シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

426.朝鮮の遺跡

今回は韓国の遺跡を紹介。日本の古代史状況をふまえ、再度、韓国の遺跡をみる。西方からの渡来が一度ではなく、波状的に、複数の時代に渡って行われたことがわかるのではないか。次の流れで紹介していく。

・韓国における支石墓
・支石墓と日本の古墳の類似
・江華(カンファ)支石墓群
・高敞(コチャン)支石墓群
・和順(ファスン)支石墓群
王仁博士遺跡址(ワンインパクサユジョクチ)
・丸都山城
・兎山貴族墓地(うざんきぞくぼち)
好太王
・将軍墳
・陵山里古墳群(りょうざんりこふんぐん、ヌンサンニコブングン)
・骨窟寺(こっくつじ、コルグルサ)

■韓国における支石墓
支石墓が造られたのは世界的にみれば、紀元前2500年から紀元前1500年頃(文献により差がみられる)。

ヨーロッパに多くみられるという。アジアでは韓国に多く分布する。

韓国においてコインドルと呼ばれる支石墓は次の2種類にわかれるとされる。

北方式:足の長い石柱に蓋石を載せたテーブル状のもの

南方式:足の短い石柱に蓋石を載せた基盤状のもの

発祥は西ヨーロッパではないかとされる。
一方、南インドでは紀元前1000年頃の出現という。
高敞、和順、江華の支石墓群は紀元前10世紀頃からつくられたという。

ただし、西ヨーロッパから伝播したわけではなく、各地の事情においてそれぞれ発祥したのではないかと考えられているという。

しかし、日本においては、支石墓の埋葬文化をもたらしたのは渡来人であると考えられる。その場合、渡来は紀元前10世紀頃に可能性がある。

■支石墓と日本の古墳の類似
両者の形状について。

例えば石舞台古墳は7世紀前半頃の築造とされる。現在、墳丘の盛土が残っていない。そのため内部構造がわかる。

これをみればドルメンとほぼ同じでこれが進化したものであることがわかる。
古墳が支石墓より進化している技術としては巨石30個を積み上げている。
また、横穴式石室がある。

やがて大分県、国東半島付近にも到達したとみる。

イザナギは日本人、大分県、紀元前765年頃の人物である。しかしこれより前に渡来の歴史があったときく。

なお、天照の治世は約20年ほどとされ、その在位3年目にスサノオが中国地方・出雲の国へと東征を行ったという。

そしてヤマタのオロチを退治後に朝鮮半島、のちの新羅のに遠征を行った。

これより、スサノオは高千穂国(九州南部)から追放されたという。

ヤマタのオロチの体内には金属製の剣が複数本、存在していたようだ。
金属製の剣の渡来は、出雲地方に紀元前700年代には存在していたことになる。

↓はドルメン(支石墓)について取り上げた回

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紀元前10世紀頃に何があったか。

まず、石棺の歴史は縄文時代後期である。
↓は石棺の歴史を取り上げた回

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次に、水田を使った稲作技術の渡来は10世紀後半に玄界灘沿岸地域に伝わっている。
↓は水田稲作の拡散状況について取り上げた回

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現時点では、水田稲作技術の渡来、石棺から判断すると紀元前10世紀がひとつの歴史的転換点の目安となる。

続いて韓国の歴史を考古学的な遺物から見る。

■江華(カンファ)支石墓群
北方式。
所在は仁川広域市江華郡河岾面・内可面。
約120余基が広い範囲に散在。

史跡の第137号に指定された支石墓は高さ2.6m、長さ7.1m、幅5.5m。
重さは80トンであるという。

■高敞(コチャン)支石墓群
高敞支石墓群は次の北方式、南方式が混在。
その数は約2000基におよぶと推定されている。
↓はwikipedia、高敞、和順、江華の支石墓群

ja.wikipedia.org

■和順(ファスン)支石墓群
道谷面孝山里(ドゴンミョンヒョサンニ)と春陽面大薪里(チュニャンミョンテシンリ)を結ぶ峠の一帯に分布。

調査の結果、135基が支石墓と推定される。
紀元前3000年につくられたという。
南方式とされる。

王仁博士遺跡址(ワンインパクサユジョクチ)
所在は全羅南道・霊岩郡・王仁路。
鳩林村(クリムマウル)の東、ムンピル峰の麓にある。
霊岩郡では王仁博士が生まれ、水を飲んだという伝承があり、この地に遺跡物が復元されたとされる。
王仁(祠堂)
・内三門
・外三門
・文山斎
・養士斎
・展示館
王仁

などがある。
↓はgooglemap、王仁博士遺跡址
https://maps.app.goo.gl/YF9SGaoPitsGuMD98

↓は王仁について複数回取り上げた、下記は初めて取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

王仁論語千字文を伝えたとされる。
ただし、王仁の時代に千字文は成立していなかったとされるが、古代の偉人であることに変わりはない。
↓はwikipedia王仁

ja.wikipedia.org

■丸都山城
吉林省集安市に所在する高句麗前期の山城。

高句麗には次の山城が残る。

女山城: 高句麗初期の山城、所在は遼寧省桓仁県

国内城 :高句麗前期の平城、吉林省集安市に所在

丸都山城 :高句麗前期の山城、所在は吉林省集安市

うち、高句麗の国内城(第二の首都)を守るために建てられた。
山城は不規則な長方形。
城壁の長さは6951m。
城門は
東:2つ
北:2つ
南:1つ
中腹に緊急時の宮殿があり、東西で62m、南北で92mであったという。
ただし、現在は廃墟。

■兎山貴族墓地(うざんきぞくぼち)
高句麗の王族、貴族の古墳群。
高句麗晩期(6世紀~7世紀)に造られた五盔墳(ごかいふん)が有名とされる。
5号墳は内部を見ることが可能であるという。
墓室の壁面に
・青龍
・白虎
・朱雀
・玄武
の四神がみられる。

高松塚古墳にも四神がみられ、高句麗と関係があると考えられている。

↓は高松塚古墳キトラ古墳について取り上げた回

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↓は装飾古墳について取り上げた回

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好太王
所在は中国の吉林省通化市集安市で市街地より北東に約4km行った兎山南麓の丘陵部にある。

高句麗の第19代の王、好太王(広開土王、在位:391年 - 412年)の業績を讃えた石碑。
息子の長寿王(ちょうじゅおう、チャンスワン、在位:413年 - 491年)が西暦414年に建てたとされる。

好太王碑の西側に太王陵という古墳がある。
形式は正方形、1辺は66m。
現在の高さは14.8cm。
墓室は頂上部にあったとされるが、盗掘され何も残っていないという。
↓は好太王碑文について紹介した回

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↓では鴨氏の出自を中央アジアと解読した流れから、鴨氏とスキタイはほぼ同族、好太王をスキタイ(イラン系)と考察した回

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■将軍墳
東方金字塔王陵墓とも。
将軍墳は高句麗古墳群のなかで最も有名な古墳。
市街地の北東約6kmの龍山山麓にある。
ピラミッドである。
1000を超える花崗岩が7層に積みあがる。
1辺は31.58m。
高さ13.1m。
調査から5世紀初頭とされる。
このことから好太王あるいは息子の長寿王の陵墓とする説が有力。

■陵山里古墳群(りょうざんりこふんぐん、ヌンサンニコブングン)
所在は忠清南道扶余郡扶余邑陵山里。
陵山里1号墳など、6基から構成される。
築造は6世紀後半から7世紀前半にかけて。

形式はいずれも円形の墳丘であるという。

扶余の中心部からは約2kmの場所にある。
百済の王室墓地とされる。
泗沘(シビ、サビ)が都だった時代に扶余羅城の外側につくられたという。

■骨窟寺(こっくつじ、コルグルサ)
磨崖如来坐像と観音窟が有名。

慶尚北道慶州の市街中心部から東へ約20kmにある。
新羅時代の仏教寺院で、石炭岩盤に造られた石窟寺院。

6世紀頃にインドから来た光有聖人ら僧侶の一行によってインドの寺院様式が取り入れられ、創建されたという。
岩の壁に12体の仏像を彫ったとされるが、現存は7体。
↓はgooglemap、骨窟寺
https://maps.app.goo.gl/hAJqhrNAqx8L2xv98

以上、支石墓を改めて取り上げ、特に韓国における支石墓などを紹介した。

旧約聖書モーセの活躍年代は紀元前16世紀、あるいは紀元前13世紀頃ではないかとされる。

以上、朝鮮(一部現在は中国)の遺物をみた。

425.新撰姓氏録とは何か

新撰姓氏録とは何か。次の流れで紹介していく。
新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)
嵯峨天皇(さがてんのう)
・万多親王
藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)
皇別
・神別
・諸蕃
皇別氏族における歴代天皇別の出自数

新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)
古代氏族の名鑑。
815年(弘仁6年)に編纂された。

嵯峨天皇の命によって万多親王(まんだしんのう)、右大臣・藤原園人(そのひと)、藤原緒嗣(おつぐ)らによって新撰姓氏録は編纂され、814年(弘仁5年)に完成。

ただし、不備のある点や源朝臣の条を追加などし、朝廷へ献上されたのは815年となったという。

その内容は、京平安京畿内に住む1182氏について祖先を明らかとしたもの。

ただし、氏族の改賜姓(かいしせい、姓を改めること)の正しさを判別することを目的として編纂されたという。

その出自により
皇別
・神別
・諸蕃
に分類される。

また、氏名(うじな)の由来や分岐を記述する。

嵯峨天皇(さがてんのう)
生没年は786年~842年。
在位は809年~823年。
諱は神野(賀美能・かみの)
823年弘仁14年)空海に東寺(とうじ)を賜った。

東寺は所在は京都市南区九条町。
東寺真言宗総本山の日本の仏教寺院。

平安京鎮護のため朝廷の官寺として建立がなされ、嵯峨天皇より空海に下賜されたという。

空海橘逸勢嵯峨天皇平安時代初期における三筆とされる。

自ら国葬を拒んだとされる。

財政圧迫を回避するため皇族の整理を行った。
皇子女の多くに源(みなもと)の姓を賜り、臣籍降下させた。
これより源氏が成立したという。

■万多親王(まんたしんのう、まんだしんのう)
桓武天皇の第五皇子。
生没年は788年~830年。
804年に茨田から万多に改名した。

814年時の官位は四品・中務卿であったが、新撰姓氏録成立後の817年弘仁8年)、三品に叙せられた。
また、823年弘仁14年)には式部卿に任ぜられた。
↓はwikipedia、万多親王

ja.wikipedia.org

藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)
平安時代の政治家。
生没年は774年~843年。

新撰姓氏録のほか、日本後紀の編纂も行った。

日本後紀は840年に完成した、792年から833年までの42年間を記した六国史(りっこくし)の3番目にあたる史書

皇別
神武天皇以降、天皇家から分かれた氏族。
335氏が挙げられている。

代表的なものに清原、橘、源がある。
皇別はさらに
皇親:真人の姓をもつ
・それ以外の姓をもつ
に分かれるという。

■神別
神武天皇以前の神代に別れた氏族、あるいは生じた氏族。

404氏を挙げる。

神別はさらに3分類される。

・天神:天神瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)天孫降臨した際に付き従った神々の子孫

天孫瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫

・地祇:天孫降臨以前から土着していた神々の子孫

■諸蕃
渡来人系の氏族。
326氏が挙げられる。
つぎの5分類される。
百済:104氏
・高麗高句麗:41氏
新羅:9氏
加羅:9氏
・漢:163氏
挙げられる。
百済が多く、次いで高麗、新羅加羅となる。新羅朝鮮半島を統一するものの、百済を滅ぼしており、日本において、特に日本書紀において悪者扱いのふしがある。

なお、皇別、神別、諸蕃に属さない117氏があげられているという。

皇別氏族における歴代天皇別の出自数
新撰姓氏録より、歴代天皇皇別の氏族・335氏の出自をカウントすると次のようになるという(合計333氏族)

・初代 神武 21
・第2代 綏靖 0
・第3代 安寧 2
・第4代 懿徳 4
・第5代 孝昭 44
・第6代 孝安 0
・第7代 孝霊 8
・第8代 考元 108
・第9代 開化 22
・第10代 崇神 33
・第11代 垂仁 9
・第12代 景行 21
・第13代 成務 0
・第14代 仲哀 5
・第15代 應神 12
・第16代 仁徳 0
・第17代 履中 0
・第18代 反正 0
・第19代 允恭 0
・第20代 安康 0
・第21代 雄略 0
・第22代 清寧 0
・第23代 顕宗 0
・第24代 仁賢 0
・第25代 武烈 0
・第26代 継体 5
・第27代 安閑 0
・第28代 宣化 4
・第29代 欽明 0
・第30代 敏達 19
・第31代 用明 3
・第32代 崇峻 0
・第33代 推古 0
・第34代 舒明 1
・第35代 皇極 0
・第36代 孝徳 0
・第37代 斉明 0
・第38代 天智 3
・第39代 弘文 0
・第40代 天武 9
・第41代 持統 0
となる。

つぎのことがわかる。
当時の氏族の長が自らの出自を知っているかどうかは明らかではないが、

・第8代の考元天皇が108と最大である。秦が滅亡したのが紀元前206年。
考元天皇は在位で紀元前214から紀元前158年と秦の滅亡と近い。

・神武は天之御中主+ヤマトタケルの人格とされる。天之御中主の紀元前800年頃、ヤマトタケルは紀元後300年前後の人物。
そのヤマトタケルの東征頃を示す景行天皇に21氏族ある。

・仁徳~武烈までの、倭の五王を含む時代は全て0になっている。
この時代は朝鮮の三国時代でもあり、特に倭は任那百済を保護しつつ高句麗と戦っている。

敏達天皇(在位:572年~585年)が19と継体以降では最大。
任那(みまな)滅亡が562年で、これとやや近い。

<参考>
新撰姓氏録 - Wikipedia
万多親王 - Wikipedia

東寺 - Wikipedia
六国史 - Wikipedia
日本後紀 - Wikipedia
古田史学会報 二十九号

424.行基の父・高志才智と祖父の蜂田虎身

前回、行基を紹介。今回は特に行基の父母から古代史の謎に迫る。次の流れで紹介していく。

行基
・高志才智(こしのさいち)
・羊に関連した群馬の多胡碑
・蜂田古爾比売(はちだこにひめ)
・蜂田虎身(はちだのとらみ)
・家原寺(えばらじ)
・蜂田虎身の名前はミトラから?
・家族の名前が宗教関連の人物名である船王後
・高志氏の祖の王爾王仁

行基(ぎょうき)
生年は668年~749年。

父は、高志才智。
母は蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)。
大僧上舎利瓶記により父母の名前などが判明。

・俗性は高志氏
・その考(ちち)の諱は才智
・字は知法君の長子
・もと百済国の王子・王爾のすえ
・その妣(はは)は蜂田氏で諱は古爾比売、河内国大鳥郡の蜂田首虎身の長女
などが記されるという。

■高志才智(こしのさいち)
行基の父である。
高志才智の生没年は不明。

名は
・羊(ひつじ)
・佐陀智・貞知(さだち)
とも。

河内国和泉国に分布する百済系渡来氏族。
ただし、中国系帰化人とされる。

高志氏(高志史)は、王爾王仁を祖とすると大僧上舎利瓶記に記される。

■羊に関連した群馬の多胡碑
エリアは異なり、「羊」に関連し。
群馬・多胡碑の建立は711年とされる。

おおよそ次のような内容である。

朝廷の弁官局より命令があった。
上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。

郡の名は多胡郡としなさい。

羊はキリスト教において象徴的な用語。
羊は、渡来していた民族とも関係するのだろうか。

↓は群馬の上野三碑を取り上げた回、多胡碑には「羊」なる人物が登場する

shinnihon.hatenablog.com

■蜂田古爾比売(はちだこにひめ)
生年は不明~710年。
蜂田虎身(はちだとらみ)の長女。
河内国(後の和泉国大鳥郡の人とされる。
大鳥郡は現在の大阪府堺市にあたる。

■蜂田虎身(はちだとらみ)
大僧上舎利瓶記にて知られる人物。
虎身は行基の祖父にあたる。

この虎身の長女が蜂田古爾比売。

高志才智と蜂田古爾比売が天智天皇7年(668年)行基を生んだとされる。

行基は生家を仏閣にしたと伝えられている。
それが家原寺(えばらじ)にあたるとされる。

■家原寺(えばらじ)
所在は大阪府堺市西区家原寺町。
行基宗、大本山の寺院。
寺伝では704年(慶雲元年)、行基が生家を寺に改めた始まったとされる。

1245年、叡尊(えいそん、えいぞん)により再興されている。
真言律宗を興した人物である。
2018年に高野山真言宗から独立、単立の寺院となっている。

山門にはかつて仁王像があったとされる。
しかし明治時代の廃仏毀釈により売却されてしまったという。
現在、家原寺山門の金剛力士像はフリーア美術館ワシントンD.C.に収蔵されている。

↓はwikipedia、家原寺

ja.wikipedia.org

■蜂田虎身の名前はミトラから?
行基の祖父、虎身の名前はトラミ。
虎身の文字を転置して、身、虎と読むとミトラとなる。

父の高志才智の諱が羊であったこともあり、偶然ではないと考える。

ミトラ教(ミトラス教)は古代ローマで隆盛した。
牡牛の牛殺信仰がみられる宗教。
太陽神ミトラスを主神とする。

新羅はローマとつながりがあることがローマングラスから証明されている。

古代ローマシルクロードの商人(主にソグド人など)を通じて牛に対する信仰が新羅などを通じて渡ってきたのだろうか。

↓はミトラ教が登場した回

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↓はwikipediaミトラ教

ja.wikipedia.org

ここまでで、
行基:仏教
父の高志才智(羊):キリスト教もしくはユダヤ教

蜂田虎身:ミトラ教

という、宗教に関連する一家であったであろうと推定される。

■家族の名前が宗教関連の人物名である船王後

行基と同様に、家族の名前が宗教関連の名がネーミングされる人物に船王後(ふねのおうご)がいる。

行基の生年は668年~749年であるが、船王後は585年頃~642年の人物。

・船王後の兄:刀羅古(トラコ)→トーラー
船王後の父:那沛故(ナハコ)聖書(タナハ)
船王後の妻:安理故能刀自→十字(トジ)

という関係があると推定される。

なお、船王後は王智仁(王辰爾)の孫で、那沛故の子という。

王辰爾は第16代百済王・辰斯王(在位:385年~392年)の子である辰孫王の後裔とされる塩君または午定君の子という。

↓船王後(ふねのおうご)について紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

↓はwikipedia、辰孫王の後裔の王辰爾

ja.wikipedia.org

■高志氏の祖の王爾王仁

行基の父である高志才智(諱は羊)の高志氏(高志史)は、元百済国の王子・王爾王仁を祖とすると大僧上舎利瓶記に記されている。

しかし、王爾王仁百済のどの国王の子かははっきりしない。

王爾は古事記では和邇吉師(わにきし)日本書紀では王仁と表記される。

古事記にて。
応神天皇15年、百濟國主、照古王が阿直岐(あちき、阿直岐史の祖)を遣わして良馬二匹を奉った。
その際、応神天皇の子、皇太子・菟道稚郎子の教師を阿直岐が担った。
天皇阿直岐に勝る人物を尋ねたところ、阿直岐王仁(わに)の名を挙げた。
そして、応神天皇16年、百済から王仁がきたとされる。

和邇吉師が渡来した時代の百済の国王とは誰だろうか。
古事記では照古王と記される。
百済国王の照古王(しょうこおう)は第5代、在位は166年~214年であるとされる。
しかしこの年代は史実的にはあわない。
実際は近肖古王(きんしょうこおう)、在位で346年~375年頃と推測される。

百済の史実は近肖古王が初代王であるとされる可能性が高いという。
帯方郡楽浪郡が中国より解放されるのは313年・314年頃といった頃。

■まとめ

行基の父・高志才智と祖父の蜂田虎身からキリスト教またはユダヤ教ミトラ教に関連する人物名を持つことを紹介
・家族の名前が宗教関連の名前を持つ船王後について改めて紹介
・船王後は585年頃~642年の人物、行基の生年は668年~749年の人物
・船王後から遡る百済のルーツは第16代百済王・辰斯王(在位:385年~392年)
行基から遡る高志氏、百済のルーツは百済の王子・王爾王仁
・王爾はどの国王の子かの明示ははっきりしないが、渡来の時代は古事記から照古王(しょうこおう)とされる。第13代の近肖古王(きんしょうこおう)、在位で346年~375年頃ではないかと推測できる。

<参考>
叡尊 - Wikipedia
王仁 - Wikipedia
百済の第5代の王:肖古王 - Wikipedia
百済の第13代の王:近肖古王 - Wikipedia
百済の第16代の王:辰斯王 - Wikipedia
百済の王族、辰斯王の息子:辰孫王 - Wikipedia

423.行基と大僧上舎利瓶記

行基について。次の流れで紹介していく。

行基
菩提僊那(ぼだいせんな)
・猪名部百世(いなべのももよ)
行基続日本紀・773年条
・大僧上舎利瓶記とは
・大僧上舎利瓶記の内容

行基(ぎょうき)
668年~749年にかけて活動した仏教僧。

行基は24歳で受戒、その後、飛鳥寺に入ったという。

そして、14年もの間、月の半分は山林で修業、残りの半分を経典で学習を行う生活を続けたという。

40代後半から民間への布教を始めた。
行基が活動していた当時は仏教の民衆への直接の布教が禁止されていたという。
しかし、行基はそれを破り、民衆、豪族などの身分を問わず広く仏教を説いた。

これに対して行基は朝廷から弾圧を受けたが民衆から支持を得た。

740年、行基聖武天皇から東大寺盧舎那仏像の建立を依頼された。
行基はこれに協力する。

そして745年(78歳)には、日本で初めての大僧正となった。
※大僧正:僧と尼を統括するための官職。

しかし、749年、82歳で没した。

行基の没後の752年、東大寺において大仏開眼会が行われた。

菩提僊那(ぼだいせんな)東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師を務めた。

また開眼会では行基の弟子の景静(けいせい)が司会を果たしたという。

↓はいかす・なら、行基の82年の生涯を記したページ

www.pref.nara.jp

↓はwikipedia行基

ja.wikipedia.org

続いて、菩提僊那(ぼだいせんな)について。

菩提僊那(ぼだいせんな)
752年、東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師を務めた。

現在の南インド出身。
ボーディセーナ。
唐に滞在中、日本の僧からの招請を受け、736年に訪日した。

菩提僊那ほか、下記の人物が来日したとされる。
ペルシア人の李密翳(りみつえい)、役割などは不明とされる
・唐人の皇甫東朝(こうほとうちょう)、唐楽の演奏家
・林邑(りんゆう、現ベトナム僧の仏哲(ぶってつ)、林邑楽を伝えた
・唐僧の道璿(どうせん)、日本より伝戒師を委嘱された
・唐出身の袁晋卿(えんしんけい、後に音博士となった)

菩提僊那ら3人の僧は、
・5月に大宰府
・8月に難波津
・12月には行基に迎えられて平城京に入った

そして左京の大安寺に住し、時服(朝廷から衣服の資を名目として支給された禄)を与えられた。

東大寺東大寺を建立した人物に関連し、猪名部百世について。

■猪名部百世(いなべのももよ)
奈良の大仏東大寺」は、聖武天皇時代の745年8月から建立されたという。

このときの大工・棟梁が猪名部百世である。

そして少工・副棟梁は飛騨の匠の益田縄手。

猪名部は単に猪を飼っていた氏族ではなく、大工の優れた技術も持っていた氏族であったと思われる。

↓は猪名部百世(いなべのももよ)について紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

続いて、続日本紀行基に関して。

行基続日本紀・773年条
続日本紀、773年宝亀四年)の11月20日にて。
故・大僧正の行基法師について。
行基法師は持戒、修行ともに十分であり、智と徳を兼ね備えていたこと。
そして修行した院(道場)が四十余り所にわたることなどが記されている。

■大僧上舎利瓶記とは
弟子の真成が、行基の骨をおさめた銅製骨臓器瓶に師の伝記を刻んだという。

そして行基の遺骨を納めていた容器が1235年にみつかった。
外面には長文の墓誌銘が刻まれていた。

その発見時、全文が写しとられたという。
その後、戦国時代を経て兵火により容器は失われた。
現存するのは、銅筒の破片。

破片に刻まれ,た文字の内容と大僧上舎利瓶記の内容が一致し信頼におけるとする。ただし、大僧上舎利瓶記は信頼できないとする説もみられる。

■大僧上舎利瓶記の内容
大僧上舎利瓶記のその内容とは。

・俗性は高志氏
・その考(ちち)の諱は才智
・字は知法君の長子
・もと百済国の王子・王爾のすえ
・その妣(はは)は蜂田氏で諱は古爾比売、河内国大鳥郡の蜂田首虎身の長女
などが記されるという。

↓は文化遺産オンライン、墓誌断片奈良県行基墓出土)

bunka.nii.ac.jp

↓は奈良国立博物館墓誌断片(奈良県行基墓出土)、4ページにわたり紹介がある。
https://www.narahaku.go.jp/collection/p-490-0.html

<参考>
蜂田虎身 - Wikipedia
蜂田古爾比売 - Wikipedia
高志才智 - Wikipedia
李密翳 - Wikipedia
皇甫東朝 - Wikipedia
道璿 - Wikipedia
袁晋卿 - Wikipedia
大安寺 - Wikipedia

422.多蒋敷(おおのこもしき)と扶余豊璋(ふよほうしょう)

古事記の成立以前に何があったか。今回は多蒋敷(おおのこもしき)と扶余豊璋(ふよほうしょう)を取り上げる。次の流れで紹介していく。

太安万侶と多氏
神八井耳命
・伊都許利命(いつこりのみこと)
少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)
・多品治(おおのほんじ)
・金刺氏(かなさしし)
・多蒋敷(おおのこもしき)
・扶余豊璋(ふよほうしょう)
多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)
・推察~扶余族は芙蓉(フヨウ)と一致か~

まずは、太安万侶と関連のある多氏、そして祖先とされる神八井耳命について振り返っていく。

太安万侶と多氏

元明天皇から711年、太安万侶古事記の編纂を命じられた。
そして稗田阿礼とともに古事記を成立させた。
太安万侶は716年、は太氏(多氏)の氏長となったという。
太安万侶墓誌から、平城京左京四条四坊に住んでいたとされる。
↓は太安万侶について紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

太安万侶の祖先を遡ると「神八井耳命」であるという。 

神八井耳命

神武天皇は実在の人物ではないが、その皇后はヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)とされる。

この二人の間の子に神八井耳命綏靖天皇日子八井命がいる。

神武天皇は主にヤマトタケルを投影したものではないだろうか。
綏靖天皇神八井耳命が登場した回

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■伊都許利命(いつこりのみこと)
伊都許利命は神八井耳命の8世の子孫とされる。

応神天皇20年、神八井耳命は千葉にて、印旛国造であったとされる。

↓は印旛国造、伊都許利命について取り上げた回

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多氏はヤマトタケルの東征に従い、千葉など関東などでも活躍しているものと思われる。その出自は伊都国、北部九州であったと推測する。

■少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)
雄略期にみえる少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)も神八井耳命の子孫である。

日本書紀雄略天皇六年三月の条(推定462年)にスガルに関するエピソードがある。雄略天皇から「私は三輪山の神の姿を見たい。お前は腕力が優れているから、行って捕らえてこい。」と命令された。このときスガルは「ためしにやってみましょう。」と答えた。そして三輪山に登り大蛇を捕らえ、天皇に献じたという。

大蛇が雷のような音をたてたため、雄略天皇は目を覆って殿中へと逃げ込む。大蛇は山に放たれその山を雷イカズチ)と名付けたとされる。

オオクニヌシスクナビコナ三輪山から、雄略の時代には権力が移っていることを象徴したエピソードではないだろうか。

また、雷(イカヅチ)について。
鹿島神宮春日神社とも関連のあるミカヅチイカヅチ)の話が挿入されている。
千葉の蘇我比咩神社では武甕槌神(たけみかづちのかみ)をタケミカヅキと読む。

諏訪大社ではタケミナカタタケミカヅチが争い、負けたタケミナカタが諏訪へ逃亡したとされる。

三日月は現在はイスラム教のシンボルだが、古代、中東方面から渡来した氏族の勢力を象徴しているのだろう。

↓は少子部蜾蠃が登場する回

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やがて多氏が雄略に従ったことを示しているのだろう。

■多品治(おおのほんじ)
672年の壬申の乱大海人皇子天武天皇)の側で戦った。
そして莿萩野を守り、敵を撃退したとされる人物。

久安5年(1149年)に謹上された「多神宮注進状」では多品治の子が太安万侶であるという。

壬申の乱が起こった時、多品治は現在の岐阜県、かつての美濃国の安八磨郡安八郡の湯沐令(ゆのうながし)だったとされる。

↓にて多品治を紹介した

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■金刺氏(かなさしし)

神八井耳命を始祖とし、出自を多氏とする古代氏族のひとつ。

野国(しなののくにのみやつこ)の末裔が金刺氏と称した。

代々にわたって諏訪神社下社の大祝を務めたという。

金刺盛澄は後裔の著名な人物のひとり。

金刺氏は欽明天皇(在位:539年~571年)に舎人として仕え、そして宮の名前を氏の名前にしたと考えられている。

↓は金刺氏について取り上げた回

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そして、多蒋敷について。

■多蒋敷(おおのこもしき)
新撰姓氏録(815年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑)によれば神八井耳命の子孫とされる。

日本書紀天智天皇即位前紀にて、斉明天皇7年(661年)、多蒋敷(おおのこもしき)の妹を扶余豊璋の妻としたとされる。

また、扶余豊璋に織冠が授けられた。
これは大化5年2月制定のものとされるが、大織冠とも小織冠とも記されていない。
※なお、中臣鎌足藤原鎌足)は大織冠を授かっている

また、この年の12月、高麗国は特に寒く、鴨緑江(おうりょくこう)大同江だいどうこうが凍ったという。

↓はwikipedia、多蒋敷

ja.wikipedia.org

そして扶余豊璋は百済王族、白村江の戦いの中心人物。

■扶余豊璋(ふよほうしょう)

扶余族の末裔。

扶余豊璋は多蒋敷(おおのこもしき)の妹を妻とした。

高句麗百済は扶余族によって建国されたとする。

扶余族に関連し、東扶余の建国者、初代王は解夫婁王かいふる、へブルまたはへプル)である。

百済は660年に滅亡した。その最後の王が義慈王(在位:641年~660年)であった。
扶余豊璋はその義慈王の王子。

660年、唐・新羅の連合軍によって百済が滅ぼされる。

百済復興を支援のため、中大兄皇子(後の天智天皇は都を筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に移動させた。

↓は扶余族について取り上げた回

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↓は解夫婁王について取り上げた回

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■ 多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)

所在は奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内。

一般に多神社(おおじんじゃ)と呼ばれる。
多社、多坐神社、太社、意富(おお)社とも。

古事記日本書紀卑弥呼や台与には触れずまた、ヤマトタケルは登場するものの九州からの東征であること、そして遷都したことについては明記してはいない。

既にわからなくなってしまっていたとも考えられるものの、少なくとも魏志倭人伝に描かれた知識ついては保有していたと推測されるのであるが。
↓はwikipedia多坐弥志理都比古神社

ja.wikipedia.org

扶余豊璋と多蒋敷(おおのこもしき)の妹との結婚について。

これは、高句麗百済を建国した扶余族の末裔の扶余豊璋と伊都国の王の末裔(と推定される)が結びついたことになる。

■朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)

斉明天皇は、斉明天皇7年(661年)3月25日、娜大津より磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入った。

そして5月9日、朝倉橘広庭宮に移り百済復興の戦に備えたという。
しかし斉明天皇は7月24日に同地で死去した。

日本書紀によれば、朝倉橘広庭宮の際、朝倉社の木を切って用いたとされ、これに神が怒り宮殿を壊したという。
また、宮中では鬼火が目撃された。

さらに、大舎人らに病死者が続出したとされる。
↓はwikipedia、朝倉橘広庭宮

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■推察~扶余族は芙蓉(フヨウ)と一致か~

神武天皇が人格的に存在しないとされる。
また神功皇后も人格としては存在しないのではないか。

では、神功皇后とは。

おそらくだが、
・ヒムカ卑弥呼とトヨ(台与)の神がかかり的な能力

・その後の倭人の朝鮮への侵攻(その結果としての好太王碑)

斉明天皇百済を救援しようとするが筑紫国で死去する無念さを、成功ストーリーとして神格化したもの

と推定される。

一方、高句麗、広開土王好太王、在位:391年~412年)とは誰が戦ったのか。

高句麗のあった鴨緑江付近から渡来したと推測する鴨氏

新羅付近に存在した秦韓国

・日本の豊前国に存在した秦王国

などの朝鮮の在地勢力と帰化日本人の攻防が関わるものと推定される。

扶余は単なる当て字ではなく、の扶には「助ける」そして「余」には「余り者」という意味があるかもしれない。

音韻に近いものに、芙蓉(フヨウ)がある。
これから名付けたものと推定する。

その理由としては鴨神社のシンボルは双葉葵(アオイ)であった。

↓は賀茂氏の出自を考察した回

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↓はwikipediaアオイ科

ja.wikipedia.org

一方、扶余(フヨ)は芙蓉(フヨウ)と関係があるのではないだろうか。

芙蓉はアオイ科フヨウ属の落葉低木。
植物つながりとして歴史上のつながりを残したのでは。
↓はwikipedia、芙蓉(フヨウ)

ja.wikipedia.org

家紋や神紋の葵は徳川家の「三つ葉葵」、下鴨神社の「双葉葵」などがある。

鴨氏が「鴨」を名乗ったのは高句麗鴨緑江(おうりょくこう)付近から渡来した「おう」、そして「鴨」であったからではないだろうかと推測する。

↓はwikipedia鴨緑江

ja.wikipedia.org

鴨緑江(おうりょくこう)の鴨のオウ=カモ。

多氏と鴨氏は日本においては別として扱われたとしても、大陸では同族だったのだろうか。
そしてその先祖はスキタイではないだろうか。

扶余族はツングース系とされる。

なお、倭の五王の遣使は、賛(?)と推定され遣使は413年より始まる。

この413年は広開土王(好太王)が死去。
そして太子の長寿王(在位:413年~491年)が即位したタイミングである。

中央アジアにいた時代がアヂスキタカヒコネ
主としてヤマトタケル東征前の300年前後には既にいたとされる多氏。ヤタガラスとしてヤマトタケルを導く。

諏訪の文脈で言えば、最も早くからいた在地として帰化したようにみえるのがタケミナカタ

西暦300年前後にヤマトタケルと共に東征したのがタケミカヅチ

やがて諏訪の神官となったのが賀茂氏

神官は辰韓と響きがにているためにつけられているかもしれない。

辰韓は紀元前2世紀 ~356年まで朝鮮にあったとされる国。

辰韓の位置に新羅、秦韓があったと推測される。
↓は賀茂氏賀茂氏)の祖先、アヂスキタカヒコネを扱った回

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■朝鮮や日本への西方由来の民族の渡来

扶余族は牛を、賀茂氏は鹿を祀る信仰があった。
現代から考えるとやや特殊な信仰である。

朝鮮では紀元前500年頃より支石墓(ドルメン)がみられる。

日本では縄文晩期に九州西北部に出現。
弥生時代前期にほぼ終焉し、弥生中期頃までつくられた。

これは西方由来の巨石墓文化のため、支石墓(ドルメン)から西方由来の民族が渡来した時代が推定できる。

また、渡来は秦氏の渡来を除けば、紀元前1000年ころより断続的と日本に渡来したと推定される。

韓国の支石墓について、またツングース系の扶余族について別途取り上げる。

↓は支石墓について取り上げた回

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<参考>
安八郡 - Wikipedia
多蒋敷 - Wikipedia
扶余豊璋 - Wikipedia

421.安曇(アヅミ)とはなにか・後編

安曇氏に関わる人物や古墳などをとりあげ、古代に何が起きていたかを紐解く。安曇についての後編。また渡来した民族の出自を推定する。次の流れで紹介していく。

・阿曇連百足播磨国風土記・揖保郡・石海の里
・阿曇連百足播磨国風土記・揖保郡・浦上の里
阿曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)
・阿曇比羅夫(あづみのひらふ
・阿曇比羅夫とヒラブ貝とサールト
・ワダツミのワタとは何か
穂高古墳群
松本市弘法山古墳
・古代の西洋や中央アジア情勢
・出自のまとめ
命名の対比構造

前編は下記を参照のこと。

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■阿曇連百足播磨国風土記・揖保郡・石海の里

肥前国風土記播磨国風土記にみられる人物。

今回は播磨国風土記の記述を紹介。
・揖保郡・石海(いはみ)の里、
・揖保郡・浦上の里
に百足の記述がみられる。

揖保郡・石海(いはみ)の里では次の通り。

石海というゆえんは難波長柄豊前天皇(なにわながらのとよさきのすめらみこと)の世に、この里の中に百便(ももだる)の野があり、百枝(ももえ)の稲生(いねお)ひき。

阿曇連百足は、その稲を取ってたてまつった。
天皇は勅(みことのり)し、この野を墾って田をつくるべしといった。
そして阿曇連太牟(あづみのむらじたむ)を遣わし、石海の人夫(よぼろ)を召して墾らしめた。
ゆえに、野の名前を百便(ももだる)といい、村の名前を石海とつけた。

■阿曇連百足播磨国風土記・揖保郡・浦上の里

揖保郡・浦上の里では次の記述がみられる。

浦上の里の地名のゆえんを示す箇所にて。

昔、阿曇の連百足ら、先に難波の浦上におり、のちにこの浦上に遷って来た。
ゆえに、本居(うぶすな、生まれ育った本拠地)として名とした。

■阿曇比羅夫(あづみのひらふ
志賀海神社で紹介した阿曇浜子より後、阿曇一族で活躍した人物に阿曇比羅夫(あづみのひらふがいる。

661年斉明天皇7年)百済の救援軍の将軍となり百済へと渡った。

662年天智天皇元年)百済の王子・扶余豊璋とともに百済へと渡る。

そして663年、白村江の戦いに参加。
その際に戦死したとされる。

長野県安曇野市穂高神社にて安曇連比羅夫命として祀られている。

なお、穂高神社の「御船祭り」は毎年9月27日に行われる。
阿曇比羅夫の命日であるとされている。

■阿曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)

657年、西海使小花下(にしのみちのつかいしょうけげ)・阿曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)、小山下(しょうせんげ)・津臣傴僂(つのおみくつま)が百済より帰り、
・駱駝ラクダ):一つ
・驢(うさぎうま):二つ ※ロバのこと
をたてまつったとされる。

↓はラクダの献上について取り上げた回

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■阿曇比羅夫とヒラブ貝とサールト

過去記事にて阿曇比羅夫を取り上げた。
ヒラブ貝に噛まれた猿田彦が溺死するというつながりから、
・阿曇比羅夫
猿田彦
が関連する。

底度久御魂(そこどくみたま)などの3神とつながり、中央アジアサマルカンドを中心とするソグディアナという地域とつながることを推定した。

ソグド人は隊商のことをイラン語系のキャラヴァンではなく「サールト」と呼んだとされる。これは、サンスクリット語のサールタに由来するという。

猿田毘古神がヒラブ貝に手をかまれて溺れた際に生まれた
・底度久(ソコドク)
・都夫多都(ツブタツ
・阿和佐久(アワサク)
の3神についても、
・中国でソグディアナを示す粟特(ぞくとく)
・粟特の別読みのアワトク
・ブッタ

の文字がパズルのように散りばめられて配置されている。

また、サルタヒコについても、サールタ(?)の音韻として物語上のつなぎの役割を果たさせたのではないだろうか。

↓は阿曇比羅夫と底度久御魂について考察した回

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ソグド人はイラン系のオアシスの農耕民族。
↓はwikipedia、ソグド人

ja.wikipedia.org

■ワダツミのワタとは何か

かつて仏教国家であったホータン、漢名・和田市のワタから来ていると推定される。
穂高(ホダカ)のホタもホータンの「ホ」「タ」と関連する可能性がある。

なお、ソグディアナ・サマルカンドはソグド人。

蘇民将来伝承の「巨旦将来」はホータン(ホータンはコタンとも)と関係があるもと推定される。

↓は蘇民将来に登場するコタン将来のコタンがホータン(コタン)であることを示した回

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仏教の大乗仏教はインドから中央アジアに伝わり、やがて中国、百済、日本へと伝わった。

↓はオアシス都市、ホータン王国と仏教について記した回

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古墳から金冠が見つかっている。
その金冠の源流は中央アジア遊牧民国家である。
金冠が出土する年代は、中央アジア出身の人びとの渡来が起きているとみてよいのではないだろうか。
↓は金冠の源流を示した回

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新沢千塚126号墳は5世紀後半の築造とされる。
この126号墳で出土したガラス皿はローマ帝国領内で見つかったローマ・ガラス(2世紀に作成)とほぼ一致することが明らかとなっている。

5世紀後半という時期の隔たりは、ササン朝ペルシャに運ばれたのち、シルクロード経由でもたらされたものと考えられている。
↓は新沢千塚126号墳を取り上げた回

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奈良市のHPにて正倉院にある「白瑠璃碗(はくるりのわん)」と呼ばれるガラスの器は、ペルシャなどの西方で作られたものが、シルクロードを通って、日本へもたらされたのではないかと言われている。

正倉院を待たずして、それよりも先の少なくとも5世紀後半以前にローマ・ガラス製品がもたらされていた。
そして単に物がはこばれただけでなく、西方由来の民族も渡来している。
奈良市サマルカンド市について

www.city.nara.lg.jp

穂高古墳群
そもそも古墳の被葬者を特定することは困難である。

しかし、単純に穂高氏と穂高神社との距離、その名称から穂高古墳群であると仮定する。

穂高古墳群の築造は遅く600年以降に始まるという。
推古天皇(在位:593年~628年)の時期にあたる。

↓はwikipedia穂高古墳群

ja.wikipedia.org

↓はgooglemap、D-1号墳、魏石鬼窟(ぎしきのいわや)
https://maps.app.goo.gl/Pb8FT6NAW2nXqH7x5

↓はgooglemap、E-6~E-8にあたる穂高古墳群狐塚墳
https://maps.app.goo.gl/wz9QsuRmpp997m6NA

松本市弘法山古墳
安曇野市松本市は同じ長野県中部中信地方である。
長野県最古の古墳は松本市弘法山古墳で、3世紀後半の築造とされる。

形式は前方後方墳
全長は66m。
竪穴式石室状の礫槨(れきかく)が見つかっている。
獣帯鏡:1面
鉄剣:3点
銅鏃:1点
鉄鏃:24点
鉄斧:1点
やりがんな:1点
ガラス小玉:700点以上
また、遺骸の腰の部分から水銀朱がみつかっている。
出典:松本市 史跡 弘法山古墳
https://www.city.matsumoto.nagano.jp/uploaded/attachment/58775.pdf

■古代の西洋や中央アジア情勢
中央アジアの都市名と日本に渡来したと推定される民族をまとめる。

なお、西洋や中央アジア状勢としては
・エフェソス公会議によってネストリウス派が異教と断定されたこと

 これが、キリスト教、原始キリスト教に関係。

・寒冷化の影響を受けて北方民族の南下、また中央アジアのオアシスが移動、オアシス都市が廃墟となっていく
突厥の東進などを受けて各民族(スキタイ、ソグド人など)が東に押された

これがスキタイ、ソグド人など中央アジアの諸国(当時は民族のまとまりか)に影響

していると思われる。

■出自のまとめ

これまでの調査から渡来した民族を推定する

・ソグディアナ・サマルカンド(現・ウズベキスタン
 ・鴨氏:スキタイである。馬を伴ってやってきたとすると5世紀代以前の渡来
 ・底度久御魂:粟特、ソグド人である、阿曇比羅夫はソグド人の可能性がある

・ホータン(コタン)・和田市(現・中国)
 ・穂高:ホタ、諏訪地方の安曇氏、ホダカ
 ・秦氏蘇民将来伝承の巨旦将来のコタン

・海神・ワタツ
 ・安曇磯良:イソラエビスより、古代イスラエル、ソグド人と混血している可能性がある、日本では各地に移り住んだ

以上のように推定した。

命名の対比構造

なお、命名には次の対比構造がみられる。

・和田(ワダツミ)に対しての穂積(ホヅミ)
・出雲(イズモ)に対する安曇(アヅミ)

以上のようにネーミングしたのではないだろうか。

<参考>
風土記 下 現代語訳付き 中村啓信 監修・訳注
百足足尼命 - Wikipedia
ホータン王国 - Wikipedia
高エネルギー蛍光X線分析による古墳出土ガラス皿の分析(トピック) — SPring-8 Web Site

420.古代の駱駝(ラクダ)の献上

正倉院(しょうそういん)は天平文化を代表する建物であり、西域やペルシャからの輸入品がみられる。これよりもう少し早い時代に中東との歴史がみられる。今回は駱駝(ラクダ)の献上を取り上げる。次の流れで紹介していく。

推古天皇7年(599年)の駱駝の献上
元号の白雉(はくち)
推古天皇26年(618年)の駱駝の献上
斉明天皇3年(657年)の駱駝の献上
天武天皇8年(679年)の駱駝の献上
ラクダと聖書
・江戸時代に渡来したラク

推古天皇7年(599年)の駱駝の献上

日本書紀推古天皇7年(599年・秋9月)のこと。

百済より、
・駱駝:一匹
・驢(うさぎうま):一匹 ※ロバのこと
・羊:二頭
・白雉(しろきぎす):1隻(ひとつ)※白色のキジ
が献上される。

白雉(しろきぎす)について。

元号の白雉(はくち)
日本の元号のひとつで西暦650年から654年までの期間。

白雉はびゃくち、しらきぎすとも。

白雉は大化のつぎの2番目の元号

穴戸(あなと、長門)国、現・山口県国司である草壁醜経(くさかべしこぶ)が白雉を献上、これが瑞祥(ずいしょう、めでたい兆しのこと)とされ、改元されたという。

元号は白雉のあとは朱鳥へと続いていった。
ただし、白雉5年に孝徳天皇崩御、その次の元号である朱鳥が定められたのは686年で間が空く。

なお、草壁氏について。
開化天皇の末裔で、彦坐王(ひこいますのみこ)の子である狭穂彦王の子孫とされる。

開化天皇は欠史八大の天皇であるものの、狭穂彦王は垂仁天皇5年、妹である狭穂姫命に垂仁天皇の暗殺を試みさせるが失敗したとする話が古事記垂仁天皇記、日本書紀垂仁天皇4年および5年条に記されている。

推古天皇26年(618年)の駱駝の献上
日本書紀推古天皇26年(618年・秋8月)、高麗が遣いを送り、方物(くにつもの、地方の産物)を献じた。

・俘虜(とりこ)貞公(ていこう)
・普通(ふとう)二人
・鼓吹(つづみふえ)
・弩(おほゆみ)
・石抛(いしはじき)の類(たぐひ)十物(とくさ)
・土物(くにつもの)
・駱駝一匹

朝貢されたという。

この618年とはどのようなタイミングであったか。

中国においては581年に隋が成立。
598年頃より、隋は高句麗に侵攻。
618年、隋の第2代皇帝・煬帝が宇文化及によって殺され、そして唐が成立。

高句麗においては第26代・嬰陽王が在位590年~618年、そして 第27代・栄留王の在位が618年~642年。

今回の遣使は 嬰陽王・29年の治世とされ、翌月の618年・9月に 嬰陽王が薨じ、栄留王が即位したときの高句麗からの遣使とされる。

斉明天皇3年(657年)の駱駝の献上
日本書紀斉明天皇・3年(657年)の是年条にて。

このとし、新羅に遣いを使わし、つぎのようにのたまった。

「沙門智達(ほふしちだち)、間人連御厩(はしひとのむらじみうまや)、依網連稚子(よさみのむらじわくご)らを率いて汝(いまし)が国の使いにつけて、大唐(もろこし)に送り致さしめむと欲りす」。

新羅はうけたまわり、同意した。
これによって沙門智達(ほふしちだち)ら、還(かえ)り帰(まう)けり。

西海使小花下(にしのみちのつかいしょうけげ)・阿曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)、小山下(しょうせんげ)・津臣傴僂(つのおみくつま)が百済より帰り、
・駱駝:一つ
・驢(うさぎうま):二つ
をたてまつった。

※小花下(しょうけげ):649年から664年まで用いられた冠位で19階のうち上から10番目。

※小山下(しょうせんげ):649年から685年まで日本で用いられた冠位で、664年までは19階中の14位、664年以降は26階中の18位。

天武天皇8年(679年)の駱駝の献上
冬十月。
天武天皇は次のことをきき、のべた。

「このごろ、暴(あら)く悪しき者、多(さは)に巷里(さと)にありと。

これは、王卿(おおきみまへつきみ)たちの誤なり。

あるいは暴く悪しき者を聞きて、煩わしとおもって忍びて治(かむが)へず。
あるいは悪しき人をみて、おこたりて隠して正さず。

その見聞くにしたがいて、たださば、豈暴悪有(あにあらくあしひきとあ)らむや。

ここをもって今後、煩い怠ること無くして、上は下の誤りを責め、下は上の暴きを諫めば、国家治(あめのしたおさま)らむ」と。

十一日に地震が起きる。
十三日、勅し、僧尼等(ほふしあまたち)の威儀(よそひ)および法服(のりのころも)の色、あわせて馬、従者(ともびと)の巷閭(さと)に往来(かよ)う状(かたち)を制(いさ)む。

十七日、新羅、阿湌金項那(あさんこむこうな)、沙湌薩虆生(ささんさちるいしょう)を遣わして朝貢した。

貢物は、
・金(こがね)
・銀(しろかね)
・鉄(ねりかね)
・鼎(かなへ)
・錦(にしき)
・絹(かとり)
・布
・皮
・馬
・狗(いぬ)
・騾(ら)
・駱駝(らくだ)
のたぐい十余あまり。

また別に物をたてまつった。
天皇、皇后、太子に
・金
・銀
・刀
・旗のたぐい
をたてまつること、各数あり。

新羅の官位のササンはササーン朝ペルシアのササーンから来ていると推定される。

ラクダと聖書
エスの教えの一つにラクダに関するものがある。
マタイ伝19章24節によれば、 イエスは「富んだ人が神の王国に入るよりはらくだが針の穴を通るほうが易しい」と指摘したという。

ラクダは古代、として江戸時代にも渡来する。

■江戸時代に渡来したラク
1728年にはベトナムから象が、1824年8月には雄雌2匹のラクダが来たという。

ちなみに駱駝にはバクトリア系、アラビア系の2種類があるという。

このうち、江戸時代に渡来したのはアラビア産のひとこぶラクダ。

バクトリア系はふたこぶラクダとされる。

聖書に記されるラクダはアラビア産のひとこぶラクダと考えられている。

599年、日本にもラクダが来たことがわかる。

<参考>
日本書紀(四) 岩波文庫
日本書紀(五) 岩波文庫
白雉 - Wikipedia
草壁醜経 - Wikipedia
狭穂彦王 - Wikipedia

狭穂姫命 - Wikipedia
高句麗 - Wikipedia
楊堅 - Wikipedia

419.安曇(アヅミ)とはなにか・前編

安曇について。まずは長野の地名である安曇野に触れながら、安曇氏に関わる事象をとりあげ、古代に何が起きていたかを紐解く。次の流れで紹介していく。

安曇野市(あづみのし)
安曇村(あづみむら)
太平記と安曇磯良(あづみのいそら)
・和田都見神社と磯良恵比須
志賀海神社
・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)
君が代と山誉め祭
・宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)
・阿曇連百足(あずみのむらじももたり)肥前国風土記

安曇野市(あづみのし)
安曇野市は、2005年(平成17年)に
豊科町
穂高町
三郷村
堀金村
明科町
の5町村が合併して誕生した市。

安曇野を「あずみの」と呼ぶことも多いが、市名をひらがなで書く場合は「あづみのし」が現在では正式となっている。

↓は安曇野市安曇野市の表記に関するページ

www.city.azumino.nagano.jp

↓はgooglemap、安曇市

maps.app.goo.gl

↓は安曇野市のHP、市の概要が示されている

www.city.azumino.nagano.jp

安曇村(あづみむら)
かつて長野県の中部、南安曇郡にあった村。
2005年、安曇村四賀村奈川村梓川村松本市編入合併された。
これによって松本市安曇となった。

目印となる建物は、例えば、松本市立安曇小学校・中学校の所在は長野県松本市安曇。

松崎町静岡県賀茂郡とは姉妹都市であるという。

また安曇野市は長野にある市であるが、長崎県対馬の和田都見神社とも「アヅミ」にまつわる関係がある。

続いて、安曇磯良(あづみのいそら)を示していく。

太平記と安曇磯良(あづみのいそら)
太平記(1370年出版)に阿曇磯良に関する記述があり、太平記では「阿度部磯良」として記されている。

アヅがやがてアドに変化したのだろうか。

神功皇后三韓出兵の際に諸神を招いた。
しかし海底に住む阿度部磯良だけは顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。

これは安曇磯良を船として描写していることがわかる。

続いて「安曇」の本源となる和田都見神社とイソラの関係を記す。

■和田都見神社と磯良恵比須
長崎県対馬市の和田都見神社に「三柱鳥居」がある。

この三柱鳥居を磯良恵比須(イソラエビス)という。

詳細は下記、和田都見神社と磯良恵比須を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

下記ではエルやエビスとは天の遣いである。
この恵比須とはエル・天の遣いで、isora-elのことを示すと推定される。
よってイソラエビスはイソラエルであることを示した。

イスラエルが出自となる渡来であると推定される。

↓は磯良恵比須はイソラ・エルであることを考察した回

shinnihon.hatenablog.com

続いて、磯良恵比須を祀る福岡市東区志賀島志賀海神社をみていく。

志賀海神社
所在は福岡市東区志賀島

祭神は「綿津見三神(わたつみさんしん)」とされ、
・左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
・中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
・右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
として祀られる。
これは上・中・下や底・中・表の構造がある。

↓は上・中・下や底・中・表の位置関係が示す住吉仲皇子との関係を記した回

shinnihon.hatenablog.com

この関係性を追っていくと住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)に行きあたる。
そしてこれが安曇氏とも関りがある。

■住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)
住吉仲皇子は、古事記日本書紀で記述が異なる。

古事記では
・墨江之中津王
・墨江中王

日本書紀では
・住吉仲皇子
・仲皇子
とされる。

仁徳天皇の皇子。
母は葛城襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめのみこと)とされる。

↓はwikipedia磐之媛

ja.wikipedia.org

仁徳天皇崩御時の皇位継承に関し。

住吉仲皇子は仁徳天皇の皇太子である去来穂別皇子(いざほわけのみこ、のちの履中天皇に反旗を翻したという。

このとき、阿曇浜子(あずみのむらじはまこ)は住吉仲皇子に味方する。

この安曇(阿曇)連浜子に率いられ軍事行動を起こしたのは淡路の能嶋(のしま、または野嶋)の海人とされる。

安曇氏は淡路とネットワークをもっていたことがわかる。

なお、安曇氏と海部の関係について。

安曇氏も海部と関係があるがものの、安曇氏は海部を率いたのであって、海部自身ではないとする説がある。
ただし、当サイト、ヒラブ貝に秘められた阿曇比羅夫の謎を解いていくと、阿曇比羅夫(あづみのひらふ)の示す比良夫貝は反対から読むと海部のラビとも。

縄文時代からの海人というよりは、弥生時代に渡来した民族にユダヤ教のラビがいた可能性がある。

猿田彦の死因と阿曇比羅夫のつながりから中央アジアとの関連を示した回

shinnihon.hatenablog.com

いずれにしても、安曇氏は淡路とも関係があるがわかる。
↓は古代の淡路にイスラエル、少なくともナフタリ族が渡来していた可能性を示した回

shinnihon.hatenablog.com

志賀海神社は後世、近代日本にどのような影響を与えたか。
それは国歌の選定に影響がみられる。

君が代と山誉め祭
山誉め祭の祝詞の一部が君が代として採用されている。

また、阿曇族と志賀海神社の関係性においては、

阿曇族の穂高神社志賀海神社の祭神である、
仲津綿津見神
底津綿津見神
表津綿津見神
という綿津見(ワタツミ、海神である)、そして筒之男を祀る。
船にて渡来した可能性が想定される。

古事記でも穂高綿津見神の子であり、阿曇(あづみ)氏の祖とされる。

タツミ ー ホダカ ー アヅミという関係がある。

志賀海神社の山誉め祭を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

なお、「漢委奴国王」の金印が発見されたのは志賀海神社のある「志賀島」である。

↓漢委奴国王の金印を紹介した回shinnihon.hatenablog.com

ここまでで、長崎県対馬(和田都見神社)ー福岡県・志賀島志賀海神社の関係性をつなげ、ワタツミ ー ホダカ ー アヅミという関係性があることがわかる。
またアヅミは長野とも関係がある。

続いて、安曇氏に関わりのある神や人物を取り上げる。
宇都志日金拆命、阿曇連百足を紹介。

■宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)
古事記では宇都志日金拆命、ほかの史料では穂高見命(ほだかみのみこと)として伝わる日本神話に伝わる神。
綿津見神たちの子で、安曇氏の祖神とされる。

■阿曇連百足(あずみのむらじももたり)肥前国風土記
肥前国風土記播磨国風土記にみられる人物。

肥前国風土記では、松浦郡・値嘉の郷(ちかのさと)に見える。

景行天皇が巡行したとき、志式嶋(ししきしま)の行宮(あんぐう、かりみや、一時的な宮殿)にいたとき、西の海をご覧になったという。

その際に海の中に島がたくさんあり、煙が空を覆っているのを見た。
天皇は従者である阿曇連百足(あづみのむらじももたり)を派遣して様子を見させた。
そこでは八十余りの島があり、その中の2つの島には人がいた。

第一の島は小近(おちか)、土蜘蛛大耳(つちぐもおおみみ)が、
第二の島は大近(おおちか)、土蜘蛛垂耳(つちぐもたりみみ)が住んでいた。
ほかの島には人が住んでいなかったという。

百足(ももたり)は大耳(おおみみ)らをとらえ、天皇は罰して殺させようとした。

このとき大耳らは頭を地につけ謝罪し、許されるのならと食料をつくって御前に献じることを誓う。
そして木の皮で次の見本をつくったとされ、これにより天皇は恩情により許したという。

・長鮑
・鞭鮑(むちあわび)
・短鮑
・陰鮑(かげあわび)
・羽割鮑

そして、この島は遠いが近いように見えるため「近嶋」と言うよいとおっしゃり、値嘉(ちか)という地名なったという。

また、島には
・檳榔あじまさ)
・木蘭(もくらん)
・枝子(くちなし)
木蓮(いたび)
・黒葛(つづら)
・なよたけ
・篠
・木綿(ゆう)
・荷(はちす)
・莧(ひゆ)
が生えている。

海には
・鮑
・螺(にし)
・鯛
・鯖
いろいろな魚、海藻、海松などが取れ、その島の漁民は馬、牛をたくさん飼っている。

一方には百余りの近い島、
もう一方には八十余りの近い島がある。

西には船を停泊できる港が二か所ある。
ひとつは相子田の停(とまり)で二十余りの船が、もう一つは川原の浦で十余りの船を停泊できる。

遣唐使はこの港を出発し、美弥良久(みみらく)の埼につき、ここから西へむけて海を渡る。
この島の漁民は顔かたちは隼人に似る。
馬上で弓を射ることを好む。
土地人の言葉と異なっている。

とされる。

鮑(アワビ)はミミガイ科の大型の巻貝の総称である。
土蜘蛛大耳(つちぐもおおみみ)、土蜘蛛垂耳(つちぐもたりみみ)といった人物名、また、美弥良久(みみらく)の地名から「耳」を意識した土地柄であったことが推測される。

檳榔あじまさ)の名を持つ古代の人物に狭井檳榔(さいのあじまさ)がいる。饒速日命の子孫とされる。
大宝律令の撰定者のうちの一人でもある。
日本書紀斉明天皇7年8月(661年)にて、阿曇比羅夫連、河辺百枝臣、阿倍引田比羅夫臣、物部連熊、守君大石、秦造田来津らとともに登場する人物。

<参考>
風土記 上 現代語訳付き 中村啓信 監修・訳注
百足足尼命 - Wikipedia
松浦郡 - Wikipedia
値嘉島 - Wikipedia
アワビ - Wikipedia
狭井檳榔 - Wikipedia

418.諏訪の民間信仰・ミシャグジ

諏訪の民間信仰とされるミシャグチを取り上げる。次の流れで紹介していく。
ミシャグジ
・大将軍神社
・チカト信仰
・天白信仰(てんぱくしんこう)
・ミシャグチとは何か

ミシャグジ

中部地方を中心とし、関東、そして近畿地方の一部にまで広がるという精霊に対する信仰で、ミシャグジさま信仰とも。

今井野菊氏が調査した「御社宮司の踏査集成」によれば、その信仰の本源は諏訪にあるという。

長野では750社ほどが存在。
うち
・諏訪:109社
・上伊那:105社
下伊那36社
・小県:104社
と多い郡であるとされる。

■大将軍神社

調査を行った今井氏は滋賀県内で「ミシャグジ神社」とする神社は、ミシャグジさま信仰に含まれず、大将軍神社であると指摘した。

↓はwikipedia、大将軍神社

ja.wikipedia.org

大将軍神社のうち、「大将軍八神社」は京都市上京区にある神社。

「八神社」は陰陽道の暦神・八将神を祀ることら由来であるという。

また、後に素戔嗚尊御子神八柱の意とも重なったという。

↓はwikipedia、大将軍八神社

ja.wikipedia.org

■チカト信仰

ミシャグジさま信仰は、群馬、埼玉、山梨ではチカト信仰とも重なるという。

千鹿頭神(ちかとのかみ、ちかとうのかみ)は諏訪地方の民間伝承にて洩矢神御子神、孫神、あるいは異名であるという。

狩猟の神として祀られていたとされ、ミシャグジ信仰、天白信仰と関連していると考えられている。

↓はwikipedia、千鹿頭神

ja.wikipedia.org

■天白信仰(てんぱくしんこう)

信仰の対象や内容は星神、水神、産祈願などの多岐にわたるという。

本州のほぼ東半分にみられ、
その分布は
中心:長野県、静岡県
南限:三重県の南勢・志摩地方
北限:岩手県
に広がるという。

↓はwikipedia、天白信仰
天白信仰 - Wikipedia

■ミシャグチとは何か

発音としてはサク、シャグ、サグ、サコ、サゴ、ショゴなど様々なものがあるという。

またミシャグチさま自体が何であるかについても、石の神、木の神、蛇の神などともされ、諸説わかれている。

さまざまにある説の中で、ミシャクジ神は旧約聖書のイサクから来ているのではないかという説がある。

諏訪の御頭祭では
・鹿の頭を75頭分祀る儀式
御贄柱では
儀式的に少年を生贄に捧げ(マネをする)その後、神官によって解放されるという儀式がなされていたとされる。

鹿の頭を75頭分祀る儀式は
旧約聖書
出エジプト記・1章5節では
ヤコブの腰から出たものは、合あわせて七十人」
とされる。

少年を生贄に捧げ(マネをする)その後、神官によって解放されるという儀式はイサクの燔祭を模倣していると考えられる。

そしてミシャクジは、ミ・イサク・チで、イサクを神格化したものなのでは、とする説がある。

↓は諏訪の御頭祭について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

 

なお、諏訪の伝承に関しては下記、メッサみやぎ、2024年4月発行第63号 が詳しい

https://www.pref.miyagi.jp/documents/24766/messamiyagi63.pdf

417.ヒラブ貝でつながる阿曇比羅夫と底度久御魂(そこどくみたま)、そしてソグディアナ

海人・安曇族(あづみ)と関連のある阿曇比羅夫(あづみのひらぶ)について。サルタヒコと関わる底度久御魂(そこどくみたま)など3神の名前から古代に渡来した民族とその場所をひも解く。次の流れで紹介していく。

・阿曇比羅夫(あづみのひらふ
・猿田毘古神と比良夫貝
・比良夫貝とは何か
・底度久御魂が意味するものは何か
・ソグディアナは粟特(ぞくとく)
・ソグディアナと底度久御魂の関係
・ソグド人とは

■阿曇比羅夫(あづみのひらふ
志賀海神社で紹介した阿曇浜子より後、阿曇一族で活躍した人物に阿曇比羅夫(あづみのひらふがいる。

661年(斉明天皇7年)、百済の救援軍の将軍となり百済へと渡った。
662年(天智天皇元年)、百済の王子・扶余豊璋とともに百済へと渡る。
そして663年、白村江の戦いに参加。
その際に戦死したとされる。

長野県安曇野市穂高神社では安曇連比羅夫命として祀られている。

穂高神社の「御船祭り」は毎年9月27日に行われる。
阿曇比羅夫の命日であるとされている。

なお、阿曇連一族は684年天武天皇13年)八色の姓で第3位の宿禰姓を得たとされる。

百済の滅亡~日本書紀成立までの約60年間のなかの、古代史における第一級の重要人物である。

そしてこの比羅夫の「ヒラブ」が古代史を解く手がかりとなる。

■猿田毘古神と比良夫貝
「比羅夫」つながりにて比良夫貝について。

猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか)の海で漁をしていた時に比良夫貝ひらふがい)に手を挟まれて溺れる。

海に沈んでいる時に

・底度久御魂(そこどくみたま)
・都夫多都御魂(つぶたつみたま)
・阿和佐久御魂(あわさくみたま)
の三柱の神が生まれたという。

■比良夫貝とは何か
比良夫貝はタイラギではないかとする説や、貝の化け物ではないかとも考えられている。

この「比良夫貝」を漢字で反対から読むと「カイフラビ」となる。
海部のラビを意味するものと推定される。

海部とは海人部、または 海部(あまべ)大化の改新以前に、海辺に住み、産物を中央に貢納した職業部である。

また、ラビとは何か。
ユダヤ教はラビの称号を持つ人びとによってユダヤ教が指導された。
一般にラビ・ユダヤ教(Rabbinic Judaism)と呼ばれた。

長野県の諏訪、そして安曇族にまつわる伝承をもとに考えると、阿曇比羅夫は信仰も深く、また武人であったと考えられる。

ただし、白村江の戦い頃は既に仏教が取り入れられている。
また、仏教、なかでも大乗仏教をもたらした民族は、歴史的に中央アジア遊牧民と考えられる。

このような複雑な信仰の背景や中央への関りといった状況は長野・諏訪に残る歴史にまさに一致する。

■底度久御魂が意味するものは何か
猿田毘古神がヒラブ貝に手をかまれて溺れた際に生まれた
・底度久(ソコドク)
・都夫多都(ツブタツ
・阿和佐久(アワサク)
の3神について。

結論として、ソグド人やソグディアナの音韻を眠らせていると考えられる。
まずはソグディアナを説明し、その後その根拠を示す。

■ソグディアナは粟特(ぞくとく)
ソグディアナは中央アジアアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置。
サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名。

現在はおよそウズベキスタン共和国
ソグディアナは中国の史書では粟特(ぞくとく)と記された。

アケメネス朝(紀元前550年 - 紀元前330年)滅亡後、アレクサンドロス大王マケドニア王国の)に征服された。

アレクサンドロス大王の死後、南に位置するバクトリアの地方州とされたという歴史がある。

8世紀、アラブ人によって征服され、イスラム教を受け入れた。
wikipedia、ソグディアナ

ja.wikipedia.org

■ソグディアナと底度久御魂の関係
では、ソグディアナと底度久御魂がどうつながるのか。

まず、底度久(ソコドク)だけでもゾクトクに近い。

また粟特(ゾクトク)を「アワトク」と読ませる。
そして、阿和佐久と都夫多都から阿和、都、久の文字を拾うと「あわとく」が成立する。
この時の残りの文字は佐、夫、都、多となる。
このうち「夫、都、多」を使うと「ブッダ」となる。

よって、
・粟特(ゾクトク)はアワトク
ブッダ
これらの歴史を3神の神の名の音韻や文字に埋め込んだと推定される。

■ソグド人とは
ソグド人については以下のとおりである。
・ソグド語とソグド文字を使用
ゾロアスター教を信仰
・2世紀から3世紀にかけて中国に仏教を伝えた
・6世紀から7世紀にはマニ教キリスト教ネストリウス派)を中国、テュルク人に伝えたという。

過去記事では賀茂氏サマルカンド由来と解いた。

今回はサルタヒコの溺死原因である比良夫貝と阿曇比羅夫の名前から「ヒラブ」でつなげると、ザラフシャン川流域地方の古名(サマルカンドが中心的な都市)であるソグディアナ、そしてソグド人が浮かび上がる。

サルタヒコがハブとなっているのはサマルカンドのサ(マ)ルの音韻が眠っているためだろうか。
なお、猿田彦と猿丸太夫の関係性は見いだせず、不明である。

■阿邪訶(あざか)とは
上述の通りで、猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか)の海で漁をしていた時に比良夫貝ひらふがい)に手を挟まれて溺れたというエピソードによって記したという阿邪訶とは。

延喜式神名帳では「阿射加神社三座」とあり3社あったとされる。
現在では、
・阿射加神社:三重県松阪市小阿坂町
・阿射加神社:三重県松阪市大阿坂町
がある。

伊勢神宮とは40km程度の距離。

皇太神宮儀式帳、倭姫命世記に次の内容がみられるという。

↓はwikipedia、阿射加神社

ja.wikipedia.org

↓はgooglemap、三重県松阪市大阿坂町、阿射加神社

maps.app.goo.gl

はgooglemap、三重県松阪市小阿坂町、小阿坂阿射加神社

maps.app.goo.gl

■皇太神宮儀式帳の記述
皇太神宮儀式帳は804年に神祇官に提出。
これに、倭姫命が藤方片樋宮において天照大神を奉斎していた際、垂仁天皇の使者・阿倍大稲彦命(あへのおおしねひこのみこと)が阿佐鹿悪神(あさかのあらぶるかみ)を平定したとあるという。

倭姫命世記の記述
倭姫命世記は768年の神護景雲2年・禰宜五月麻呂の撰と伝わるが、実際は鎌倉時代中期の編纂とされる。

阿佐加之弥子(阿坂の峰)に伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)がおり通行の邪魔をしていた。その心を和ませるため、山上に神社を造営した。そして外宮祀官・度会氏の祖である大若子命(おおわくごのみこと)に祈らせたとする。

また同書では、

阿佐賀山に荒神(あらぶるかみ)がいた。
倭姫命五十鈴川上之宮(現・内宮)への巡行を阻むためにかつて阿坂国(当地一帯の古称とされる)を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫である大若子命(おおわくごのみこと)にその荒悪神(あらぶるかみ)を祀らせ、そして神社を建立したという。

■そのほかのアサカ

福島県に安積郡(あさかぐん)がみられる。

アヅミと書いてアサカと読む。

古代の郷にイヌ郷、ワニコ郷がみられるのは興味深い。

ヤマトタケルの東征の北端と考えられる。

↓安積郡

ja.wikipedia.org

「アサカ」を紹介したが、アヅミも同等とする場合、熱海(アタミ)や厚見(アツミ)などはその変化形であり、関連があるとされる。

厚見の厚見氏は中国・楽浪郡の豪族の後裔、王仁(ワニ)が始祖であるという。

<参考>
海人部 - Wikipedia
テュルク系民族 - Wikipedia
阿射加神社 - Wikipedia

延暦儀式帳 - Wikipedia
厚見氏 - Wikipedia