シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

366.大酒神社と大避、大闢、ダビデ

大酒神社の漢字にまつわる話を紹介。そしてそれより百済、ホータン、古代イスラエルまでがどうつながるかを紹介する。

次の流れで紹介していく。

・大酒神社(おおさけじんじゃ)について
・大辟について
・大酒神社の主祭神
・弓月と百済の国名は同じでは
倭の五王の時代にあった秦韓国
豊前国に存在していた秦王国
・七支刀はメノラーを模したもの
蘇民将来とホータン地区とワタ
・和田都見神社の三角鳥居とイソラエビス
磯良恵比須はイソラ・エル
・大酒神社の相殿神

■大酒神社(おおさけじんじゃ)について

秦氏を祀った神社である。

所在は京都府京都市右京区太秦蜂岡町。
場所としては広隆寺木嶋坐天照御魂神社蚕ノ社)、東映太秦映画村などはすぐ近く。

延喜式神名帳によれば大酒神社は元名が「大辟神」であったとの記載がある。
ゆえに元は「大辟神」であった。

↓はgooglemap、大酒神社

■大辟について

延喜式(延喜5年、905年に成立)以前において「避」という漢字は「闢」を使用していたのではないかという主張がある。

中国語でこの「大闢」はダビデを意味するという。

ダビデユダヤ人、古代イスラエルの王である。
在位・紀元前1000年~紀元前961年頃の人物。

ここまでをまとめると

・大酒神社の大酒は延喜式によればかつて大辟であった

・中国で大闢はダビデを意味していた

・大辟はかつて大闢であったのではないかという主張がある

■大酒神社の主祭神

主祭神
・秦始皇帝
・弓月王(ゆんずのきみ、ゆづきのきみ、ユツキノキミ)
・秦酒公(はたのさけのきみ)

である。

■弓月と百済の国名は同じでは

「弓月」の朝鮮語の音訓は"ku-tal"あるいは"kom-tal"などとされる。

百済の和訓(漢字に固有の日本語を当てて読むこと)は「クダラ」である。
よって同音、同義と考えられる。

ゆえに「弓月」は「百済」であったのではないかとされる。
※ほか「居陀(羅)」から取られた説もある。
百済はひゃくさい、百残ともされており、朝鮮半島三国時代の中でたくさんの小国がやがて統合されていった

倭の五王の時代にあった秦韓国
実際、倭の五王の時代にも秦韓国が存在していた。

倭の五王の称号から秦韓国が存在していた年代を示した回

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豊前国に存在していた秦王国
また、豊前国には秦王国が存在していた。

↓は隋書の秦王国が豊前国であることを示した回

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■七支刀はメノラーを模したもの

七支刀の紀年が示す年には諸説あるが、少なくとも369年~394年に百済から倭国に送られた刀であり、その形はメノラー、ユダヤ教のろうそく台を模したものであると考えられる。

↓は弓月国は中央アジアカザフスタンにあったと紹介した回

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蘇民将来とホータン地区とワタ

蘇民将来の物語が示す巨旦将来をたどるとホータン地区にたどりつく。

ワタの源流はホータン王国であったのではないか。ホータンは古代、仏教国であった。和田の地名は現在もなお残っている。

和田玉、翡翠が有名である。

↓にて和田、ワタの源流と考えられる秦氏のホータン地区とのつながりを紹介

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■和田都見神社の三角鳥居とイソラエビス
和田都見神社では、本殿から海に向かい、鳥居が5つたっている。
そのうち2柱は海中にある。
満潮や干潮を意識した鳥居になっている。

海幸彦、山幸彦の物語では
・潮の満ちる玉、
・潮の干る(ひる)
が登場した。

和田都見神社と関連があるのだろう。

なお、和田都見神社には三柱の鳥居が存在する。
これはのちの神社の鳥居の原型なのだろうか。
この三柱鳥居は磯良恵比須(イソラエビス)とされる。

↓和田都見神社の三角鳥居を紹介した回

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磯良恵比須はイソラ・エル
エビスは七福神の恵比須さまを示すが、本来エビスはエルであり、エルとは天の使いではないだろうか。すると、磯良恵比須はイソラエルとなる。
↓エルとは天の使いついて示した回

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■大酒神社の相殿神

続いて相殿神
兄媛命(えひめのみこと) - 呉服女。
弟媛命(おとひめのみこと) - 漢織女。

綿津見神(ワダツミ)の子供にトヨタマビメとタマヨリビメがいる。
姉がトヨタマビメ、妹がタマヨリビメである。

少なくとも系図上は天照大神の子孫と海神・豊玉彦命(ワタツミとも)とはトヨタマヒメにてつながる。

ワダツミ神社のある対馬は古代の日本と古代イスラエル人の末裔の合流地点であったのかもしれない。

系図についてはwikipediaタマヨリビメ にて確認できる
タマヨリビメ (日向神話) - Wikipedia

日本書紀応神天皇37年(306年)春二月条、同じく雄略天皇14年正月条などでクレハトリ、アヤハトリに関わる伝承があるという。

日本書紀の示す物語、神社の由来、祭の起源などが示す伝承ではいつ、どこで国と国との歴史が混じったのか、波状的に渡来しているためはっきりとしにくい。

しかし東へ、東へと、さまざまな土地で民族と交じりながら、そして最後、日本へとたどり着いた民族がいた。それが300~400年頃の時点でも相当数いたのだろう。

↓はクレハトリ、アヤハトリ伝承
クレハトリ・アヤハトリ伝承 - Wikipedia

<参考>

大酒神社 - Wikipedia弓月君 - Wikipedia
呉織 - Wikipedia
呉織・漢織(クレハトリ・アヤハトリ) | 池田市立図書館

365.秦氏が築いた堰(せき)・葛野大堰(かどのおおい)

京都の葛野大堰(かどのおおい)秦氏が築いた取水のための堰(せき)、水位を制御する施設である。この葛野大堰は中国・秦の時代の都江堰(とこうえん)と構造が似ているという。次の流れで紹介していく。

大堰川(おおいがわ)
・葛野大堰(かどのおおい)
・都江堰(とこうえん)

大堰川(おおいがわ)

京都の嵐山を流れる大堰川(おおいがわ)は、京都府丹波山地の大悲山付近を源として始まり、大阪の淀川へと合流する川である。 

川の呼び名が場所によって変わる。

・水源~亀岡盆地付近:桂川

・亀岡~京都の間の峡谷付近:保津川(ほづがわ)

渡月橋付近:大堰川

渡月橋から下流桂川

と呼ばれる。

桂川は古くは葛野川と呼ばれていたという。

平安時代に桂津が発展すると、桂川が一般的な名前となったため葛野川の名が廃れていった。

■葛野大堰(かどのおおい)

築造時期は5世紀後半。

秦氏が嵯峨野地域を開発する際、灌漑を造って農業を広めた。

秦氏が築いたとされる葛野大堰の原型は失われているが、渡月橋上流の川底に当時の段差があるという。

秦氏として有名な人物に秦河勝がいる。7世紀前半・推古朝の人物であるが、河勝という名前は河に勝つ、大きな川の治水を行うという意味も込められているのだろう。

縄文人の場合は大自然をあるがままに受け入れるアニミズム的思想であるが、大自然を制御する発想は西洋的であろうか。

↓はgooglemap、葛野大堰

maps.app.goo.gl

■都江堰(とこうえん)

中国の秦の時代。
四川省成都の郊外に都江堰(とこうえん)が築かれた。

これが葛野大堰とよく似た構造であるという。

都江堰は中国・四川省の都江堰市に所在。
その西部の岷江にある古代の灌漑施設。

秦の蜀郡郡守・李冰(りひょう)が洪水に悩まされている人びとを救うため築造したという。

築造時期は紀元前256年から紀元前251年であるとされる。

■まとめ
秦氏によって築かれた葛野大堰の築造時期は5世紀後半。
・中国・秦の時代に築かれた都江堰(とこうえん)が築かれたのは紀元前256年から紀元前251年。

<参考>
国土交通省近畿地方整備局 葛野大堰
https://www-1.kkr.mlit.go.jp/river/yodoriver_old/iken_shuu/bessi/bessi_783.pdf
都江堰 - Wikipedia

364.栃木県宇都宮市の大谷寺とバ―ミヤン石仏が歴史的につながる理由

栃木県宇都宮市の大谷寺について取り上げる。バ―ミヤン石仏との共通点が見られ、実際はアフガニスタンの僧侶が彫刻したものと考えられているという。それはなぜか。次の流れで紹介していく。

・大谷磨崖仏(おおやまがいぶつ)
・大谷寺(おおやじ)
・大谷資料館と大谷石
・菩薩半跏像(伝如意輪観音
・アルカイック・スマイル
アレクサンドロス大王の東方遠征の影響
グレコバクトリア王国とインド・グリーク朝
・まとめ

■大谷磨崖仏(おおやまがいぶつ)
所在は栃木県宇都宮市

大谷石の巨大な石窟の壁にレリーフ状に仏が彫られている。
その数は全部で10体とされる。
珍しい技法とされ、彫った岩壁面に粘土を着せている。

平安時代中期~鎌倉時代の8世紀~12世紀初頭の製作と推定されている。

・千手観音像や伝薬師三尊像
・伝釈迦三尊像
・伝阿弥陀三尊像

という順で製作されたと考えられている。

文化庁 大谷磨崖仏/大谷寺洞穴遺跡(おおやじどうけついせき)

cb.bunka.go.jp

■大谷寺(おおやじ)
所在は栃木県宇都宮市大谷町。

日本最古の石仏「大谷観音(先述の千手観音像)」、高さ4mは平安時代弘法大師の像と伝えられている。

製作当初は彫刻した表面に赤い朱を塗られ、また、粘土で細かな化粧が施され、漆が塗られ、最も表層では金箔が押されていたとされる。

最新の研究でバ―ミヤン石仏との共通点が見られ、実際はアフガニスタンの僧侶が彫刻したものと考えられている。

出典:大谷寺 | 日本最古の石仏「大谷観音」と高さ27メートルの「平和観音」

↓はwikipedia、大谷磨崖仏(おおやまがいぶつ)

ja.wikipedia.org

石窟の壁に仏像を彫るというスタイルはバーミヤン渓谷、アフガニスタンを彷彿させる。

↓はwikipediaバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群

ja.wikipedia.org

■大谷資料館と大谷石
所在は栃木県宇都宮市大谷町。
大谷石採石場跡に関する博物館。
大谷寺とはすぐ近く。

古墳時代には石棺の材料として大谷石が用いられたという。
8世紀には大谷石下野国分寺・下野国分尼寺の礎石、地覆石、羽目石で使用されたとされる。
↓はwikipedia、大谷資料館

ja.wikipedia.org

アフガニスタンになぜ仏教がという点について。

平安時代から少し時代を遡り、中宮寺の菩薩半跏像を紹介。
このあたりが仏教における西洋と東洋の融合とに関わると思われる。

■菩薩半跏像(伝如意輪観音

聖徳宗中宮寺(ちゅうぐうじ)、国宝の菩薩半跏像(伝如意輪観音)は飛鳥時代の最高傑作とされる。

所在は奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北。

古典的微笑(アルカイックスマイル)の典型として評価されている。
・エジプトのスフィンクス
レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザ
と並び「世界の三つの微笑像」とも呼ばれているという。

↓は中宮寺、菩薩半跏像(伝如意輪観音)の紹介ページ
本尊 - 聖徳宗 中宮寺 公式ホームページ

■アルカイック・スマイル
アルカイック・スマイルとは顔における感情の表出を抑え、口元に微笑を浮かべた表情のこと。

古代ギリシアのアルカイック美術の彫像に見られる。
また、インドのガンダーラ美術にはギリシャの影響がみられる。
紀元1~2世紀のガンダーラ仏にこのアルカイック・スマイルがみられる。

wikipediaガンダーラ美術

ja.wikipedia.org

アレクサンドロス大王の東方遠征の影響
元をたどるとガンダーラ美術、西洋や東洋との文化融合はアレクサンドロス大王紀元前356年-紀元前323年)の東方遠征にたどりつく。
アレクサンドロス大王は東方遠征によってインド北部まで辿り着いたとされる。その後、引き返したとされる。

↓はアレクサンドロス大王の東征の意義について紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

グレコバクトリア王国とインド・グリーク朝

この東方遠征の影響によってグレコバクトリア王国、インド・グリーク朝などが興る。

グレコバクトリア王国(紀元前255年頃~ 紀元前130年頃)ギリシア人の王国であったとされる。

グレコバクトリア王国は現在のアフガニスタン北部、タジキスタンカザフスタンの一部。このグレコバクトリア王国がバクトリアに残存する集団、および北西インドの集団(インド・グリーク朝)に分裂したとされる。

インド・グリーク朝は紀元前2世紀~紀元1世紀のギリシャ人による諸王国の総称。

なお、過去記事で紹介したホータン王国(于闐国、56年~1006年)後漢に従属したものの、1世紀頃から仏教を保護した仏教王国であったとされる。
ホータン王国タリム盆地タクラマカン砂漠の南に位置。

↓はホータン王国、ホータン地区(現在は中国・新疆ウイグル

maps.app.goo.gl

■まとめ

以上の歴史が大陸における西洋と東洋の文明の融合、そしてペルシャ人の中国、朝鮮半島、東の国・日本への渡来、仏教の伝来へとつながっていると考えられる。

つまり、グレコバクトリア王国やインド・グリーク朝、ホータン王国、中国を経てやがて百済に伝わり(あるいは一部の渡来人は既に仏教を知っており)、538年・百済からの仏教の公式伝来となったと考えられる。

その遠因がアレクサンドロス大王の東方遠征にある。

<参考>
ガンダーラ美術 - Wikipedia
グレコ・バクトリア王国 - Wikipedia

インド・グリーク朝 - Wikipedia
本尊 - 聖徳宗 中宮寺 公式ホームページ

363.埼玉県比企郡吉見町の吉見百穴

埼玉県の吉見百穴を取り上げる。吉見百穴は丘陵の斜面を用いた横穴墓であり、ひじょうに特徴的である。またさきたま古墳群とも近く重要なエリアである。次の流れで紹介していく。

吉見百穴(よしみひゃくあな、よしみひゃっけつ)とは
吉見百穴の横穴墓の築造
・三ノ耕地遺跡(さんのこうちいせき)
・山ノ根古墳
・まとめ

吉見百穴(よしみひゃくあな、よしみひゃっけつ)とは

所在は埼玉県・比企郡吉見町。
丘陵や台地の斜面を掘削した横穴墓。
その数は現存で219基の穴があいているという。

かつての説としてコロポックルのような小人の住居説も唱えられたが、現在ではこの穴は横穴墓とされている。

なお、さきたま古墳群とは約14kmほど、古墳の上につくられた古墳・前玉古墳とは13kmほどの距離にある。

↓はgooglemap、吉見百穴

maps.app.goo.gl

↓はさきたま古墳群、稲荷山古墳や金錯銘鉄剣を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

↓は古墳の上につくられた神社として前玉神社を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

吉見百穴の横穴墓の築造

吉見百穴の横穴墓の築造時期は6世紀から7世紀代とされる。
1887年、坪井正五郎氏の発掘調査により、下記の出土品がみられるという。

・平瓶(ひらか)
・短頸壺(たんけいこ)
・フラスコ形長頸瓶(ちょうけいへい)
・高杯(たかつき)
・脚付壺(ひゃくつきつぼ)
・提瓶(さげべい)
・𤭯(はそう)
・耳環(じかん)
・金銅金具(こんどうかなぐ)
・玉類(勾玉、管玉)
・鉄鏃(てつぞく)
・大刀類
がみられる。

■三ノ耕地遺跡(さんのこうちいせき)
所在は吉見町久米田。
縄文時代晩期(2500年前)の集落跡が確認されている。
この遺跡から人々の痕跡がいったん消える。
しかし突如、3世紀後半~4世紀初頭に多数の方形周溝墓と3基の前方後方系墳墓(前方後方墳)が築かれた。
方形周溝墓、前方後方墳も共に同時期に築かれたという。

↓はgooglemap、三ノ耕地遺跡

maps.app.goo.gl

■山ノ根古墳

そしてその直後、山ノ根古墳が築かれた。
方式は前方後方墳
本格的な古墳。
築造は4世紀初頭とされる。
これにより比企地域での古墳時代の幕開けとなったという。
↓はgooglemap、山ノ根古墳

maps.app.goo.gl

↓はwikipedia、山ノ根古墳

ja.wikipedia.org

■まとめ
年代順にまとめる。

・三ノ耕地遺跡(さんのこうちいせき)縄文時代晩期にみられる

・その後、3世紀後半~4世紀初頭、多数の方形周溝墓と3基の前方後方系墳墓が出現

・続けて山ノ根古墳が4世紀初頭に築かれる

吉見百穴(よしみひゃくあな、よしもひゃっけつ)・横穴墓の築造時期は6世紀から7世紀代

・近隣にさきたま古墳群5世紀後半から7世紀中頃がある

以上より、吉見百穴やさきたま古墳群も含むエリアでは次の歴史が展開される。

朝鮮半島を経由した方形周溝墓の墓葬を持つ集団が3世紀後半(200年代後半)に渡来、勢力を持ち方形周溝墓や前方後方系墳墓を築造。

やがて九州・ヤマト国のヤマトタケルが東征、平定されていき、その後次第に近畿にヤマト王権が確立していく。

471年(辛亥年)、「ヲワケの臣」または「ヲワケコ」が杖刀人首(杖刀人のトップ)として「ワカタケル大王(雄略?)」に仕えたという鉄剣が残る。

その後、埼玉県・比企郡吉見町では吉見百穴が6世紀から7世紀代にかけて横穴墓がつくられた。

<参考>
・埼玉県・吉見町 国指定史跡 吉見百穴

362.秦氏の古墳・蛇塚古墳と天塚古墳

京都府京都市右京区、嵯峨野地域は秦氏が開発した地域とされる。蛇塚古墳、天塚古墳などの主要古墳を取り上げつつ、古代の歴史を探っていく。次の流れで紹介していく。

・嵯峨野(さがの)
・垂箕山古墳(たるみやまこふん)
・天塚古墳(あまづかこふん)
・蛇塚古墳(へびづかこふん)
・いさら井
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

■嵯峨野(さがの)
嵯峨野は、京都府京都市右京区の地名である。
右京区には渡月橋、竹林の小径、大覚寺などがある。
嵯峨野は秦氏によって開発された地域である。
↓はwikipedia、嵯峨野

ja.wikipedia.org

■垂箕山古墳(たるみやまこふん)
所在は京都府京都市右京区太秦箕山町。
形式は前方後円墳
大きさは墳丘長63m。
築造は6世紀初頭あるいは6世紀中頃。

横穴式石室がある。
推定で被葬者は秦氏一族とされる。
↓はwikipedia、垂箕山古墳

ja.wikipedia.org

宮内庁は高畠墓(たかばたけのはか)とし、第50代桓武天皇皇子の仲野親王の墓と治定する。

これは1875年(明治8年)の治定に基くと思われる。

しかし仲野親王(なかのしんのう)桓武天皇の第12皇子で生没年は792年~867年。
時代が異なる。
このため実際の被葬者は明らかでない。

ちなみに近隣の
大覚寺とは2.7kmほどの距離
平安京(現在は平安京跡)との距離は約6kmほど
である。

■天塚古墳(あまづかこふん)
所在は京都府京都市右京区太秦松本町。
形状は前方後円墳
大きさは墳丘長73m。
築造は6世紀前半。
埋葬施設として横穴式石室が2基存在。
・後円部西側
・くびれ部
に位置する。

両者の石室とも稲荷の祠が祀られている。

■蛇塚古墳(へびづかこふん)

秦氏の古墳と推定されている。
蛇塚古墳の名前の由来は石室内に蛇が棲息していたためとされる。
現在は墳丘の土がなくなり石室が露出している。

所在は京都府京都市右京区太秦面影町。
京都盆地(山城盆地)西部の嵯峨野台地、南の縁である。

形状は前方後円墳
大きさは墳丘長75m。
築造時期は6世紀末から7世紀初頭。

石室があり、横穴式石室である。
全長は17.8m。
縦4m、横5m、高さ2.5mもある巨石を利用し、大小30数個からなる石を積み上げて構築されているという。

奈良の石舞台古墳(築造は7世紀初頭)に類似するという。

古墳建造時期は推古天皇聖徳太子の時代にあたる。

この時代は畿内の豪族は前方後円墳の築造をやめ、円墳や方墳へと形式が変化していた時代。
そのような中での「太秦」での「前方後円墳」であったとされる。
↓はwikipedia、蛇塚古墳

ja.wikipedia.org

太秦・嵯峨野地域の主要な古墳としては
・垂箕山古墳が6世紀初頭に築造
・天塚古墳が6世紀前半
・蛇塚古墳などが6世紀末から7世紀初頭
・甲塚古墳、広沢古墳が7世紀前半
に築造されていった。

広隆寺(こうりゅうじ)
所在は京都市右京区太秦蜂岡町。
秦氏の氏寺。
木造・弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかぞう)を蔵する。
宝冠弥勒とも。
彫刻の部の国宝・第一号とされる。

この像の製作は7世紀とされる。

制作が国内説、渡来説がある。
渡来説が正しい場合、日本書紀・623年(推古天皇31年)に新羅に請い、渡来させた仏像ではないかとされる。

時代の参考:聖徳太子は生没年574年~622年。実在の人物である。

↓はwikipedia弥勒菩薩半跏思惟像

ja.wikipedia.org

↓はgooglemap、広隆寺

maps.app.goo.gl

下記にみられるように、菩薩半跏像は6~7世紀の、高句麗百済新羅において半跏思惟像が盛んに制作されたという。

特徴として唇に微笑のあるものは「アルカイックスマイル」と呼ばれる。
別途紹介予定。

↓は文化遺産オンライン、菩薩半跏像

bunka.nii.ac.jp

■いさら井
京都府京都市右京区太秦西蜂岡町にいさら井がある。
いさらは「少ない」の古語であるとされる。
いさら + 井で「水が少ししかない井」とされる

いさら井は古代のイスラエルと関係があるのではとする説も。
いさらは「いそら」の転訛、結局はイスラエル出身者と関係があったのだろう。
↓はgooglemap、いさら井

maps.app.goo.gl

↓にていそらはイソラ・エルを紹介

shinnihon.hatenablog.com

↓にてワダツミ神社とイソラエビスを紹介

shinnihon.hatenablog.com

↓にて和田、ワタの源流と考えられる秦氏のホータン地区とのつながりを紹介

shinnihon.hatenablog.com

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
所在は京都府京都市右京区太秦森ケ東町。

別称として

木嶋神社/木島神社(このしまじんじゃ)
蚕の社(かいこのやしろ)

などとも。

祭神は

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
・大国魂神(おおくにたまのかみ)
・穂々出見命(ほほでみのみこと)
・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)

とされる。

延喜式神名帳では「木嶋坐天照御魂神社」と記載され、本来は天照御魂神(あまてるみむすびのかみ、あまてるみたまのかみ)を祀った神社とされる。

延喜式神名帳では山城国の木嶋社のほか、大和国摂津国丹波国播磨国対馬国などで天照御魂神・天照神・天照玉神を祀る祠の存在が見られるという。
皇祖神の天照大神とは別の神格と考えられている。

しかし、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祀ることなどから本当は天照大神を祀ったものだろう。

おそらく神社の創立当初時点では出自を伏せた上で、日本国オリジナルとしてのユダヤ教を参考とした古来から続く神道の体系化、神社のスキーム化に貢献頂いたのだろう。

↓は天之御中主が高千穂峰の王国の初代王であることを紹介した回、天照は推定6代目の初代女王

shinnihon.hatenablog.com

<参考>
嵯峨野 - Wikipedia
垂箕山古墳 - Wikipedia
仲野親王 - Wikipedia
京都市情報館 蛇塚古墳概要
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000307/307257/shiori.pdf
天塚古墳 - Wikipedia
広隆寺 - Wikipedia


361.蘇民将来とは何か、そして巨旦将来の隠れメッセージとは

今回は蘇民将来について取り上げる。次の流れで紹介していく。
蘇民将来(そみんしょうらい)
祇園祭
蘇民将来の呪符木簡
・八坂神社と夏越祭
蘇民将来と巨旦将来(こたんしょうらい)
・考察:巨旦将来とは何か

蘇民将来(そみんしょうらい)

各地に伝わる説話や伝承が基礎となり、災厄を払い、疫病(えきびょう)を防ぐ神として広く信仰されている。
この民間信仰の代表例が京都の祇園祭(ぎおんまつり)とされる。

今年、岩手県の黒石寺蘇民祭りがその1000年以上の歴史に幕を閉じた。
↓はNHK岩手県の黒石寺蘇民祭りが幕を閉じたことを紹介

www3.nhk.or.jp

以下、蘇民将来に関わる範囲でのみ祇園祭を紹介。詳しくは別テーマにて。

祇園祭
祇園祭は山鉾(やまぼこ)が有名。
山鉾は山車の一つで神社の祭礼で引かれる。
車の台の上に家や山などの作り物をし、その上に鉾や長刀などを立てた物のこと。

この山鉾では粽ちまきが授与される。
祇園祭ちまきは食べ物ではない。
笹の葉で作られた厄病、災難除けのお守りのこと。
↓は祇園祭り2023、粽とは

www.kyotodeasobo.com

粽(ちまき)に付けられた紙の札に「蘇民将来之子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」と書かれている。

また「蘇民将来」と記された御札は、主にスサノオを祀る神社で授与されている。
蘇民将来之子孫也」と書いた札を貼っている家もあるという。

蘇民将来の呪符木簡
長岡京にて見つかった。
長岡京跡の右京六条ニ坊六町の南辺を画する六条条間南小路北側溝から出土している。
↓は長岡京市埋蔵文化財センター、蘇民将来呪符木簡の発見

nagaokakyo-maibun.or.jp

長岡京は784年に桓武天皇によって遷都され平安京に遷都されるまでの794年まで機能した都城
↓はwikipedia長岡京

ja.wikipedia.org

 ■八坂神社と夏越祭
所在は京都府京都市東山区祇園町
七月三十一日の夏越祭(なごしさい)には茅輪くぐりが行われ、茅輪守・粟餅の授与も行われる。

↓は八坂神社、蘇民将来の疫神社(えきじんじゃ)について

www.yasaka-jinja.or.jp

この夏越祭の茅輪(ちのわ)について。
元はユダヤ教の過越祭(すぎこしさい)、羊の「血」を柱や鴨居に塗ったものが転じたものだろう。
↓は多胡碑を紹介した際に過越祭の起源と羊について取り上げた

shinnihon.hatenablog.com

八坂神社の歴史的経緯としては神仏習合の際の牛頭天王、そしてルーツを追うには八柱神社が参考となる。
↓は八柱神社について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

蘇民将来と巨旦将来(こたんしょうらい)
蘇民将来や巨旦将来は古くは「備後風土記」などに見える。

あるとき武塔神(むとうしん)が一夜の宿を求める。
富裕な弟の巨旦は断った。
しかし貧しい兄の蘇民は粟柄(あわがら)を敷いて座席をしつらえ、そして粟飯を献じてもてなしたとされる。

↓は須佐神社蘇民将来の紹介ページ
須佐神社 - 主行事|祭日|節分祭|蘇民将来 (そみんしょうらい)


■考察:巨旦将来とは何か
蘇民は耶蘇民キリスト教信仰の民で間違いないだろう。蘇は蘇り(よみがえり)で、キリストの復活を意味すると思われる。

そして八坂神社は「い・やさか」の「い」を抜いたものと考えられる。

「いやさか」には「繫栄を願う」や、「ますます一層栄える」の意味がある。

この「弥栄」は「いや・さか」。
見栄えなどの「はえ」と読むと、「いや・はえ」でヤハウェ信仰を持つ人びとの祭りであった。

つまり、蘇民将来はヤソ民の繁栄を祈願した神事、祭りであっただろう。

そして「蘇民将来と巨旦将来」の「巨旦将来」にはどんな意味があるのだろうか。

おそらく出自に関するメッセージが込められているように思う。

まず秦氏は「弓月国」を出身とする。これは日本書紀応神天皇条にも記載されている。

弓月国は中央アジアキルギス付近にあったものと考えられている。
また、ヤマトゥという土地や、テングリ山という高山があったとされる。

一方、巨旦(コタン)について。
コタンはコットン(綿、ワタ)とも考えられる。
伊都、糸、繭などは関連するルーツからきていると思われる。

あるいは中国のホータン地区などとも関連があるのではとされる。
ホータン地区には和田市がある。和田も「ワタ」である。

ワタは古事記では海を表す言葉として用いられている。また古代の朝鮮語のpataと同義ではないかとも。

ウイグルは現在スンニ派イスラム教徒とされる。古くは景教、つまり、原始キリスト教であったと考えられる。

ホータン王国については別回で取り上げる。

↓はwikipedia、ホータン地区

ja.wikipedia.org

<参考>
蘇民祭 - Wikipedia

360.天皇家の家紋・十六弁八重表菊と古代のシンボルの類似

過去記事にて「家紋や神紋」をテーマとしてユダヤ教キリスト教とのシンボルの類似を取り上げた。今回は「十六弁八重表菊」を取り上げる。次の流れで紹介していく。

・家紋や神紋にみるユダヤ教キリスト教との類似
天皇家のシンボル・菊に関して
・菊の御紋
・菊の日本への渡来
古代イスラエルのヘロデ門
新バビロニアのイシュタル門
ツタンカーメン王墓から出土した青銅器製菊花紋
・参考:五七の桐

■家紋や神紋にみるユダヤ教キリスト教との類似

過去記事では下記を取り上げ、ユダヤ教や原始キリスト教と考えられるシンボルと思われる家紋、神紋を紹介した。

大國魂神社の神紋
徳島県美馬市美馬町の吉水遺跡
藤原氏の下り藤の家紋
・頭合せ三つ笹竜胆(ササリンドウ)
・諏訪梶の葉(すわかじのは)
↓過去記事、家紋や神紋にみユダヤ教キリスト教との類似とシンボルの成立

shinnihon.hatenablog.com

以降では天皇家や世界の古代の王族に関わるシンボルを紹介する。

天皇家のシンボル・菊に関して
シュメールの紋章やユダヤの紋章と同じであるとし「天皇家のルーツ」をシュメールやユダヤにあるのではないかという説がみられる。
ここでは菊の紋章について取り上げていく。

■菊の御紋
鎌倉時代後鳥羽上皇が用いたのがその起源であるとされる。
後鳥羽上皇鎌倉時代の第82代天皇
在位は1183年から1198年であった。

■菊の日本への渡来
菊は高貴な花であり古来より日本人に愛された。
菊は8~9世紀の平安時代に中国から伝わったとされる。

日本の文献資料上に初めて菊が登場するのは平安時代に書かれた歴史書、「類聚国史(るいじゅこくし)」。

このごろの
しぐれの雨に
菊の花
散りぞしぬべき
あたらその香を

この歌は桓武天皇が詠ったものとされる。

桓武天皇の在位は781年~806年、生没年は737年~806年。
諱は山部。

母は高野新笠
父は光仁天皇
高野新笠の先祖は百済武寧王とされる。

古代イスラエルのヘロデ門
ヘロデ門に16菊花紋が彫られている。

↓下記はクラシファイ、ヘロデ門観光情報 画像でヘロデ門が確認できる
ヘロデ門(エルサレム)の観光情報 | 見どころ | 行き方 | 歴史 | 料金 – クラシファイ

新バビロニアのイシュタル門
2,600年前、紀元前575年に新バビロニアネブカドネザル2世が建設したイシュタル門に菊花紋がみられる。

ツタンカーメン王墓から出土した青銅器製菊花紋
古代エジプトにおいて、3,300年前のツタンカーメン王墓から出土した青銅器製菊花紋がある。

以上のように、菊はエジプトや古代イスラエルなど太陽信仰に共通してくるシンボルである。

日本においては菊が高貴な花であることや、太陽の象徴であることからシンボルとして採用されていったのでは。

ひとつの王族や血族が続いているというよりも、太陽を敬うという信仰が続いているといえるのではないだろうか。

■参考:五七の桐
宮内庁のシンボルでもある「五七の桐」について。

平安時代嵯峨天皇(在位:809年~823年)の治世。
820年、天皇が行う祭祀や国事の装束が黄櫨染の御袍(こうろぜんのごほう)に定められた。
大儀には黄櫨染の御袍、小儀や行幸(ぎょうこう)には麹塵染(きくじんぞめ)の桐竹鳳凰文の袍(ほう)が用いられるようになっていった。

↓はwikipedia、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)

ja.wikipedia.org

↓は日本服飾史、桐竹鳳凰

costume.iz2.or.jp

<参考>
キク(菊) - 歴史まとめ.net
袍 - Wikipedia
高野新笠 - Wikipedia

359.5人のイラツコ

今回は「イラツコ」について取り上げる。イラツコのつく名前の人物は少なく、古代を知る手がかりとする。次の流れで紹介していく。

菟道稚郎子
・大郎子(おおいらつこ、稚渟毛二派皇子の子)
・波多毗能大郎子(はたびのおおいらつこ)
・嶋郎(しまのいらつこ、仁賢天皇
・朝日朗(あさけのいらつこ)

菟道稚郎子

父は第15代・応神天皇
第16代・仁徳天皇とは異母兄弟の弟とされる。

以下、過去記事より再掲する。

菟道稚郎子播磨国風土記・揖保郡の条では宇治天皇(うぢのすめらみこと)と称されている。

宇治天皇の時代の出来事として風土記に次のエピソードがある(意訳あり)

宇治天皇の世(みよ)に宇治連(うぢのむらじ)らの祖先、兄太加奈志(えたかなし)、弟太加奈志(おとたかなし)の二人が大田村の与冨等(よふと)の地を請いて、田をはり、種をまこうとしていたときの出来事。

使用人が物を担ぐ棒をもち、食事の道具などのものを担った。
このとき、物を担ぐ棒が折れた。

ゆえに鍋がおちたところを魚戸津(なへつ)となづけた。
さきの筥(はこ)が落ちたところは上筥岡(かみはこおか)となづけた。
うしろの筥が落ちたところは下筥岡(しもはこおか)
担っているものを担ぐ棒が折れたこところは朸田(あふこだ)とした。

地名を紹介するエピソードとして菟道稚郎子の別の側面を紹介しているように思う。

なお、菟道稚郎子は応神と矢河枝比売の子。和爾氏と関りがある。

イラツコという名前に関連し、矢河枝比売(宮主宅媛)の妹、小甂媛(おなべひめ、袁那弁郎女)から生まれた菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)がいる。

①応神 ー 菟道稚郎子という関係である。

↓は神功皇后応神天皇を紹介する回にて菟道稚郎子

shinnihon.hatenablog.com

■大郎子(おおいらつこ、稚渟毛二派皇子の子)
大郎子は、意富々杼王、意富富等王、大大迹王とも。
父は稚渟毛二派皇子(稚野毛二派皇子)。
母は河派仲彦王の女・弟日売真若比売命(おとひめまわかひめ、百師木伊呂弁とも)

妻は中斯知命(なかしちのみこと)
父の稚渟毛二派皇子の父は第15代・応神天皇稚渟毛二派皇子は応神の第五皇子にあたる。

②応神 ー 稚渟毛二派皇子 ー 大郎子(意富々杼王、意富富等王、大大迹王)
という関係がある。

参考:
意富富杼王 - Wikipedia
稚野毛二派皇子 - Wikipedia

■波多毗能大郎子(はたびのおおいらつこ)

大草香皇子 (おおくさかのみこ)、大日下王とも。
仁徳天皇の皇子。
母は髪長媛。

③応神 ー 仁徳 ー 波多毗能大郎子(大草香皇子、大日下王)
という関係がある。
↓は安康天皇を紹介した回にて、大草香皇子が登場

shinnihon.hatenablog.com

■嶋郎(しまのいらつこ、仁賢天皇

仁賢天皇は第24代天皇
仁賢天皇には
・億計天皇(おけのすめらみこと)
・大石尊(おおしのみこと)
・意祁命(おけのみこと)
・意富祁王(おおけのみこ)
・大脚(おおし)
・大為(おおす)
という名前があり、
・字は嶋郎(しまのいらつこ)
である。

④応神 ー 仁徳 ー 履中 ー 市辺押磐皇子仁賢天皇(嶋郎、しまのいらつこ)
という関係がある。

■伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)
雄略即位18年8月(秋)。
物部菟代宿禰(もののべうしろのすくね)物部目(もののべのめのむらじ)を遣わして、
伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を伐(う)たした。

朝日郎は官軍(みいくさ)がやってくると聞き、伊賀の青墓(あおはか)で待ち受けた。
自ら弓を上手に射ることができるのことを誇り、官軍に言った。

「朝日郎の相手は誰がやるのか」

その射放つ矢は二重の鎧をとおる。
官軍はみな怖じ気づいていた。

菟代宿禰(うしろのすくね)はあえて前に出ることはしなかった。
そしてお互いがまもり、二日一夜がたった。

物部目連は自ら大刀(たち)を取る。
そして筑紫の聞(きく※)の物部大斧手(もののべおおのて)とともに楯(たて)を取った。
(いくさ)の中へと叫びながら進んでいった。
聞:豊前国企救郡、現在の福岡県北九州市小倉区・門司区

朝日郎は遠くから見ていた。
そして大斧手の楯と二重の甲(よろい)を弓で射た。
大斧手の体に矢が一寸(ひとき)入った。

大斧手は楯を持って物部目連を覆い隠しまもった。
物部目連は朝日郎を捕らえ、そして斬った。

なお、雄略即位18年は474年とされる。

↓は雄略天皇即位18年にて朝日朗(あさけのいらつこ)が登場する回

shinnihon.hatenablog.com

■まとめ

イラツコの名前を持つ5人を紹介。

①応神 ー 菟道稚郎子
②応神 ー 稚渟毛二派皇子 ー 大郎子(意富々杼王、意富富等王、大大迹王)
③応神 ー 仁徳 ー 波多毗能大郎子(大草香皇子、大日下王)
④応神 ー 仁徳 ー 履中 ー 市辺押磐皇子仁賢天皇(嶋郎、しまのいらつこ)

ここまでは系図上はいずれも応神から始まっている。

そして伊勢に

⑤朝日朗(あさけのいらつこ)
がいる。

<参考>
菟道稚郎子 - Wikipedia
大草香皇子 - Wikipedia
朝日郎 - Wikipedia

 

358.和邇氏族と東大寺山古墳

前回、和邇氏について紹介した。天理市和邇(わに)から櫟本(いちのもと)のエリアは和爾氏の拠点であったとされる。そのエリアにある東大寺古墳を取り上げる。次の流れで紹介していく。

東大寺古墳
漢中平紀年大刀(かんちゅうへいきねんたち)
・赤土山古墳
・和爾下神社(わにしたじんじゃ)
天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
・和爾下神社古墳
・柿本寺跡(しほんじあと)
・楢神社(ならじんじゃ)
鬼子母神とザクロ
・櫟本(いちのもと)

東大寺古墳
所在は奈良県天理市櫟本町
形式は前方後円墳
大きさは推定で推定130m~140m。
築造は4世紀後半。
粘土槨の埋葬施設が発見されている。
鉄刀や石製台付坩(せきせいだいつきかん)などが見つかっている。
鉄刀の中には「中平年」銘に入った鉄刀がある。
石製台付坩は儀式用と考えられている。

↓はgooglemap、東大寺山古墳

maps.app.goo.gl

↓は文化遺産オンライン、東大寺山古墳出土、花形飾環頭大刀(はながたかざりかんとうたち)

bunka.nii.ac.jp

↓は1089ブログ、東大寺山古墳出土大刀について論じられている回

www.tnm.jp

↓は文化遺産オンライン、東大寺山古墳出土、石製台付坩(せきせいだいつきかん)

bunka.nii.ac.jp
↓は文化遺産オンライン、東大寺山古墳出土、巴形銅器

bunka.nii.ac.jp

漢中平紀年大刀(かんちゅうへいきねんたち)
東大寺山古墳から出土した「中平」の紀年の銘がある太刀。
太刀には花、鳥、家形の装飾がついている。

中平とは後漢霊帝の時代の4番目の年号で184年~189年にあたる。
ちなみに黄巾の乱はこの元年、184年に起こっている。

なお、応神の時代に渡来した阿知使主について。
阿知使主は霊帝の曽孫(ひまご)とされる。

阿知使主の渡来時期は3世紀~4世紀、または5世紀前半とされる。

応神の生没は201年~310年であるが、実在なら+200年の4世紀後半から5世紀初頭と考えられる。

この天皇(ここでは時代)と史実・出来事の年代のアンマッチについて。
阿知使主の渡来時期はある程度まで正しいが、天皇(大王)の年代に操作があるのだろう。
↓鉄剣や鉄刀に刻まれた文字を取り上げ、その中で漢中平紀年大刀が登場

shinnihon.hatenablog.com

■赤土山古墳

赤土山古墳の立地は大和古墳群の北にあたる。
所在は奈良県天理市櫟本町である。

東大寺山古墳群の中の主墳の1つ。
前方後円墳:5基
円墳・方墳:40~50基
から成る。
古墳時代前期から中期を中心とする。

赤土山古墳の形式は前方後円墳
きわめて特殊な前方後円墳とされ双方中円墳との見解も。

墳丘長は106.5m以上。
築造は4世紀末から5世紀初頭。

後円部突出部の南側で
・家形埴輪:11基
・囲形埴輪:1基
などから構成される埴輪群が検出されており、家形埴輪の祭祀遺構として認知されているという。

↓は天理市、赤土山古墳

www.city.tenri.nara.jp

↓はwikipedia赤土山古墳、家形埴輪祭祀遺構の復元の様子が画像にて確認できる

ja.wikipedia.org

■和爾下神社(わにしたじんじゃ)

所在は奈良県天理市櫟本町字宮山。
東大寺山の西の麓にあたる。
東大寺山古墳群の和爾下神社古墳の後円部が境内。

祭神は素盞嗚命大己貴命櫛稲田姫命
本来は和珥氏の同族である柿本氏の祖神を祀る神社であり、本源は和珥氏の祖神とされる天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)ではないかとされるという。

↓はwkipedia、和爾下神社

ja.wikipedia.org

和爾下神社は上治道宮、そして約2.5kmほど離れた場所に下治道宮の2社がある。
この2社をもって「和尓下神社二座」と比定されている。

↓は和爾下神社(上治道宮)

maps.app.goo.gl

↓はgooglemap、和爾下神社(下治道宮) 

maps.app.goo.gl

天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)

和珥氏の祖神とされる天足彦国押人命について。

父は第5代・孝昭天皇の第一皇子。
母は世襲足媛(よそたらしひめ、余曽多本毘売命)
古事記において春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣などの祖とされる。
のちの小野妹子柿本人麻呂が有名。

なお霊帝諡号は孝霊皇帝である。

日本の第7代天皇も漢風諡号孝霊天皇と一致する。

第5代から第7代までの人物関係としては

第5代・孝昭天皇から
・第6代・孝安天皇
天足彦国押人命
が生まれる。

この天足彦国押人命から
・和珥氏
・押媛(おしひめ)
が生まれる。

この押媛が孝安天皇の皇后である。

そして孝安天皇孝霊天皇と続く。

ここまでをまとめると、

和邇氏に由来のある漢中平紀年大刀の紀年は中国・霊帝の時代にある

・阿知使主は日本書紀応神天皇20年9月の条で「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した」とされる人物

古事記和邇吉師(わにきし)、のちの阿知使主、東漢氏(やまとのあやうじ)霊帝の曽孫(ひまご)と名乗った

淡海三船(おうみのみふね)が日本書紀における天皇に漢風諡号を名付けた

という経緯がある。

■和爾下神社古墳
形式は前方後円墳
大きさは全長約105m。
築造は4世紀末から5世紀初頭とされる。
東大寺山古墳、赤土山古墳、和爾下神社古墳の順で造られた古墳とされる。
↓は天理市観光協会、和爾下神社古墳

kanko-tenri.jp

■柿本寺跡(しほんじあと)
和爾下神社の近隣エリアには柿本寺跡や楢神社がある。

柿本寺跡は柿本寺(しほんじ)と呼ばれ、柿本氏の氏寺であった。
↓は天理市観光協会、柿本寺跡の紹介ページ

kanko-tenri.jp

■楢神社(ならじんじゃ)
所在は奈良県天理市楢町。
鳥居が銅でできている。
1955年までは五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)神社と称していた。
主祭は五十狹芹彦命(いさぜりひこのみこと)鬼子母神(きしもじん)

鬼子母神とザクロ

鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれた王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘であるという。

千人もの子を生みながら、他人の子どもを奪って食べるという乱暴な鬼神であった。
しかしあるときお釈迦さまが、カリテイモのかわいがっている末子を隠し、子供を失う悲しみを教えたという。

これによってカリテイモは仏教に帰依したとされる。

境内にザクロの木があり、多産のシンボルとも。

ザクロは西南アジアや中東が原産とされる。

東方へのザクロの伝来の記述が「証類本草」以降の書物にみられるという。
証類本草(しょうるいほんぞう)は中国の宋代の本草(薬物の知識をまとめた書)で1091年から1093年頃の成立とされる。

前漢武帝の命により張騫が西域から帰国した際、パルティアからザクロ(安石榴、あるいは塗林)を持ち帰ったとされる。
↓googlemap、楢神社

maps.app.goo.gl

■櫟本(いちのもと)
1989年に添上郡の櫟之本村、和爾村、楢村、森本村、蔵之庄村、中之庄村が合併して櫟本村となった。
さらに1954年、丹波市町、朝和村福住村二階堂村、柳本町と合併して天理市となった。

■感想

和邇氏という名前がワニ、海神系、インドのルーツを想起

・楢神社にみる五十狹芹彦命(いさせりひこのみこと)はイソサチとも読める
海幸、山幸のイソサチ。

・柿本寺跡はシホン寺とかつて呼ばれており、シオンと響きが類似

欠史八代の5代~8代まではまるで和邇氏のためにあるかのよう

和邇や阿知使主にしても独自の建築技術および独特の墓葬を持つため、秦氏と共通のルーツにあるのだろう。少なくとも400年代のネストリウス派より早い渡来である。

<参考>
東大寺山古墳/天理市
中平 - Wikipedia
霊帝 (漢) - Wikipedia
東漢氏 - Wikipedia
赤土山古墳 - Wikipedia
天足彦国押人命 - Wikipedia
押媛 - Wikipedia
春日氏 - Wikipedia

小野氏 - Wikipedia
楢神社 - Wikipedia
ザクロ - Wikipedia
櫟本町 - Wikipedia

357.応神天皇と矢河枝比売

ここでは矢河枝比売を取り上げる。応神天皇の皇后の一人とされる人物。次の流れで紹介していく。

・矢河枝比売(やかわえひめ、やかはえひめ)
・矢河枝比売と応神天皇の子
・女鳥王(めどりのみこ)
・矢河枝比売と応神の出会い
応神天皇の三皇子
・和爾氏

■矢河枝比売(やかわえひめ、やかはえひめ)

宮主宅媛(みやぬしやかひめ)、和珥日触使主女とも。
矢河枝比売は第15代・応神天皇の妃の一人である。

父は丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)
矢河枝比売(やかわえひめ、やかはえひめ)は宮主、神職である。

また応神天皇はしばらくしたのち、軍神・八幡神と称されるようになった。
この八幡神社秦氏が創建した神社である。

この八幡・ヤハタは渡来していた秦氏などが信仰していた「ヤハエ」と同一と考える。
「やかはえひめ」の「か」の文字を抜くと「ヤハエ」となる。

以下、矢河枝比売をテーマとして古代の文献をみていく。

■矢河枝比売と応神天皇の子

古事記によれば宮主・矢河枝比売と応神天皇との間に次の3人の子(三柱)がいる。

菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)応神天皇の皇太子

・八田若朗女(やたのわかいらつめ):第16代・仁徳天皇の妃

・女鳥王(めどりのみこ)仁徳天皇に対し隼別皇子と謀反を起こそうとした

なお、応神は矢河枝比売の妹の袁那弁郎女(をなべのいらつめ)もめとっている。

応神と袁那弁郎女との間の子に菟遅若朗女(うぢのわかいらつめ)がいる。

■女鳥王(めどりのみこ)
女鳥をめぐる鷦鷯(仁徳)と隼別皇子との戦いを下記の過去記事の回にて記した。
なお、隼別皇子は応神の子で、桜井田部連垂根(さくらいのたべのむらじたりね)の娘の糸井比売(いといひめ)との子とされる。

↓女鳥王が登場した回

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■矢河枝比売と応神の出会い
応神が木幡村京都府宇治市木幡)に到ったとき。
道端で麗しき乙女と出会った。

天皇はその乙女に「誰の娘か」とを尋ねた。

乙女は「丸迩之比布礼能意富美(わにのひふれのおおみ)の娘、宮主矢河枝比売(みやぬしやかえひめ)」と名乗った。

天皇は明日の帰りの際、乙女の家に寄ると言った。
矢河枝比売はその詳細を父に語る。
すると父は「それは天皇だろう。恐れ多い」とし矢河枝比売にお仕えせよといった。
そして家を飾って次の日を待った。

こうして父・ワニノヒフレノオホミは天皇に対して供え物を奉る際に矢河枝比売に大きな酒杯(さかずき)を持たせて奉った。

すると天皇は酒杯を受け取り、次の歌をうたう。

この蟹や 何処(いづく)の蟹 
百伝ふ 角鹿(つぬが)の蟹 
横さらふ 何処に到る
伊知遅島(いちぢしま) 美島(みしま)にとき
鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息づき 
しなだゆふ 佐々那美道(ささなみぢ)
すくすくと 我がいませばや
木幡(こはた)の道に 遇(あ)はしし嬢子(おとめ)
後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも
歯並(な)みは 椎菱(しひひし)なす
櫟井(いちひゐ)の 和邇(わにさ)の土(に)
初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ
底土(しはに)は 土黒(にぐろ)きゆえ
三つ栗の その中つ土を
頭突(かぶつ)く 真火(まひ)には当てず
(まよ)(が)き 濃(こ)に画き垂れ
遭はしし女(をみな)
かもがと 我が見し児(こ)
かくもがと 我(あ)が見し児(こ)
うたたけだに 向かひ居(を)るかも
い副(そ)ひ居るかも

と歌ったとされる。
そして生まれた子が宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)古事記は紹介している。

万葉集・巻十六に「乞食者(ほかひびと)の詠二首」という歌が記されている。
それによればカニとシカに扮して歌うという形になっているそうだ。

↓下記の万葉集を読む、にて乞食者(ほかひびと)の歌が紹介されている。
乞食者の歌(万葉集を読む)

応神天皇の三皇子
古事記では応神天皇にはつぎの三皇子がいたとする。

・大山守命(おおやまもりのみこと)
・大雀命(おおさざきのみこと、のちの仁徳)
菟道稚郎子
である。

応神天皇菟道稚郎子に継がせようという思いがあった。
そのため大山守命、大雀命に誰が皇太子にふさわしいかと尋ねた。
その結果、応神天皇の思い通りの答えが返ってくる。

そして
・大山守命には山海(やまうみ)の政(まつりごと)
・大雀命には食国(をすくに、治める国)の政(まつりごと)
菟道稚郎子には天津日継(あまつひつぎ、皇位
となることを命じた。

しかし、最終的には応神が崩御する。
そして大山守との間の皇位継承が発生、皇位を譲るため菟道稚郎子自死した日本書紀とされる。

しかしその一方、播磨国風土記・揖保郡の条では菟道稚郎子は宇治天皇(うぢのすめらみこと)と称されている。

↓は神功皇后応神天皇を紹介、菟道稚郎子が登場した回

shinnihon.hatenablog.com

■和爾氏
矢河枝比売の父である和爾氏(和珥氏)について。

和珥氏は奈良盆地の東北部一帯に広く勢力を持った古代氏族。
和珥氏の一族は孝安天皇(第6代)開化天皇(第9代)に后妃2人(それぞれ押姫、意祁都比売命)を入れたとされる。

また葛城氏の没落後は11人の后妃を出し、勢力を広げた。

仁徳朝の頃、米餅搗大臣命(たがねつきのおおおみのみこと)が大きく
和邇
・大宅
・布留
・春日
の各地にわかれていったとされる。
応神と矢河枝比売との出会いは和爾氏の出自を示したものだろうか。

■感想
丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)の名前について。

ひとつめは「比布礼」について。
日触の字があてられることも。
一方、「へブル」から次のように子音を操作したのではないかと思う。

へ→ひ

る→れ

ふたつめは「意富美」について。
大物主神の別名が「意富美和之大神」。
「おほみ」はオオミ、近江とも。

米餅搗大臣命の四子のうちの和邇、大宅、布留、春日の「布留」にへブルのフルも入る。
ちなみに、フルは物部氏との関連の「布留」が有名だが、旧約聖書モーセ、アロンのほか、フルという人物がモーセを支えたとされる。

仮に古代のユダヤ人が淡路への渡来後、移り住んだ候補地としては琵琶湖付近があげられっる。琵琶湖付近を、ガリラヤ湖のように思って好んで住んだのではないかという説もみられる。

なお、琵琶湖とガリラヤ湖を比較すると、
・琵琶湖:670平方キロメートル
ガリラヤ湖:166平方キロメートル
である。
琵琶湖の面積はガリラヤ湖の約4倍にあたる。

菟道稚郎子の宇治は琵琶湖の南。
のちの秦氏(主にキリスト教ネストリウス派と考えられる)は京都で活躍していくことになる。

丸邇氏「ワニ」を名乗っているため、海神系と思われる。

以上より、推測の域をでないが、和爾氏はその頃宇治市木幡に住んでいた古代のユダヤ人の氏族だったのでは。その物語が挿話の形で出自を隠しつつも埋め込まれているのでは。

なお、八重の用いられ方の変遷について。八重→弥栄→八坂と変化していったとされるも

<参考>
八河江比売 – 國學院大學 古典文化学事業
米餅搗大使主 - Wikipedia
和珥氏 - Wikipedia
押媛 - Wikipedia

意祁都比売命 - Wikipedia
アロン - Wikipedia