シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

341.古代の3女神、トヨタマヒメ、タマヨリヒメ、オトタチバナヒメ

トヨタマヒメ、タマヨリヒメ、オトタチバナヒメを取り上げる。いずれも実在した海神系の神々である。感想では私見を交えたい。次の流れで紹介していく。

豊玉姫 / トヨタマヒメ
トヨタマビメとワタツ
玉依姫 / タマヨリヒメ
五瀬命(ひこいつせのみこと)
・稲氷命(いないのみこと)
御毛沼命(みけいりぬのみこと)
・宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)
弟橘媛 / オトタチバナヒメ
弟橘媛と建忍山垂根
・感想

豊玉姫 / トヨタマヒメ
海神(ワタツミ)の娘。
海神系である。

実在した人物。

記紀の物語上では竜宮に住むとされる。
高次の世界では竜宮界に存在すると考えられる。

家族関係について。
海神である豊玉彦命(綿津見大神)の娘とされている。

妹がタマヨリヒメ玉依姫である。
弟に宇都志日金拆命穂高見命、阿曇氏の祖)がいる。

ウガヤフキアエズノミコト(鸕鶿草葺不合尊)の母とされる。
鸕鶿草葺不合尊は神武天皇(初代天皇の父である。

古事記において豊玉姫には次の出産エピソードがある。
豊玉姫は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の出産の際、八尋和邇(ヤヒロワニ、日本書紀の一書では「八尋大熊鰐」)となったとする。

神武天皇は人格としては非実在、史実としてはアメノミナカヌシや主にヤマトタケルの東征の頃の史実の合成によるものとされる。

↓はwikipediaトヨタマヒメ

ja.wikipedia.org

トヨタマビメとワタツ
火遠理命(ホオリノミコト、山幸彦)が綿津見大神豊玉彦のもとを訪れたとき、綿津見大神の娘である豊玉毘売トヨタマビメ)と結婚する。
つまりトヨタマビメの父がトヨタマヒコ(綿津見大神)であった。

そして、トヨタマビメとホオリノミコトとの間には

鵜葺草葺不合命ウガヤフキアエズノミコト)

が生まれる。

このウガヤフキアエズノミコトはトヨタメビメの妹にあたる玉依毘売タマヨリビメに育てられたとされる。そしてやがてそのタマヨリビメと結婚。神武天皇などを生んだとされる。

ただし、神武天皇は人格としては非実在。どこかに創作があるとみてよい。

個人的には別途、"ウガヤフキアエズ"のカヤ、伽耶と同じ響きがある点に着目したい。

トヨタマヒメとワダツミの関係は過去記事でも取り上げた

shinnihon.hatenablog.com

玉依姫 / タマヨリヒメ
豊玉姫の妹である。
神武天皇(初代天皇の母。
配偶者は火遠理命(ほおりのみこと、別名は彦火火出見尊

子どもに次の4人がいる。
神武天皇神日本磐余彦尊
五瀬命(いつせのみこと)
・稲氷命
御毛沼命

 神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)神武天皇の和風諱号。

五瀬命(ひこいつせのみこと)
日本書紀では彦五瀬命
神武東征に従軍、その際に賊の矢にあたって薨じた。

■稲氷命(いないのみこと)
日本書紀では稲飯命
書紀では稲飯命は神武東征に従ったとする。
熊野に進んで行く際に暴風に遭った。
そして次のように言ったとされる。

「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言い剣を抜いて海に入った。
そして「鋤持(さいもち)の神」になったとされる。
「鋤(さい)」は農具の一種で、手と足を使って土を掘り起こす。

御毛沼命(みけいりぬのみこと)
日本書紀では三毛入野命
御毛沼命は稲氷命と同様に兄弟とともに神武東征に従ったとされる。
古事記では、常世の国に渡ったと記されている。

宮崎県高千穂町では御毛沼命に関する伝承がみられる。
三毛入野命は兄弟たちからはぐれてしまい、高千穂に帰還したとする。

三毛入野命は宮崎県・高千穂神社の祭神。その妻子神とあわせて「十社大明神」とされている。

■宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)
玉依姫の弟であるとする文献(古代豪族系図集覧)がみられる。
穂高見命(ほだかみのみこと)とも言われる。
穂高見命は阿曇氏の祖、信濃国の安曇氏の祖とも考えられている。

名前から金属を加工する職人(神)と考えられている。

一方、古代の地名との一致に着目するとウド、シビがみられる。

・宇都(ウド)
読み方としては「ウト」、そして「ウヅ」が考えられる。
また兄弟神の九州との関連から熊本の「宇土」との関連も想定できるだろうか。

・志日(シビ)
朝鮮の古代王国・百済の首都、泗沘(シビ)がある。
またそのシビには元がある。
中東のシビパキスタン南西部,バルチスターン州、クウェッタ県の町)が地名の語源となる可能性もあるように思う。

・拆(さく)
拓くや裂けるを意味する。
日本書紀の別の神、イシコリドメは鏡作り職人の女神。そのつくった鏡として
日像鏡(ひがたのかがみ)、日矛鏡(ひぼこのかがみ)があるとされている。
日像鏡日前神宮の神体、日矛鏡國懸神宮の神体とされる。

これに習うとウツシビカナサクは農業用、あるいは古墳建設など土木用の工具の金属加工職人だろうか。

サクから長野県にまつわる神とも考えられている。
佐久市の「佐久」に居住した人びとと関係あるのではという説もみられる。

長野には古来に安曇氏が移民している。
長野、安曇氏については別途紹介していきたい。

弟橘媛 / オトタチバナヒメ
日本武尊(ヤマトタケル)の妃。

このヤマトタケルの「ヤマト」は九州、熊本付近にあった古代の国を指すと考えられる。107年頃に後漢帥升(師升)朝貢した。
これに関連して出てくる「倭面土」は九州のヤマトをさすと考えられる。

弟橘媛ヤマトタケルの関東への東征に同行。
ヤマトタケルの九州への帰路の際、走水の海(はしりみずのうみ、現在の浦賀水道で急きょ暴風に遭う。
 

弟橘媛は海神の娘だからだろうか。
弟橘媛は自らが犠牲となって海神の怒りを鎮めようと海に身を投じた。
 

弟橘媛の夫を救いたいという祈りが通じたとされ、やがて波風が治まりヤマトタケルたちを救った。
↓は過去記事、弟橘媛ヤマトタケルを救った回

shinnihon.hatenablog.com

弟橘媛と建忍山垂根

建忍山垂根の別称は穂積氏忍山宿禰
穂積臣(穂積氏)の祖とされる。

穂積氏とは神武天皇以前に大和入りをした「饒速日命ニギハヤヒ」が祖先とされる氏族である。

穂積氏忍山宿禰の子供には
・弟財郎女(おとたからのいらつめ)
・大橘比売命
弟橘比売命オトタチバナヒメ
がいるとされる。

弟財郎女は古事記では第13代・成務天皇との間に和謌奴気王(ワカヌケノミコ)をもうけたとされる。

ニギハヤヒが史実とすれば、オオクニヌシスクナビコナなどと同時代の人物だろうか。

■感想
宗像三女神は、
沖津宮
中津宮
辺津宮
にまつられる。

そして
田心姫神(タゴリヒメ)
湍津姫神タギツヒメ
市杵島姫神イチキシマヒメ
が割り当てられている。

しかしタゴリヒメやタギツヒメはいずれも地理と神社は結び付けられるが史実性が薄いように思う。

歴史的、位置的にみれば宗像神社のある福岡県宗像市、そして壱岐島対馬朝鮮半島からの渡来ルートである。また由緒ある場所。

対馬にはシゲノダン遺跡などがあり出土している数々のものも興味深いものがある。

もしかすると、古代に活躍した人びとののちの娘たち、トヨタマヒメやタマヨリヒメ、オトタチバナヒメの史実から三女神が建国にかかわり、のちに神格化、その後に宗像三女神として発展していったということは考えられないだろうか。
トヨタマヒメやタマヨリヒメ、オトタチバナヒメにまつわる史実は東征に由来するものが多い。

仮に正しいとすれば、ヒミコ、トヨののちの世、西暦280年~西暦310年前後の女神たちの史実がのちに神話化されていった可能性がある、ということになるのではあるが。

<参考>
ホオリ - Wikipedia
稲飯命 - Wikipedia
御毛沼命 – 國學院大學 古典文化学事業

三毛入野命 - Wikipedia
十社大明神 - Wikipedia
宇都志日金拆命 - Wikipedia
穂高神社 - Wikipedia
宇都志日金拆命 - Wikipedia
・建忍山垂根 - Wikipedia
・穂積氏 - Wikipedia

340.中国・秦の半両銭が出土した福岡、山口、三重

半両銭をテーマとし、日本の古代を追っていく。次の流れで紹介していく。

・半両銭
・総社村東03遺跡
・日本で出土した半両銭
 1.福岡県・志摩町御床松原遺跡(みとこまつばらいせき)
 2.福岡県・志摩町新町遺跡
 3.山口県下関市武久浜墳墓群
 4.山口県宇部市沖ノ山遺跡
 5.三重県・熊野市波田須町
・まとめ

■半両銭
半両銭は秦代(紀元前230年~紀元前221年)から前漢(紀元前206年 - 8年)にかけて広く使用されたとされる中国における貨幣である。

当時の度量衡では一両は24銖(しゅ)であった。
半両銭はその半分12銖にあたる約8g程度、このため「半両銭」と呼ばれる。

秦代以前にも半両銭は存在した。
しかし大きさもまちまち、利用もまばらであった。
これを秦の時代に利用を強制、通貨統一をさせた。

■総社村東03遺跡

日本において、最近では、群馬県前橋市・総社町の「総社村東03遺跡」の発掘調査により「半両銭」や7世紀から13世紀にかけの渡来銭などが10万枚が見つかった。

発掘時の状態は、藁の袋に入れられていたとされる。
このため、中世期の戦乱などで急きょ地中に埋められたとものとみられている。

使用された年代を確定するには当時の地層から出土する必要がある。そうでなければのちの時代に流通していたかもしれずはっきりしない。
ただし、大量の出土は古代、この地が重要な場所であったことを示すのに十分と思われる。
↓は朝日新聞デジタル前橋市社町にて埋蔵銭10万枚超が見つかったとする記事

www.asahi.com

↓は前橋フィールドミュージアム、発掘調査結果を展示したときのイベント紹介ページ

maebashi-bunkazai.jp

↓はwikipedia、半両銭

ja.wikipedia.org

■日本で出土した半両銭
上記の「総社村東03遺跡」のほか、下記の遺跡で出土している。
※ただし、出土したものの、現存しない遺跡もあるという。

1.福岡県・志摩町御床松原遺跡(みとこまつばらいせき)
 ・1枚が出土
 ・前漢紀元前175年以降のものとされる

↓は日本・史跡ナビ、御床松原遺跡

shisekinavi.com

2.福岡県・志摩町新町遺跡
 ・1枚が出土
 ・前漢紀元前175年以降のものとされる
↓は糸島市志摩町新町遺跡の展示館

www.city.itoshima.lg.jp

3.山口県下関市武久浜墳墓群
 ・1枚が出土
 ・前漢紀元前175年以降のものとされる
↓はまいぶん山口、「武久浜墳墓群出土品」開催のお知らせのページ

www.y-maibun.jp

4.山口県宇部市沖ノ山遺跡
 ・17枚が出土
 ・前漢紀元前175年以降のものとされる
↓は宇部市、沖ノ山からの出土品に関するページ

www.city.ube.yamaguchi.jp

5.三重県・熊野市波田須町
 ・7枚出土のうち1枚が現存
 ・秦の半両、秦の統一以降のものとされる
↓は熊野市観光公社、徐福との関連で半両銭が取り上げられている

kumano-kankou.com

■まとめ

・過去記事で秦のあとの「新」の貨幣について取り上げた。今回は秦代の通貨の出土となる。

・半両銭は秦代(紀元前230年~紀元前221年)から前漢(紀元前206年 - 8年)にかけて使用された中国の古銭

・直近で群馬(前橋)で出土した。中世以降に埋められたものか。
・これまで福岡、山口、和歌山などで出土している

<参考>
半両銭 - Wikipedia
日本銀行金融研究所 中国貨幣の歴史 「半両銭」による貨幣統一
https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/kinken/mod/gra_china8.pdf

339.双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)による九州と和歌山と群馬の共通点

今回は「双脚輪状文」をテーマに古代をさぐる。これより、九州と和歌山や群馬につながりがあったのではないかということを示す。次の流れで紹介していく。

・双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)
・スイジガイ
和歌山県・岩橋千塚古墳群における双脚輪状文
群馬県・中二子古墳
・装飾壁画の中の双脚輪状文
・まとめ

■双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)
輪っか状のものに二股の脚がみられる埴輪である。
形象埴輪に分類される。
双脚輪状文埴輪は冠帽として被っている状態の埴輪が見つかった。

これより、帽子のようなものであることがわかっている。

下記は井辺八幡山古墳(いんべはちまんやまこふん)で見つかった双脚輪状文埴輪。

↓は東京新聞Web、井辺八幡山古墳で見つかった双脚輪状文埴輪

www.tokyo-np.co.jp

参考:全国遺跡総覧、双脚輪状文の交流 装飾古墳の双脚輪状文と和歌山県岩橋千塚古墳群出土埴輪を考える

sitereports.nabunken.go.jp

■スイジガイ
双脚輪状文埴輪の形状はスイジガイをもとにしているのではないかとする論文がみられる。

スイジガイは日本では紀伊半島以南の沿岸地域、沖縄や奄美といった南西諸島で産出。

↓はwikipedia、スイジガイ

ja.wikipedia.org

スイジガイは古墳の副葬品に貝釧として出土することがある。

↓は文化遺産オンライン、貝釧路、静岡県磐田市 松林山古墳出土(4世紀)

bunka.nii.ac.jp

また、巴形銅器(ともえがたどうき)は2世紀、弥生時代の終わり頃からつくられたとされる。
この巴形銅器はスイジガイを模したものではないかとする説が有力。

↓は文化遺産オンライン、巴形銅器、山口市 赤妻古墳出土、5世紀

bunka.nii.ac.jp

■岩橋千塚古墳群における双脚輪状文

岩橋千塚古墳群の所在は和歌山県の東部、和歌山市岩橋。
古墳の総数は850基ほどから成るとされる。
築造年代は4世紀末から7世紀。
中でも6世紀後半に多く築造されたとされる。

和歌山県和歌山市では岩橋千塚古墳群のうち

・井辺八幡山古墳
・大谷山22号墳
・大日山35号墳

で双脚輪状文がみつかっている。
↓は過去記事、岩橋千塚古墳群を扱った回

shinnihon.hatenablog.com

↓は和歌山県紀伊風土記の丘、大日山35号墳から出土した双脚輪状文埴輪

jmapps.ne.jp

↓はwikipedia、大谷山22号墳

ja.wikipedia.org

群馬県・中二子古墳

関東では
群馬県中二子古墳

で双脚輪状文埴輪がみつかっている。

中二子古墳は6世紀前半に築造された前方後円墳

毛野地域では第10代崇神天皇皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が毛野の祖となっていったエピソードが示されている。

↓は過去記事で二子古墳を扱った回

shinnihon.hatenablog.com

↓は豊城入彦命が登場する回

shinnihon.hatenablog.com

■装飾壁画の中の双脚輪状文

双脚輪状文は埴輪としてだけではなく、横穴式石室の石屋形に壁画として描かれることがある。

九州では

・福岡県・桂川町王塚古墳
・福岡県・広川町弘化谷古墳
佐賀県鳥栖市田代太田古墳
熊本市・横山古墳
熊本市・釜尾古墳
大分県別府市 鬼の岩屋第2号墳

などでみつかっている。

装飾古墳は4世紀末頃から7世紀頃まで造られた。
全国の装飾古墳を九州で56%以上を占める。

↓は装飾古墳とはなにかを扱った回

shinnihon.hatenablog.com

↓は九州国立博物館、弘化谷古墳の双脚輪状文が画像でわかる

www.kyuhaku.jp

■まとめ
・双脚輪状文は輪っか状のものに二股の脚がみられる形象埴輪、シャンプーハットに似た帽子
・九州では装飾壁画としてみられる
・双脚輪状文埴輪としては近畿では和歌山県、岩橋千塚古墳群、関東では群馬県・中二子古墳などでみられる

結論:

ヤマトタケルの東征(西暦300年前後)後、双脚輪状文埴輪から和歌山、群馬などと文化的あるいは風習的な価値観によるつながりがあることがわかる。

王権の主体が近畿に移動したためだろうか。
九州では装飾古墳の壁画として芸術が芽生えていることがわかる。
そのような中で古来からのスイジガイが描かれたり、冠帽となった可能性が高い。

<参考>
・紀国造家の実像をさぐる 岩橋千塚古墳群
東海大学大学院 / 双脚輪状文の成り立ちと展開
https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/zenbun_k_kato_shunpei_2016._?key=IIGTHG

338.馬冑の出土にみる熊本と和歌山と埼玉の関係

今回は「馬冑」が出土した古墳を取り上げる。九州・ヤマト国のヤマトタケルの東征後、その後の熊本との共通点が残されている。次の流れで紹介していく。

・馬冑が出土した3つの古墳
・埼玉古墳・将軍山古墳
和歌山県和歌山市・大谷古墳
・福岡・船原古墳
・まとめ

■馬冑が出土した3つの古墳
現時点では
・埼玉古墳群 将軍山古墳
・大谷古墳 和歌山県和歌山市
・船原古墳 福岡県古賀市

の3ヶ所の古墳しかみられず、馬の武装用のかぶとである「馬冑」の出土はひじょうにめずらしいとされる。

■埼玉古墳群・将軍山古墳

形式は前方後円墳
全長は90m。
建造は6世紀後半。
明治時代、後円部に造られた横穴式石室が発掘された。馬のカブトである馬冑(ばちゅう)、蛇行状鉄器、銅鋺(どうわん)、環頭大刀(かんとうのたち)など多くの副葬品が出土。

なお同じ埼玉古墳群に瓦塚古墳がある。
形式は前方後円墳
全長は73m。
建造は6世紀前半。
美豆良をした男子の埴輪が出土している。
琴を持つ。

↓は埼玉県立さきたま史跡の博物館、馬冑が画像で確認できる

sakitama-muse.spec.ed.jp

蛇行状鉄器は馬に旗をジョイントさせる金具。
↓埼玉県立さきたま史跡の博物館 蛇行状鉄器が画像で確認できる

sakitama-muse.spec.ed.jp

↓さきたま古墳群、瓦塚古墳には美豆良をした男子の埴輪が出土している

sakitama-muse.spec.ed.jp

↓はさきたま古墳群について紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

和歌山県和歌山市・大谷古墳

紀伊の大谷古墳からも馬冑が出土している。

紀の川下流にあたる。岩橋千塚古墳群とは紀の川をはさむものの、約10km程度の距離で近い。

古墳の形状は前方後円墳
大きさは墳丘長さ67m。
築造は5世紀末から6世紀はじめ頃とされる。

石棺は九州の阿蘇山凝灰岩(ぎょうかいがん)の組合式。
長さ2.9m、幅約1.6m、高さ約1.6m。
石棺内部は朱で塗られていたとされる。
↓はgooglemap、大谷古墳

maps.app.goo.gl

↓は文化遺産オンライン 紀伊・大谷古墳から出土した馬冑

bunka.nii.ac.jp

↓はワカタケルに関する鉄剣を取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

最後に、福岡における馬冑の出土について。

■福岡・船原古墳
所在は福岡県古賀市谷山。
形式は前方後円墳
全長45m以上と推定されている。
築造は6世紀末から7世紀初めとされる。

盗掘もあるものの、豪華な馬具をはじめとする総数500点以上の出土品が発見されている。

立地としては宗像地域と福岡平野の間にあり、かつ前方後円墳となる。

↓は福岡県古賀市谷山、船原古墳

maps.app.goo.gl

↓は四国新聞社、船原古墳から出土した金銅製馬具に関する記事

www.shikoku-np.co.jp

参考:福岡県古賀市文化財調査報告書 第 68 集 船原古墳Ⅰ
P105~出土した遺物の画像あり
https://www.city.koga.fukuoka.jp/uploads/source/bunka/2016%E3%80%8E%E8%88%B9%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E2%85%A0%E3%80%8F.pdf

■まとめ
・馬冑の出土例はめずらしく、次の3つの古墳。
 ・埼玉古墳群 将軍山古墳
 ・大谷古墳 和歌山県和歌山市
 ・船原古墳 福岡県古賀市

・九州阿蘇地域の凝灰岩がわざわざ紀伊・和歌山に運ばれ石棺として用いられている。5世紀末から6世紀はじめにみられる。

また、過去記事では、

・熊本と埼玉においては鉄剣からつながりがある。
 熊本県玉名郡和水町の江田船山、そして埼玉県・さきたま古墳群の稲荷山古墳出土の鉄剣はともにワカタケル、雄略天皇に比定される人物名が刻まれている。

以上から
・熊本と和歌山:石棺に用いられた阿蘇山凝灰岩にみられる
・熊本と埼玉:ワカタケル鉄剣にみられる
・埼玉と和歌山:馬冑にみられる

結論:九州・ヤマトタケルの西暦300年前後の東征ののちの、5世紀末から6世紀においても熊本、福岡、和歌山、埼玉などで馬冑から考古学的にも武人、馬冑による共通性がみられることを確認できた。

337.和歌山三社参りとイソタケル

和歌山市の三社参りに関連する神社を起点とし古代を紹介していく。そしてイソタケルとはどのような人物の象徴であったか。次の流れで紹介していく。

和歌山市の三社参り
日前神宮國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)
日前神宮國懸神宮の祭神と相殿
・名草郡(なぐさぐん)
・竈山神社(かまやまじんじゃ)
・伊太祁󠄀曽神社(いたきそじんじゃ)
五十猛神(イタケルノミコト、イソタケルノミコト)
伊太祁曽神社1号墳(いたきそじんじゃいちごうふん)

和歌山市の三社参り
日前神宮國懸神宮、竈山神社、伊太祁󠄀曽神社に参詣することを「三社参り」という。

まずは日前神宮國懸神宮について。

日前神宮國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)
所在は和歌山県和歌山市秋月。
岩橋千塚古墳群とは3.2kmほどの距離にある。

神武天皇東征の後、天道根命(あめのみちねのみこと)紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命された。

そして
日像鏡(ひがたのかがみ)
日矛鏡(ひぼこのかがみ)
の二つの神鏡をもって、紀伊國名草郡(なぐさぐん)毛見郷の地に奉祀したのが日前神宮國懸神宮の起源とされる。

日前(ひのくま)は檜隈(ひのくま)と読みが同じである。
古代においてはどのような関係があっただろうか。

檜隈はかつての大和国高市郡(現在の奈良県高市郡明日香村大字檜前、栗原、御園)

そして大和国高市郡・檜隈の北には橿原市が存在する。

和歌山の日前と檜隈との距離は約70km~80kmほど。
紀の川吉野川を上流したのちに北上すれば辿り着く。
↓はgooglemap、日前神宮國懸神宮

maps.app.goo.gl

日前神宮國懸神宮の祭神と相殿

日前神宮

・祭神:日前大神(ひのくまのおおかみ)
・相殿:思兼命(おもいかねのみこと)
    石凝姥命(いしこりどめのみこと)

國懸神宮
・祭神:國懸大神(くにかかすのおおかみ)
・相殿:玉祖命(たまおやのみこと)
    明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
    鈿女命(うづめのみこと)
日前神宮國懸神宮公式サイトの由緒 神宮概略

hinokuma-jingu.com

■名草郡(なぐさぐん)
かつて存在した紀伊国和歌山県の郡。

大化の改新の後、日前神宮國懸神宮の神郡として起こった。

國懸の懸・カカスについて。語源は不明だが、長野県下伊那郡喬木加々須にも加々須の地名が残る。長野も古代氏族が別れていった古い土地である。

つづいて、竈山神社について。

■竈山神社(かまやまじんじゃ)
記紀によれば神武天皇の長兄の彦五瀬命五瀬命が竈山に葬られたという。
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)

ウガヤフキアエズ
タマヨリビメ

の二人の間に生まれたとされる長男。
神武天皇の長兄にあたるとされる。

日本書記の神武の始まりは紀伊国を発祥に設定しているふしがある。

このあたりが「いた・きそ」に「キソ」という言葉が入っている由縁なのであろうか。

史実は九州・ヤマトタケルが東征し武力によって平定していった。

当時卑弥呼の時代より前に倭国大乱が発生、諸国が乱立し、豪族が乱立している時代であった。

和歌山にもヤマトタケルが立ち寄っただろう。神武の東征のルートに和歌山も含まれている。

↓はwikipedia、竈山神社

ja.wikipedia.org

最後に、伊太祁󠄀曽神社について。

■伊太祁󠄀曽神社(いたきそじんじゃ)
紀伊国の一宮である。

所在は和歌山県和歌山市伊太祈曽

文献上は続日本紀、702年文武天皇・大宝2年)が初出とされる。

主祭神
五十猛命 (いたけるのみこと)
 別名は大屋毘古神(おおやびこのかみ)

配神:
・左脇殿:大屋都比賣命 (おおやつひめのみこと)
・右脇殿 :都麻津比賣命(つまつひめのみこと)

先述の通りで伊太祁󠄀曽という言葉の中にキソのほか、イソとタキ、そしてイダが存在する興味深い神社名である。

神社の由来では祭神の「五十猛命」の読み方をイタケルと主張するが、本来はイソ・タケルなのではないだろうか。

五十猛神(イタケルノミコト、イソタケルノミコト)

射楯の神とも。

日本書紀にて五十猛が紀伊国に祀られることになった経緯が描かれている。

高天原を追われた素戔嗚尊とその子の五十猛神はともに新羅に降り立った。

しかし、その地を気に入ることはなかった。
そのため、船で出雲国に移動したとする。

島根の大田市には五十猛神社がある。

素戔嗚尊高天原から持ってきた木の種を五十猛神に渡した。

そしてその種を日本中にまくように命じたとされる。

五十猛神には妹がいる。
大屋津姫命(おおやつひめのみこと)
・都麻津姫命(つまつひめのみこと)
である。
伊太祁󠄀曽神社の配神は五十猛神の妹ということになる。

この妹たちとともに九州から順に日本中に種をまき始め国中を青山にしたとされる。
そして最後に木の国紀伊国に定住したことになる。

これより、五十猛神は有功神(いさおしのかみ)と呼ばれるようになる。
そして紀伊国に祀られたとされる。

少なくとも物語上において
・日本を緑化していったのがイソタケルであるということ
・最終的に紀伊国にいる由来

を主張、日本の基礎(国土の農業としての土台)をつくった人びとであるということではないだろうか。
↓はgooglemap、伊太祁󠄀曽神社

maps.app.goo.gl

↓はwikipedia、伊太祁󠄀曽神社

ja.wikipedia.org

伊太祁曽神社1号墳(いたきそじんじゃいちごうふん)

所在は和歌山県和歌山市伊太祈曽

形状は円墳。
大きさは直径16m。

築造は6世紀。

この1号墳のほか、2号墳、3号墳が存在し、ともに円墳である。埋葬施設として両袖式横穴式石室がある。

岩橋千塚古墳群の石室は石室としての完成度のレベルが最高度ではないだろうか。

断片化された石を精緻に積み上げている。

関東の千葉、埼玉、群馬などのものとは石の細かさが異なる。通常の石室は大きな石を積み上げている。
↓はwikipedia伊太祁曽神社1号墳

ja.wikipedia.org

<参考>
日前神宮・國懸神宮 - Wikipedia
竈山神社 - Wikipedia

名草郡 - Wikipedia
檜隈 - Wikipedia
大屋毘古神 - Wikipedia
影媛 - Wikipedia
武内宿禰 - Wikipedia

336.和歌山の岩橋千塚古墳群

和歌山、岩橋千塚古墳群を紹介。「紀氏」にまつわる古墳群とされる。次の流れで紹介していく。

・岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)
・天王塚山古墳と横穴式石室
・将軍塚古墳と石棚
・前山A2号墳とT字形石室
・前山A17号墳と衝角付冑
・前山A46号墳と大規模の円墳
・大日山35号墳と両面人物埴輪
・井辺八幡山古墳
・須恵器・皮袋形提瓶(かわぶくろがたへいてい)
・紀弥麻沙(きのみまさ)

■岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)
岩橋と書いて「いわせ」と読む。
所在は和歌山県の東部、和歌山市岩橋。
古墳の総数は850基ほどから成るとされる。
築造年代は4世紀末から7世紀。
中でも6世紀後半に多く築造されたとされる。

古墳の形式は前方後円墳、円墳、方墳から構成されている。
形式ごとの数が公表されている文献によれば
前方後円墳:27基
・方墳:4基
・その他:円墳
とされ、ほとんどが円墳とされる。

和歌山市には紀ノ川が流れる。
和歌山市側を紀ノ川、奈良県側を吉野川と呼ぶ。
岩橋千塚古墳群は紀ノ川の下流域にあたる。

日本書紀によると5、6世紀頃、紀ノ川河口には「紀伊水門(きのみなと)」という
ヤマト王権の外港があったとされる。
大和盆地へ通じるルートの一つとして重要な役割を持っていたと考えられている。

参考:
①:和歌山県立 紀伊風土記の丘:岩橋千塚古墳群の概要
②:岩橋千塚古墳群 - Wikipedia
③:下流は紀の川、上流は吉野川? | ニュース和歌山
④:岩橋千塚古墳群 | 和歌山市の文化財

■天王塚山古墳と横穴式石室
特徴:和歌山県では最大規模
墳丘長:88m
形式:前方後円墳
築造時期:6世紀中葉(推定)
石室:高さ5.9mの横穴式石室があり、全国第2位の大きさとされる。
↓googlemap、天王塚山古墳

maps.app.goo.gl
↓は天王塚山古墳、玄室。石の加工技術が並ではないことがわかる

ja.wikipedia.org

■将軍塚古墳と石棚
墳丘長:42.5m
形式:前方後円墳
築造時期:6世紀後半(推定)
標高150mほどの、岩橋前山山頂付近にある。
後円部石室が公開されている。
玄室に石棚、石梁を伴っている。
↓はgooglemap、将軍塚古墳

maps.app.goo.gl

■前山A2号墳とT字形石室
大きさ:直径10m
形式:円墳
築造:6世紀後半

周囲に小型の円墳が7基群集。

埋葬施設は
・岩橋型横穴式石室
・その玄室はT字型をしており「T字形石室」と呼ばれている
↓はgooglemap、前山A2号墳

maps.app.goo.gl

↓は紀伊風土記の丘、前山A2号墳のページ 石室の様子が画像で確認できる
https://www.kiifudoki.wakayama-c.ed.jp/iwase_tomb/kofun/001%20maeyama_A2/maeyama_A2.htm

■前山A17号墳と衝角付冑
形式:方墳。一辺が約14mとされる。
築造時期:5世紀
埋葬:
・方墳の中央に副室が位置、箱式石棺が配置されていた。また衝角付冑が出土。
・一方、主室からは2本の直刀が出土している。   
岩橋千塚古墳群の中では古い年代の古墳にあたるとされる。
↓はgooglemap、前山A17号墳

maps.app.goo.gl

■前山A46号墳と大規模の円墳
特徴として周辺で最大規模の円墳である。
形式は円墳。
大きさは直径27m、高さ8m。
埋葬は横穴式石室がある。
その大きさは長さ8.5m、高さ3.4m。
↓はgooglemap、前山A46号墳

maps.app.goo.gl

■大日山35号墳と両面人物埴輪
特徴は岩橋千塚古墳群の西端、標高141mの大日山山頂に築造された古墳で豊富な副葬品がみられる。

形式は前方後円墳
築造年代は6世紀前半。
埴輪や須恵器が出土。

埴輪は種類が豊富とされる。
なかでも両面人物埴輪、そして翼を広げた鳥形埴輪はめずらしいとされる。

両面人物埴輪は前と後ろで異なる顔をしている。
髪型が美豆良である。
頬の部分に矢羽根が線刻で彫られている。
何を示しているかはわかっていない。

この大日山35号墳や井辺八幡山古墳で双脚輪状文埴輪(そうきゃくりんじょうもんはにわ)もみつかっている。
双脚輪状文埴輪は冠帽として被っている埴輪が見つかり、帽子のようなものであることがわかっている。

↓は和歌山県紀伊風土記の丘、大日山35号墳から出土した双脚輪状文埴輪

jmapps.ne.jp

形状はサンバイザー、あるいはシャンプーハットのような形、高貴な人が着用していただろうか。
髪型が美豆良をしている男性の人物がかぶっている。
↓は文化遺産オンライン、大日山35号墳の出土品

bunka.nii.ac.jp
↓は東京国立博物館・1089ブログ、大日山35号墳から出土した両面人物埴輪が画像で紹介されている

www.tnm.jp

wikipedia大日山35号墳では石室からの出土品が詳細に記されている。
武具や馬具から武人であり、かつ弓金具や胡籙(やなぐい)などから弓に長けた人物であったと想定される

ja.wikipedia.org

■井辺八幡山古墳(いんべはちまんやまこふん)
形状は前方後円墳
大きさは墳丘長70m
築造時期は6世紀前半~中葉。
岩橋千塚古墳群に含まれるが、国の特別史跡には指定されていない。
顔に入墨がみられる「力士埴輪」が出土している。
装飾付器台もユニークな形をしている。
井辺八幡山古墳からも双脚輪状文埴輪がみつかっている。
実は熊本からもみつかっている。別回にて紹介としたい。
↓はgooglemap、井辺八幡山古墳

maps.app.goo.gl

↓はwikipedia、井辺八幡山古墳 出土品が画像で確認できる

ja.wikipedia.org

↓は東京新聞Web、井辺八幡山古墳で見つかった双脚輪状文埴輪

www.tokyo-np.co.jp

■須恵器・皮袋形提瓶(かわぶくろがたへいてい)
古代の水筒が岩橋千塚古墳でみつかっている。
・岩橋千塚古墳
岡山県津山市高尾 桑山南4号墳/幅約25.5cm、高さ約33cm
兵庫県たつの市 山王山古墳/6世紀、口径6.4cm、高さ12.5cm
・愛知県一宮市

などで発見されているようだ。

↓は文化遺産オンライン・兵庫県たつの市 山王山古墳出土の皮袋形提瓶

bunka.nii.ac.jp

■紀弥麻沙(きのみまさ)
紀氏と関わる人物に紀弥麻沙がいる。
6世紀中頃の倭系百済人、官位は奈率。
紀臣(紀氏)が韓婦を娶って生まれた子。
百済に留まり、のち奈率となったとされる。
安羅の日本府と新羅が計を通じたと聞いた百済は、弥麻沙を前部奈率鼻利莫古、奈率宣文、中部奈率木刕眯淳らとともに安羅へ遣わしたとされる。
↓は百済で官僚になった倭人たち にて紀弥麻沙を扱った

shinnihon.hatenablog.com

<参考>
和歌山県立紀伊風土記の丘|公式ホームページ
井辺八幡山古墳 | 和歌山市の文化財

335.銅鐸に刻まれたシカ

今回は銅鐸に刻まれている「シカ」をテーマとして古代を探る。いつから鹿はいたか。また銅鐸はいつからつくられたのだろうか。次の流れで紹介していく。

長崎県佐賀貝塚からの鹿笛の出土
・銅鐸がつくられた年代
・銅鐸に刻まれたシカ
 ①:伝・香川県出土銅鐸(国宝)
 ②:大阪府恩智銅鐸(外縁付鈕2式銅鐸)
 ③:静岡県悪ケ谷銅鐸(袈裟襷文銅鐸)
 ④:兵庫県気比3号銅鐸
 ⑤:鳥取県泊銅鐸
 ⑥:三重県磯山銅鐸
・大野手比売(おほぬてひめ)
・銅鐸の起源
・まとめ

まずは古代にそもそも日本に鹿はいたのか。

長崎県佐賀貝塚からの鹿笛の出土
長崎県によれば、長崎県対馬市の「佐賀貝塚」からの出土品に
縄文時代の鹿角製の鹿笛
が出土している。

佐賀貝塚対馬島中部、峰町佐賀に所在する。
縄文時代中期(5000年~4000年ほど前)から後期(4000年~3000年ほど前)の遺物を中心とする遺跡。

下記参考サイトにて鹿角製の鹿笛が画像にて紹介されている。
参考①:長崎県長崎県文化財より:長崎県の文化財
参考②:九州大学/音楽考古学の報告書を読む では楽器の観点から古代が語られている
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2794861/p071.pdf

続いて、銅鐸はいつから存在していたのだろうか。

■銅鐸がつくられた年代
銅鐸は紀元前2世紀頃から現れ約400年間にわたってつくられた。
1世紀末ごろにその大きさが巨大化したとされる。

銅鐸はこれまでに600個程度が発見とされており、うち100個ほどになんらかの「絵」が描かれているとされる。

■銅鐸に刻まれたシカ
以下のサイトや文化遺産オンラインをもとに紹介していく。

出典先:東京国立博物館・【トーハク考古ファン】より、銅鐸に描かれたシカ

www.tnm.jp

東京国立博物館において、保有している銅鐸のうち10個にシカが描かれているとされる。

①:伝・香川県出土銅鐸(国宝)
香川県から出土したとされる。
時代は弥生時代(中期)の前2世紀~前1世紀の銅鐸。

6つの区画内に
 - 人物
 - 鳥
 - イノシシ
 - 昆虫 
 - 爬虫類 
 - 狩人に狙われたシカ
が描かれているという。

この銅鐸と似た銅鐸が見つかっている。
・神戸市桜ヶ丘遺跡出土の5号銅鐸、4号銅鐸
・谷文晁所蔵銅鐸
 ※江戸時代の画家・谷文晁(たにぶんちょう)所蔵と伝えられており、拓本と模写だけが残る
香川県出土銅鐸
の順でつくられたと考えられている。
↓はe国宝、香川県出土銅鐸

emuseum.nich.go.jp

②:大阪府恩智銅鐸(外縁付鈕2式銅鐸)
大阪府八尾市恩智中町から出土。
時代は弥生時代の中期、前2世紀~前1世紀のものとされる。
銅鐸の吊り手の部分にはカエルが描かれる。
そして裾(すそ)には魚の群れ、その反対側にシカの群れが描かれている。
↓は文化遺産オンライン、大阪府八尾市恩智中町3丁目出土の銅鐸

bunka.nii.ac.jp

③:静岡県悪ケ谷銅鐸(袈裟襷文銅鐸)
静岡県浜松市北区細江町、悪ヶ谷から出土。
時代は弥生時代の後期・1世紀~3世紀のものとされる。
6区画の下段の区画に
 - シカ(雄)
 - 鳥
が描かれているという。
↓は文化遺産オンライン、静岡県浜松市北区細江町中川(悪ヶ谷)出土の銅鐸

bunka.nii.ac.jp

④:兵庫県気比3号銅鐸
兵庫県豊岡市気比から出土。
3号銅鐸では吊り手に、少なくとも17頭のシカが描かれているとされる。
下記e国宝、によって兵庫県豊岡市気比の銅鐸を調べると、

・1号銅鐸:
 - 身ではシカ列(中央部には人物らしきもの)
 - 鈕(吊り手)に爬虫類らしきものが対面

・2号銅鐸:
 - 鈕にシカ

・3号銅鐸:
 - 鈕にはシカ
 - 身にはトンボ、魚、スッポンのような生物、人物

・4号銅鐸:
 - シカ列と人物
が表現されている。
↓は文化遺産オンライン、兵庫県豊岡市気比出土の銅鐸

emuseum.nich.go.jp

次の同笵関係(鋳造に同じ鋳型を使用)があるとされる。

2号銅鐸は
島根県加茂岩倉5号銅鐸

3号銅鐸は
大阪府東奈良遺跡で発見された鋳型から製作されているとする

4号銅鐸は
・加茂岩倉21号銅鐸
・伝大阪府陶器銅鐸
・伝福井県井向銅鐸
↓はgooglemap、兵庫県豊岡市気比

maps.app.goo.gl

⑤:鳥取県泊銅鐸
絵物語風に
 - 人物
 - 生き物
 - 10頭のシカ
が描かれている。

同じ鋳型を使いまわすと文様などが不鮮明となるとされる。
それを相互補完できるような関係により銅鐸の作成順が判別できるよされる。

初鋳~五次鋳までが下記とされる。

・初鋳:神戸市桜ヶ丘出土一号流水文銅鐸
・二次鋳:兵庫県西宮市松下町
・三次鋳:滋賀県新庄出土品
・四次鋳:辰馬考古資料館蔵
・五次鋳:鳥取県泊出土品
文化遺産データベース、流水文銅鐸、二次鋳にあたる 兵庫県西宮市松下町 の紹介ページ

bunka.nii.ac.jp

⑥:三重県磯山銅鐸
出土地は三重県鈴鹿市磯山町。
時代は弥生時代の中期、前2世紀~前1世紀とされる。

裾の部分に
 - シカ
   - イノシシ
 が列をなして向かい合う場面が描かれたもの
↓は文化遺産オンライン、三重県鈴鹿市磯山町出土の銅鐸

bunka.nii.ac.jp

■大野手比売(おほぬてひめ)
大野手比売は古事記の国産みにおいて小豆島の別名として登場。「おおぬでひめ」の「鐸」(ぬで / ぬて /ぬりて)は銅鐸のことであると考えられている。

小豆島にはかつて大鐸村(おおぬでそん)という村があった。

1890年2月15日 、町村制施行に伴って大鐸村が発足、小豆郡肥土山村、笠ヶ瀧村、黒岩村、小馬越村の合併によって誕生したとされる。1955年にさらなる合併により土庄町となって消滅した。
↓はgooglemap、小豆島の三五郎池からは銅鐸が出土したとされる

maps.app.goo.gl

■銅鐸の起源
中国の春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)、中国江蘇省無錫市の地方国家である「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸(たく)が出土している。

日本における銅鐸の出土地域は
兵庫、島根、徳島、滋賀、和歌山が41点~56点出土しており多い。そのほか、北九州・佐賀の吉野ケ里遺跡、そして淡路島からも出土している。
↓はwikipedia、銅鐸のページ、歴史の箇所にて越の貴族墓の件および国宝・重要文化財の銅鐸が紹介

ja.wikipedia.org

■まとめ
・銅鐸は中国の越にて原形のような磁器の鐸が出土している
・日本では紀元前2世紀頃から現れ約400年間にわたってつくられた
・1世紀末ごろにその大きさが巨大化
・3世紀になって突然つくられなくなった
古事記の大野手比売(おほぬてひめ)は小豆島を示す

中国の三国時代魏や呉への遣使によって古代の鏡がもたらされた。
本記事では銅鐸に刻まれたシカを扱った。
また過去記事では淡路の松帆銅鐸を扱った。

これらから、既に紀元前4世紀~紀元前2世紀頃には小豆島、淡路島に鋳造技術を持つ民族がいたと考えられる。

以下は銅鐸や銅鏡に関する過去記事のリンクを再掲。
↓は淡路の五斗長垣内遺跡と松帆銅鐸を扱った回

shinnihon.hatenablog.com↓は呉の238年と244年の神獣鏡

shinnihon.hatenablog.com↓は魏の235の方格規矩四神鏡

shinnihon.hatenablog.com

↓は魏の239年の鏡

shinnihon.hatenablog.com
↓は魏の240年の鏡

shinnihon.hatenablog.com↓は天王日月をテーマとした三角縁神獣鏡

shinnihon.hatenablog.com

<参考>
銅鐸 - Wikipedia
大野手比売 - Wikipedia
大鐸村 - Wikipedia

334.志賀海神社と山誉め祭~阿曇族の祝詞と君が代~

志賀海神社の山誉め祭とは。日本の国家「君が代」と山誉め祭の祝詞は関係がある。次の流れで紹介していく。

・山誉め祭とは
・山誉め祭の祝詞
志賀海神社の歴史

■山誉め祭とは
山誉め祭は志賀海神社の神事。
神功皇后三韓出兵の伝説にちなんだ行事である。

神功皇后対馬豊浦に滞在中、志賀の海士が海山の幸で饗応したとされることに基づくとされる。

現在は春と秋に
・春:4月15日、山誉種蒔漁猟祭
・秋:11月15日、山誉漁猟祭
が行われる。

以前は旧暦の2月15日と11月15日に行われ「狩漁(かりすなどり)の御祭」と称していた。なお「狩漁」とは海の漁と山の漁のこと。

この中の「狩」の行事では
・ひもろぎを折り執り、志賀三山(勝山、衣笠山、御笠山)を祓う
・次に、扇をとり「あーらよいやましげったやま」と三方の山をほめ拝む
・そして山誉めが終わり、ひもろぎに向い、鹿がいるという問答を行い、弓で鹿を射るという作法を行う
出典:福岡市の文化財、山ほめ祭の紹介ページより

bunkazai.city.fukuoka.lg.jp

↓はYOUTUBE、福岡黄金ロード、山誉め祭

www.youtube.com

■山誉め祭の祝詞
行事の中で次の祝詞が奏上される。

あーらよい山 
繁った山
あらふれる
正木の蔓(かずら)
いろまさる 
このこまに 
水をかい 
はみをあたえよ

山は深し
木の葉は繁る 
山彦(やまびこ)の声か 
鹿の声(かのこえ)
聞分けたりとも 
覚え申さず

(いち)禰宜殿(ねぎどの)には 
七日七夜の 
おん祭り 
ごしゅに食べ酔い
ふせって候

五尺の鹿
七かしら
八かしら 
おぐしの前を通る鹿
何となさる

その時は
志賀三社 
志賀大明神の
御力(みちから)をもって
一匹たりとも逃しはせぬ


君が代
千代に八千代に 
さざれいしの
いわおとなりて
こけのむすまで

あれはや
あれこそは
わがきみのみふねかや
すろうがせ 
みがいに命
千歳(せんざい)という

花こそ咲いたる 
沖のおんづの 
潮早(しおはや)
はえたらぬ
たいは沖の 
むれんだい
つるおにくわざらぬ 
潮は沖のむれんだいほや

志賀の浜 
長きを見れば 
いくよへぬらん
香椎路に向いたる 
あの吹き上げの浜 
千代に八千代まで
今宵 
夜半につき給う
御船こそ
たが御船なりけるや

あれはや
あれこそは
阿曇の君のめし給う
御船なりけるよ

いるかよ
いるか
潮早にいるか
磯良ヶ崎に
鯛釣るおきな

いくせで釣る
よせてぞ釣る

いくせで釣る
よせてぞ釣る

いくせで釣る
よせてぞ釣る

志賀海神社の歴史
創建は明らかではない。

古くは志賀島北部の勝馬
・表津宮:表津綿津見神
・仲津宮:仲津綿津見神
沖津宮底津綿津見神
の三社が建てられ、綿津見三神がそれぞれ祀られていた。

2世紀から4世紀の間に
・表津宮を勝山の麓である現在の場所に遷座
・あわせて仲津綿津見神表津綿津見神が奉祀された
と伝えられている。

志賀海神社綿津見三神を祖神とする阿曇族が代々にわたって奉斎してきたとされる。
阿曇氏に関わる歴史としては

・806年(大同元年)平城天皇のとき、阿曇神に神封八戸が寄進された
・859年貞観元年)清和天皇のとき、従五位上の神階が授けられた
南北朝の頃には衰微するが、大内持世(おおうちもちよ、室町時代中期の守護大名、生没年は1394年~1441年)が再興する
・戦国時代では、豊臣秀吉は50石を寄進、小早川隆景黒田長政なども崇敬したとされる。
出典:志賀海神社|志賀海神社について をもとに若干、編集

君が代の作詞は古今和歌集の短歌のひとつとされる。実際はが、古今和歌集の短歌と阿曇族の起源が大きく関わっていたことになるだろうか。

↓は過去記事にて国家・君が代の成立過程について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

<参考>
・福岡県の文化財 山ほめ祭 https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=3&id=30
大内持世 - Wikipedia
平城天皇 - Wikipedia

清和天皇 - Wikipedia

333.志賀海神社と神功皇后伝説、そしてシカにまつわる話

今回は志賀海神社および神功皇后伝説を取り上げる。また神功皇后伝説に関連する豊功神社、満珠島、干珠島、忌宮神社を紹介。次の流れで紹介していく。

志賀海神社(しかうみじんじゃ)
志賀島神功皇后伝説
志賀島の金印
志賀海神社の境内の鹿角堂(ろっかくどう)
志賀島の金印
奈良公園のシカのDNA
・豊功神社(とよことじんじゃ)
・満珠島・干珠島
忌宮神社(いみのみやじんじゃ)
・まとめ

志賀海神社(しかうみじんじゃ)
所在は福岡県福岡市東区志賀島
海神の総本社。
龍の都とたたえられるとされている。

祭神は綿津見三神(わたつみさんしん)
・左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
・中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
・右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
である。

それぞれに相殿があり、
・左殿相殿:神功皇后(じんぐうこうごう)
・中殿相殿:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
・右殿相殿:応神天皇(おうじんてんのう)
とされる。

志賀島神功皇后伝説
志賀島に次の神功皇后伝説が残る。

神功皇后は出兵の際、志賀島阿曇磯良を召された。
そして龍神より干珠満珠を授かった。
そして三韓を平定して帰還した。

志賀海神社の境内の鹿角堂(ろっかくどう)
境内の鹿角堂(ろっかくどう、しかのつのどう、)には1万本以上ともいわれる鹿の角が奉納されている。その数からして「鹿」と強い関りがあることがわかる。

↓は志賀海神社の公式サイト

www.shikaumi-jinja.jp

志賀島の金印
57年に後漢光武帝が倭の奴国王に授けたとされる金印は志賀島にて発見された。
↓は漢委奴国王の印について紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

奈良公園のシカのDNA
ところで、鹿といえば奈良公園
そして奈良盆地ヤマト王権

DNAの解析結果によれば、奈良公園などのシカはもともとは紀伊半島に住むシカであったとされる。
↓はAERAdot.、奈良公園のシカの由来に関する記事

dot.asahi.com

続いて神功皇后について。

■豊功神社(とよことじんじゃ)
所在は山口県下関市長府宮崎町。
創建は1868年、明治元年
旧藩主毛利家の霊屋として創建された。

神功皇后三韓征伐の際、下関市長府に宮を置いて戦勝祈願をしたとされる。
境内から満珠・干珠を眼下に望むことができるとされる。
↓はgooglemap、豊功神社

maps.app.goo.gl

■満珠島・干珠島
下関沖の周防灘に浮かぶ2つの島。
小規模な無人島。

忌宮神社(いみのみやじんじゃ)の飛び地の境内であるとされる。

伝説ではどちらが満珠島、干珠島かは言及されていないものの、忌宮神社は沖側・大きい方を満珠島、岸に近い側・小さい方を干珠島とする。

源平合戦壇ノ浦の戦いでは源義経の源氏軍が拠点とした。

忌宮神社仲哀天皇熊襲平定の際に滞在したとされる豊浦宮の跡とされている。

↓はgooglemap、干珠島

maps.app.goo.gl

↓はgooglemap、満珠島・干珠島

maps.app.goo.gl

参考①:関門航路事務所、満珠・干珠 満珠・干珠

忌宮神社(いみのみやじんじゃ)
所在は⼭⼝県下関市⻑府宮の内町。

数方庭祭(すほうていさい)の伝承が残る。
8月7日から13日までの1週間に行われる祭。

その祭りの由来は、仲哀天皇7年に熊襲新羅塵輪じんりん)の扇動によって豊浦宮を襲撃。

そして仲哀天皇は自ら弓矢を放ち熊襲を撃退。
その戦勝を祝い、塵輪の屍体を囲んで踊ったことが起源とされている。

↓は忌宮神社、神社概要

iminomiya-jinjya.com

↓はYOUTUBE忌宮神社数方庭祭

www.youtube.com

島根県益田市の石見神楽の演目のひとつに「塵輪」がある。
なお、仲哀天皇の別称は「帯中津日子命」。
ヤマトタケルの子で、神功皇后の夫とされる。
ヤマトタケルは西暦300年前後に活躍。
仲哀天皇は実在なら、そののち頃の人物か。
↓石見神楽、塵輪の演目が紹介されている
www.city.masuda.lg.jp

■300年頃の朝鮮半島倭国

時にこの頃の朝鮮半島について。
高句麗が313年に楽浪郡を、314年に帯方郡を滅ぼした。
帯方郡については濊(わい)の協力があったともされる。
新羅にも影響があり、日本に逃れてきたのだろうか。

なお、卑弥呼の時代にもたびたび動乱があり、生活が脅かされていたとされるため、逃れてきた人たち=善良な人たちとは限らない。

歴史的には元は濊の土地に扶余、高句麗が入っている。

のち扶余族(高句麗百済)と倭国との関連が4世紀以降で展開されていくことのきっかけなのかもしれない。

なお、満州地域がのちに渤海国に戻った際は、渤海国から日本に対しては頻繁に遣使が行われた。

■まとめ
神功皇后伝説にまつわり登場する国は
三韓高句麗百済新羅

三韓征伐の根拠は
仲哀天皇7年に、新羅塵輪じんりん)の扇動によって熊襲が豊浦宮を襲撃

関連人物は
仲哀天皇
神功皇后
阿曇磯良

関連する土地は様々あるが本記事では
志賀島阿曇磯良
・下関沖の周防灘の満珠島・干珠島
を扱った。

漢委奴国王の金印(国宝)については
発見時のいわくがあるにしても
志賀島で見つかったとされている

<参考>
忌宮神社 - Wikipedia
濊 - Wikipedia
夫余 - Wikipedia

332.いろは歌に記されたイエスとモーセ、そして恵比須

いろは歌とは。どのように成立したのだろうか。またいろは歌のナゾとは。次の流れで紹介していく。

いろは歌の成立
いろは歌
いろは歌のナゾ
いろは歌に関する記録
・金光明最勝王経
・金光明経の漢訳
・ゑひもせす
・まとめ

いろは歌の成立
47文字の仮名文字を使って作られた誦文(ずもん)、歌。

誦文(ずもん)とは、じゅもんであり、経文やまじないの文句を唱えること。

なお、仮名文字とは漢字を元につくられた文字。
仮名文字が使われ始めたのは9世紀。
字形が確立したのは11世紀。

単に47字の文字を使っただけではない。
文字の重複がなく、七五調となっている。

ただし「ん」はない。
なお、歌の最後に「京」と入れる場合があるとされている。

いろは歌
いろはにほへと
ちりぬるを
わかよたれそ
つねならむ
うゐのおくやま
けふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

いろは歌のナゾ

最初の行の「い」、そして最後行のはじめの「ゑ」と終わりの「す」を取ると
「いゑす」となり、「イエス」の文字が現れる。
ゑは古くはwe、中世末期にje、近世以降にeとなったとされる。

また、上記のいろは歌を7文字ごとに改行をする。
すると、次のようになる。

いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

各行の最後の文字を取る。
すると「とかなくてしす」となり、

・「イエス
・「とが(罪)がなくて死す」
をあわせて、罪がなくて死んだイエス・キリストをあわらすものではないかとする説ある。

以下ではいろは歌が成立した時代や記録などを探っていく。

いろは歌に関する記録
作者、成立年代ともに不明だが、10世紀末から11世紀半ばごろに成立したのではないかと考えられている。

いろは歌が記載されている最古の記録は
「金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)」とされる。

金光明最勝王経音義の成立は1079年、承暦3年。
こちらも著者は不明。
金光明最勝王経音義は「金光明最勝王経」という経典に用いられている漢字の意味や発音を説明したもの。

■金光明最勝王経
金光明経はサンスクリット語にいうスヴァルナ・プラバーサ・スートラ。
成立は4世紀頃とされている。
仏教仏典のひとつで大乗経典に属する。
日本では護国三部経のひとつ。
国家の安泰を願って用いられたもの。
法華経、仁王経、金光明経が護国三部経である。

■金光明経の漢訳
金光明経の漢訳版の成立については
・金光明経(4巻):曇無讖が412年から421年頃にかけて漢訳したもの
・合部金光明経(8巻):宝貴らが597年に編纂したもの
・金光明最勝王経:唐の義浄が自身がインドから招来した経典を新たに漢訳したもの

などがあるとされる。

金光明経は古くは「曇無讖」のものが伝わっていた。
そして義浄のものが伝わった。
さらに聖武天皇(在位:724年~749年)が写経、全国に配布した。

聖武天皇の時代、天然痘の発生などから聖武天皇は仏教に深く帰依。

・741年(天平13年)に国分寺建立の詔
・743年(天平15年)に東大寺盧舎那仏像の造立の詔
を出した。

↓はwikipedia聖武天皇

ja.wikipedia.org

■ゑひもせす
金光明最勝王経 をあたると、
いろは歌の最後の行、「ゑひもせす」は
・恵〈會/廻〉
・比〈皮/非〉
・毛〈文/裳〉
・勢〈世〉
・須〈寸〉

である。
ゑひすの箇所は「恵比須」となっている。
また、毛勢については「モーセ/モーゼ」が想起される。
モーセ旧約聖書、紀元前17世紀~紀元前13世紀頃の実在の人物。

「ゑ」という文字については上述のとおりで
・古くはwe
・中世末期にje
・近世以降にeとなったとされる。

恵(je)、勢〈世〉、須〈寸〉でジーザスとも読める。
また、いろは歌の末尾に「京」の字を入れたということが1287年(弘安10年)に成立した了尊の「悉曇輪略図抄」に記されているとされる。

秦氏平安京の造営などに携わったことなども関連しているだろうか。
また公家などはかつての渡来人の豪族の末裔と考えられる。

当時の仏教などのリテラシーの高いインテリジェンス層は、いろは歌による日本語の習得や写経のなかで知的な言葉遊びをしていたのだろうか。

■まとめ
いろは歌は文字の習得などで使われた歌
・成立は10世紀末から11世紀半ばころと考えられている
・イエス、トガナクテシス
モーセ
など旧約聖書新約聖書の人物名が現れる。

エスの箇所の元の漢字は恵比寿があてられている

なお以上から10世紀末から11世紀半頃のインテリジェンス層からし

恵比須とは
新約聖書キリスト教
ないしは
旧約聖書ユダヤ教由来)の民族
に由来する民族であったとして間違いないのではないだろうか。

<参考>
いろは歌 - Wikipedia
金光明経 - Wikipedia

護国三部経 - Wikipedia
聖武天皇 - Wikipedia