征に同行した人物である。

鴨長明(かものちょうめい)
平安時代末期~鎌倉時代前期にかけての歌人、随筆家。
生没年は1155年~1216年。
鴨(賀茂)氏の後裔である。

賀茂御祖神社下鴨神社)の禰宜(ねぎ)である鴨長継の次男として京都で生まれたという。

wikipedia鴨長明

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猿丸大夫(さるまるだいふ)
三十六歌仙の一人。
生没年は不明。

古今和歌集の真名序(漢文の序)で「猿丸大夫」の存在がみられる。
六歌仙の一人・大友黒主について
「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(つぎて)なり」
と記述がある。

また、鴨長明の「無名抄」「方丈記」に猿丸大夫の墓を伝える記事があるという。

鴨氏の後裔である鴨長明猿丸大夫を記す理由について。
これは、猿丸大夫の猿丸は祖先の故郷であるサマルカンドの「サマル」に由来するものと考えられる。

wikipedia猿丸大夫

ja.wikipedia.org

■まとめ
以上より、アジスキタカヒコネはサマルカンド出身の騎馬民族を表す
賀茂神社の祭神はアジスキタカヒコネ

・アジスキタカヒコネの名前にアジ(ア)、スキタ(イ)を残す

・アジスキタカヒコネはカンド(神渡)の剣を持っていた

・後裔の鴨長明猿丸大夫(サルマル、サマル)を残す記述あり

・葵はサマルカンドは青い都市

・葵は金製耳飾のシンボルと類似、スキタイの文化の名残

・「青い」の名残として葵祭があるのでは

ヤマトタケルの300年頃の東征に賀茂氏はヤタガラスとして協力し活躍した

・美濃の藍見にいたが、672年の壬申の乱大海人皇子天武天皇に協力した

・青色、藍見の藍と葵(インディゴ)は同色

・賀茂(鴨)氏の賀茂祭葵祭とも呼ばれ、騎馬民族、弓矢を使い、のちの神事・流鏑馬騎馬民族の面影が残った

古事記にて最初から「大御神」と呼ばれるのは天照大御神、迦毛大御神

・天照を意識して名付けられた阿遅鉏高日子根神の妹、下照姫はシタデル(城塞)から名づけられたと思われる。サマルカンドのカフィルカラ遺跡にはシタデルがみられ、城塞の中に王族がいたと考えられる

・二葉葵は賀茂神社の神紋

・加茂朝臣松平太郎左衛門が三河加茂郡松平郷(現・愛知県豊田市松平町に住み、これが徳川家、そして葵の御紋に影響している

なお、400年頃、倭国と戦った高句麗について。
高句麗騎馬民族の影響、そして古墳文化を持つ。

当時の高句麗の19代王、広開土王碑で有名な好太王(こうたいおう)がいる。
この好太王にも好(スキ)太(タイ)が残る。

なにゆえに古代、倭国高句麗と戦ったのか。
渡来した騎馬民族朝鮮半島にいた騎馬民族の影響もあるのかもしれない。

<参考>
・日本の美術 no445 黄金細工と金銅装
シタテルヒメ - Wikipedia
賀茂神社 - Wikipedia
恵果 - Wikipedia

青龍寺 (西安市) - Wikipedia