今回は韓国の遺跡を紹介。日本の古代史状況をふまえ、再度、韓国の遺跡をみる。西方からの渡来が一度ではなく、波状的に、複数の時代に渡って行われたことがわかるのではないか。次の流れで紹介していく。
・韓国における支石墓
・支石墓と日本の古墳の類似
・江華(カンファ)支石墓群
・高敞(コチャン)支石墓群
・和順(ファスン)支石墓群
・王仁博士遺跡址(ワンインパクサユジョクチ)
・丸都山城
・兎山貴族墓地(うざんきぞくぼち)
・好太王碑
・将軍墳
・陵山里古墳群(りょうざんりこふんぐん、ヌンサンニコブングン)
・骨窟寺(こっくつじ、コルグルサ)
■韓国における支石墓
支石墓が造られたのは世界的にみれば、紀元前2500年から紀元前1500年頃(文献により差がみられる)。
ヨーロッパに多くみられるという。アジアでは韓国に多く分布する。
韓国においてコインドルと呼ばれる支石墓は次の2種類にわかれるとされる。
北方式:足の長い石柱に蓋石を載せたテーブル状のもの
南方式:足の短い石柱に蓋石を載せた基盤状のもの
発祥は西ヨーロッパではないかとされる。
一方、南インドでは紀元前1000年頃の出現という。
高敞、和順、江華の支石墓群は紀元前10世紀頃からつくられたという。
ただし、西ヨーロッパから伝播したわけではなく、各地の事情においてそれぞれ発祥したのではないかと考えられているという。
しかし、日本においては、支石墓の埋葬文化をもたらしたのは渡来人であると考えられる。その場合、渡来は紀元前10世紀頃に可能性がある。
■支石墓と日本の古墳の類似
両者の形状について。
例えば石舞台古墳は7世紀前半頃の築造とされる。現在、墳丘の盛土が残っていない。そのため内部構造がわかる。
これをみればドルメンとほぼ同じでこれが進化したものであることがわかる。
古墳が支石墓より進化している技術としては巨石30個を積み上げている。
また、横穴式石室がある。
やがて大分県、国東半島付近にも到達したとみる。
イザナギは日本人、大分県、紀元前765年頃の人物である。しかしこれより前に渡来の歴史があったときく。
なお、天照の治世は約20年ほどとされ、その在位3年目にスサノオが中国地方・出雲の国へと東征を行ったという。
そしてヤマタのオロチを退治後に朝鮮半島、のちの新羅のに遠征を行った。
これより、スサノオは高千穂国(九州南部)から追放されたという。
ヤマタのオロチの体内には金属製の剣が複数本、存在していたようだ。
金属製の剣の渡来は、出雲地方に紀元前700年代には存在していたことになる。
↓はドルメン(支石墓)について取り上げた回
紀元前10世紀頃に何があったか。
まず、石棺の歴史は縄文時代後期である。
↓は石棺の歴史を取り上げた回
次に、水田を使った稲作技術の渡来は10世紀後半に玄界灘沿岸地域に伝わっている。
↓は水田稲作の拡散状況について取り上げた回
現時点では、水田稲作技術の渡来、石棺から判断すると紀元前10世紀がひとつの歴史的転換点の目安となる。
続いて韓国の歴史を考古学的な遺物から見る。
■江華(カンファ)支石墓群
北方式。
所在は仁川広域市江華郡河岾面・内可面。
約120余基が広い範囲に散在。
史跡の第137号に指定された支石墓は高さ2.6m、長さ7.1m、幅5.5m。
重さは80トンであるという。
■高敞(コチャン)支石墓群
高敞支石墓群は次の北方式、南方式が混在。
その数は約2000基におよぶと推定されている。
↓はwikipedia、高敞、和順、江華の支石墓群
■和順(ファスン)支石墓群
道谷面孝山里(ドゴンミョンヒョサンニ)と春陽面大薪里(チュニャンミョンテシンリ)を結ぶ峠の一帯に分布。
調査の結果、135基が支石墓と推定される。
紀元前3000年につくられたという。
南方式とされる。
■王仁博士遺跡址(ワンインパクサユジョクチ)
所在は全羅南道・霊岩郡・王仁路。
鳩林村(クリムマウル)の東、ムンピル峰の麓にある。
霊岩郡では王仁博士が生まれ、水を飲んだという伝承があり、この地に遺跡物が復元されたとされる。
・王仁墓(祠堂)
・内三門
・外三門
・文山斎
・養士斎
・展示館
・王仁像
などがある。
↓はgooglemap、王仁博士遺跡址
https://maps.app.goo.gl/YF9SGaoPitsGuMD98
↓は王仁について複数回取り上げた、下記は初めて取り上げた回
王仁は論語や千字文を伝えたとされる。
ただし、王仁の時代に千字文は成立していなかったとされるが、古代の偉人であることに変わりはない。
↓はwikipedia、王仁
高句麗には次の山城が残る。
うち、高句麗の国内城(第二の首都)を守るために建てられた。
山城は不規則な長方形。
城壁の長さは6951m。
城門は
東:2つ
北:2つ
南:1つ
中腹に緊急時の宮殿があり、東西で62m、南北で92mであったという。
ただし、現在は廃墟。
■兎山貴族墓地(うざんきぞくぼち)
高句麗の王族、貴族の古墳群。
高句麗晩期(6世紀~7世紀)に造られた五盔墳(ごかいふん)が有名とされる。
5号墳は内部を見ることが可能であるという。
墓室の壁面に
・青龍
・白虎
・朱雀
・玄武
の四神がみられる。
高松塚古墳にも四神がみられ、高句麗と関係があると考えられている。
↓は装飾古墳について取り上げた回
■好太王碑
所在は中国の吉林省通化市集安市で市街地より北東に約4km行った兎山南麓の丘陵部にある。
高句麗の第19代の王、好太王(広開土王、在位:391年 - 412年)の業績を讃えた石碑。
息子の長寿王(ちょうじゅおう、チャンスワン、在位:413年 - 491年)が西暦414年に建てたとされる。
好太王碑の西側に太王陵という古墳がある。
形式は正方形、1辺は66m。
現在の高さは14.8cm。
墓室は頂上部にあったとされるが、盗掘され何も残っていないという。
↓は好太王碑文について紹介した回
↓では鴨氏の出自を中央アジアと解読した流れから、鴨氏とスキタイはほぼ同族、好太王をスキタイ(イラン系)と考察した回
■将軍墳
東方金字塔王陵墓とも。
将軍墳は高句麗古墳群のなかで最も有名な古墳。
市街地の北東約6kmの龍山山麓にある。
ピラミッドである。
1000を超える花崗岩が7層に積みあがる。
1辺は31.58m。
高さ13.1m。
調査から5世紀初頭とされる。
このことから好太王あるいは息子の長寿王の陵墓とする説が有力。
■陵山里古墳群(りょうざんりこふんぐん、ヌンサンニコブングン)
所在は忠清南道扶余郡扶余邑陵山里。
陵山里1号墳など、6基から構成される。
築造は6世紀後半から7世紀前半にかけて。
形式はいずれも円形の墳丘であるという。
扶余の中心部からは約2kmの場所にある。
百済の王室墓地とされる。
泗沘(シビ、サビ)が都だった時代に扶余羅城の外側につくられたという。
■骨窟寺(こっくつじ、コルグルサ)
磨崖如来坐像と観音窟が有名。
慶尚北道慶州の市街中心部から東へ約20kmにある。
新羅時代の仏教寺院で、石炭岩盤に造られた石窟寺院。
6世紀頃にインドから来た光有聖人ら僧侶の一行によってインドの寺院様式が取り入れられ、創建されたという。
岩の壁に12体の仏像を彫ったとされるが、現存は7体。
↓はgooglemap、骨窟寺
https://maps.app.goo.gl/hAJqhrNAqx8L2xv98
以上、支石墓を改めて取り上げ、特に韓国における支石墓などを紹介した。
旧約聖書のモーセの活躍年代は紀元前16世紀、あるいは紀元前13世紀頃ではないかとされる。
以上、朝鮮(一部現在は中国)の遺物をみた。