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256.群馬県太田市の太田天神山古墳と毛野における古墳建造まとめ

これまで群馬および栃木南部を含む古代の地名・毛野を紹介してきた。今回は地域最大の前方後円墳である太田天神山古墳を取り上げる。また毛野地域のまとめを行う。次の流れで紹介していく。

・太田天神山古墳(おおたてんじんやまこふん)
・別所茶臼山古墳(べっしょちゃうすやまこふん)
浅間山古墳(せんげんやまこふん)
・白石稲荷山古墳(しろいしいなりやまこふん)
・上毛野地域における古墳建造
・毛野地域のまとめ
 - 毛野
 - 上毛野
 - 保渡田古墳群と大室古墳群
 - 榛名山の噴火
 - 豊城入彦命
 - 上野三碑
 - 下毛野

■太田天神山古墳(おおたてんじんやまこふん)
所在は群馬県太田市内ケ島町。
古墳の形式は前方後円墳
築造は5世紀前半から中頃とされる。
規模は墳丘長210m、高さ16.5m。
東日本として大きさが200mを超える最大の古墳である。
周囲に2重の周壕がある。集合を含めればその全域は364m×288mとなる。
誉田御廟山古墳大阪府羽曳野市)の2分の1の縮尺、相似形とされる。
長持形石棺がある。長持形石棺は畿内王墓特有の石棺とされているためヤマト王権とのつながりがあったことがわかる。
くびれ部には天満宮の祠が存在する。
↓はwikipedia、太田天神山古墳

ja.wikipedia.org

↓は太田天神山古墳の天満宮

goo.gl

つぎに地域の他の巨大前方後円墳をみていく。

■別所茶臼山古墳(べっしょちゃうすやまこふん)
所在は群馬県太田市別所町。
形式は前方後円墳
大きさは墳丘長164.5m(または168m)。
築造は5世紀前半。
ほぼ埋没しまっているが馬蹄形の周堀があったとされ、一部その名残が残る。
↓はwikipedia、別所茶臼山古墳

ja.wikipedia.org

浅間山古墳(せんげんやまこふん)
所在は群馬県高崎市倉賀野町。
形式は前方後円墳
大きさは墳丘長171.5m。
築造は4世紀末-5世紀初頭。
奈良市・佐紀陵山古墳の5分の4相似形とされる。
wikipedia浅間山古墳

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■白石稲荷山古墳(しろいしいなりやまこふん)
所在は群馬県藤岡市白石。
形式は前方後円墳
大きさは墳丘長155m
築造は5世紀初頭。
銅鏡、石製品など出土品が多数みつかっている。
東槨から家形埴輪5点、西槨から家形埴輪3点が出土。
変わったものとしては石枕など。
wikipedia、白石稲荷山古墳、石枕などの出土品も画像にて確認できる

ja.wikipedia.org

■上毛野地域における古墳建造
西毛の首長、東毛の首長が存在していたと考えられる。
西毛の首長が浅間山古墳(4世紀末-5世紀初頭)、白石稲荷山古墳(5世紀初頭)を建造する。また東毛の首長が別所茶臼山古墳(5世紀前半)を建造、やがて伸長し、天神山古墳登場以前(5世紀前半)を築造した。そしてその東毛の首長が上毛野地域全体に及ぶ支配を確立していった。

■毛野地域のまとめ
これまで群馬や栃木南部、毛野地域を紹介してきた。
下記でまとめを行う。

・毛野
毛野(けの、けぬ)は古墳時代群馬県と栃木県南部を合わせた地域・文化圏、または
あるいはヤマト王権時代に築かれていたとされる勢力を示す名称。

栃木県は毛野国(けぬのくに)と那須国(なすのくに)とに分かれていた。
毛野国は現在の群馬県一帯、栃木の河内、上都賀南部、下都賀、足利の諸郡をさす。

うち毛野国は「上毛野」、「下毛野」にわけられる。
上毛野は現在の群馬県に相当、のちに上野(上野国)に転じた。
下毛野は現在の栃木県に相当、のちに下野(下野国)に転じた。
那須国はのちも独立したまま存在していた。

・上毛野
上毛野(上野)ではおおよそ次の順で古墳が建造された。

4世紀前半:前橋天神山古墳、前橋八幡山古墳
4世紀後半:西部の高崎市浅間山古墳が、東部の太田市に宝泉茶臼山古墳(ほうせんちゃうすやまこふん)が建造された
5世紀初頭:藤岡市白石稲荷山古墳
5世紀前半:太田天神山古墳
6世紀後半:他の地域で大型古墳が建造されなくなる。しかし群馬では大型前方後円墳の数が減少しなかった。

・保渡田古墳群と大室古墳群
保渡田古墳群:
所在は榛名山の東南のふもと、群馬県高崎市保渡田町・井出町。
5世紀後半から6世紀初頭にかけて、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の順で建造された。

大室古墳群(前橋市):
所在は赤城山の南麓の城南地区に分布、群馬県前橋市東大室町・西大室町。6世紀初頭から6世紀後半にかけて前二子古墳、中二子古墳、後二子古墳、小二子古墳が建造された。

榛名山の噴火
また、古墳時代榛名山が3度噴火、当時の人びとのアニミズム、祭祀や墓制(古墳建造)にも影響したと考えられる。
1度目:400年~500年の間のいずれかの年
2度目:489年~498 年の間のいずれかの年
3度目:525年~550年の間のいずれかの年

豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
なぜ群馬にて馬の生産や古墳建造が栄えたのか、その由来が日本書紀などで描かれている。豊城入彦命は第10代崇神天皇皇子、記紀に伝わる古代日本の皇族。上毛野氏や下毛野氏の始祖とされる。日本書紀崇神天皇48年において崇神天皇は豊城命と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅(みことのり)した。

上野三碑
3つの石碑が残る。
山ノ上碑:681年、墓誌。母を思い、僧になった息子が建てたもの。
多胡碑:711年、記念碑。多胡郡の建設に関して。
金井沢碑:726年 三家氏(みやけし)の一族の誓い。神仏の知識によって仏に仕えることを誓った。

・下毛野
栃木県南部は下毛野(しもつけの)と呼ばれた。
宇都宮市内で最も古い古墳群は茂原古墳群。うち茂原大日塚古墳、全長35.8mの前方後方墳、4世紀初頃の築造。塚山古墳群は宇都宮市西川田町に所在、かつて古墳10基以上で構成されていた。塚山古墳、塚山西古墳、塚山南古墳などがある。塚山古墳は墳丘長は98m、形状は前方後円墳、築造は5世紀中葉(あるいは5世紀後半)。盾形の周溝を持つ。
・補足
群馬と近い埼玉のさきたま古墳群はどうであったか。
さきたま古墳群は埼玉県行田市埼玉に位置、5世紀後半から7世紀中頃にかけて建造。稲荷山古墳(5世紀後半)より金錯銘鉄剣が出土、雄略(ワカタケル)の実在の根拠になっている。

■感想
毛野はヤマト王権とつながりの深い地域。
ヤマトタケルの九州・大和国からの東征が300年前後と考えられる。
その東征によって関東地方の平定後、近畿におけるヤマト王権の基礎が始まった。
王権に従ったと考えられる毛野地域では上毛野、下毛野と4世初頭(300年代の初期)では古墳建造が開始された。また馬の生産が盛んとなり王権と深い関りをもつ地域であった。その一方、榛名山が3度噴火するなど自然災害に見舞われた。

<参考>
↓では保渡田古墳群を紹介

shinnihon.hatenablog.com

↓では大室古墳群と上野地域の特殊性を紹介

shinnihon.hatenablog.com

↓では上野三碑や多胡碑を紹介

shinnihon.hatenablog.com

太田市教育委員会教育部文化財課 国指定史跡天神山古墳・国指定史跡女体山古墳 
https://www.city.ota.gunma.jp/uploaded/attachment/10763.pdf