485.スメラノミコト・後編その1
天皇(スメラノミコト)について。いつの時代に称された、そしてどのような意味が込められているのだろうか。「スメラノミコト」とされる天皇を列挙しながら、判明している事象を紹介する。簡潔に言えば、日本への渡来には先行する紀元前1000年(モーセ後)~紀元後450年(ネストリウス派)頃くらいのユダヤの民族の流れ、そしてペルシャ系の渡来の流れがあると推測されるのである。次の流れで紹介していく。
・歴代天皇のグループと在位年数
・60の倍数となっている理由
・六十干支
・辛酉革命説
・中国の史書に残る九州の史実
・ヤマトタケルの東征
・ヤマトタケルの西征
・装飾古墳はなぜ九州で発達したか
・ユダヤ人は渡来したか
・淡路
・出雲
・日高見国
・250年頃に到達したと推測されるペルシャ人
過去、前編、中編で「スメラノミコト」に関連する事象を解説した。
↓はスメラノミコト・前編
↓ははスメラノミコト・中編
今回はまず、天皇の年代がどのように設定されていたか、日本書紀を成立させた時点での、それ以前の天皇について。
■歴代天皇のグループと在位年数
さまざまな研究者による研究、および林順治氏「日本書紀と古事記」によれば、次のように設定されている。
第一グループ:
・初代・神武~6代目・考安天皇:在位年合計370年
第二グループ:
・7代・孝霊~11代目・垂仁天皇:在位年合計360年
・12代・景行:在位60年
・13代・成務:在位60年
・14代・仲哀~15代・応神:在位年合計120年
第三グループ:
・16代・仁徳~17代・履中:在位年合計95年
第四グループ:
・18代・反正天皇~30代・敏達:在位年合計180年
・31代・用明天皇~35代・皇極:在位年合計60年
全グループ合計:1305年
で構成されているという。
おおよそ60の倍数を主として年代紀を成り立たせている。
以降は林順治氏の解説のほか、他文献、および、これまで紹介してきた私見などを交えつつ解説する。
■60の倍数となっている理由
これは、
・六十干支(ろくじっかんし)
・辛酉革命説
が関連すると思われる。
■六十干支
十干と十二支を組み合わせたもので60年で1サイクル。
古代の人たちの寿命は60年もない人が多数であり、生年・死没とも六十干支で問題なかったものと思われる。
しかし、日本書紀のようなクロニクル・編年体でまとめようとした場合、西暦のような統一的な基準がないため、西暦でいつの人であったかが不明、ないしはとらえずらくなる。
これにより、断片的な人物、特定の年代の事象をてがかりとしたピースを、時代を散らしながら、天皇を中心としたクロニクルに編纂したものと考えられる。
↓は日本書紀が編年体であること、孝元天皇の名前がクニクルでクロニクルに近いことを示した
■辛酉革命説
辛酉革命説とは、干支が辛酉(しんゆう、かのととり)にあたる年には大変革が起こるという讖緯(しんい)説のうちのひとつ。
これによれば、日本書紀は601年が基準となっていると考えられる。
601年は推古天皇9年にあたる年、「辛酉」の年であった。
また、関連し、660年に百済が滅びている。
紀元前660年を神武天皇の即位の歳としたのは、601年より21回分×60年前の「紀元前660年」などが関連しているとされる。
↓は皇紀とは何かにて、辛酉革命説を紹介した
続いて、古墳時代と九州の関係性について。
■中国の史書に残る九州の史実
まず、神武天皇は実在の人物ではないとされる。
では、神武天皇とはどのような設定なのか。
これが、推定で紀元前800年頃の天之御中主とされる人物、そして紀元後・300年頃のヤマトタケルの東征の史実を合成して作成されたキャラクターであるとされる。
では、天之御中主とはどのような人物か。
天之御中主は高千穂峰の王国の初代の国王的な人物とされる。
次に、邪馬台国とは何か。
場所は九州の有明海付近にあったとされる。
推定で、熊本が王の中心地であったのではないか。
このときの邪馬台国は小国がやっとまとまったというくらいの連合国家である。
その王、卑弥呼は当時ヒムカと呼ばれていた巫女。
そして、このヒムカの後を継いだのがトヨ。
魏志倭人伝にも卑弥呼、台与と考えられる中国への遣使の歴史が残る。
ただし、具体的な場所までは伝わらない。
ではなぜ熊本と言えるのか。
・日本書紀・景行一八年五月一日条に示される、八代県の豊村(やつしろあがたのとよむら)
・日本霊異記・宝亀二年(771年)一一月一五日に示される、肥後の国八代の郡豊服の郷(とよぶくのさと)の人、豊服広公の娘、舎利菩薩に関する話
など、熊本に関する不思議な逸話が記されている。
火の国、トヨの地名の残る熊本県八代市付近が遷都前のヤマト国であったのではないかと考えられる。
ほか、魏志倭人伝の陳寿のルートも、異論はあるにせよ、熊本にあったことが前提となっていると考えられる。
↓は熊本にヤマト国(邪馬台国)があったことを示した回
■ヤマトタケルの東征
また、ヤマトタケルの東征、西征は日本史にどう関係するのか。
まず東征があったの時代は西暦300年前後とされる。
出発地点は南九州と考えられる。
そして東征で活躍した「ヤタガラス」とはどのような人物であったか。
それは、賀茂氏であったと考えられる。
賀茂氏とは何か。
賀茂氏は推定で中央アジア・サマルカンド方面を経て渡来したスキタイの後裔と推測する。
↓はアヂスキタカヒコネと賀茂氏の関係を示した回
西暦300年当時は力をもっていたのだろう。
しかし、高知県に残る神社の歴史からみると、やがて衰退していくことがわかる。
↓高知県の勢力には、秦氏やスキタイの興亡が関わると推測される
■ヤマトタケルの西征
一方、西征とは。
西征は卑弥呼・当時で30余国をまとめあげた程度の国家であった。
やがて近畿や関東、東北へと遠征したヤマト国の民族たちであったが、その一方で、九州のすべてをまとめあげたわけではなかった。
この、九州の残りの地域を平定していったのが西征。
これに先発隊として賀茂氏は同行したのだろう。
それが、近畿・奈良が日本の中心地となり、第二期のヤマト国・大和王権が近畿地方において次第に確立していった。
■装飾古墳はなぜ九州で発達したか
日本史の不思議な点は、大陸には中国という大国が存在したこと、そして西方由来の人物が太陽の昇る東の国を目指して移動したと考えられることだろう。
商業上・貿易上のシルクロードの終着地点は中国であった。
しかし、その一方で、本来の旅の目的は、旧約聖書にいう東の島々の国であったと考えられる日本を目指していたのではないか。
なお、主に九州を中心として装飾古墳が発達する。
これはなぜ九州で起こったのか。
卑弥呼(ヒムカ)、台与(トヨ)は本質的にはギリシャや芸術と縁の深い人物である。
これが、ヒムカやトヨにゆかりを持つ九州にて装飾古墳が発達していった理由なのだろう。当時も渡来人や縄文人の子孫にも、芸術系の人物がいたのだろう。
■ユダヤ人は渡来したか
古代に出雲、淡路、日高見国(茨城県にあったと推定される)の3地点において、日本書紀の成立時点よりもかなり早い時期にユダヤ人が到達していたことはほぼ間違いない。
「ミズラ」について取り上げた回で、千葉県の芝山古墳・姫塚を扱った。
この古墳は6世紀後半の築造である。
形象埴輪の人物像、そして髪型が、日本人ではなく、ユダヤ人を象徴していると思われる埴輪が見つかっている。
↓は千葉・芝山古墳について扱った回
さて、文献史学上、古事記、そして日本書紀上でユダヤ人は登場するのか。
ユダヤ人に関する表現は直接的には存在しない。
しかし、暗喩やその存在をにおわせる表現が多数残っている。
さらに歴史は複雑であり、250年頃に到達したペルシャ人、400年以降に渡来したネストリウス派のユダヤ人、ソグド人、スキタイなどにより、その民族の特定は難しい。
■淡路
淡路には古代のイスラエル文化遺跡が残る。
このため、かなり早くにユダヤ人は渡来していたのではないか。
具体的には、古墳時代よりももっと早くなのだろう。
この遺跡の発掘を指示したのは、実は明治時代の宗教家・出口王仁三郎氏である。
この遺跡の時代はいつだろうか。
この遺跡は、原始的なユダヤ教の祭祀遺跡とされ、古いからには古墳時代より前ではないかと推測される。
四国には高知に
・西部に幡多
・中部に物部氏、蘇我氏などといったヤマト王権で活躍した人物の地名、七星剣
・東部に応神、サカ(サカとなればスキタイとも関連してくる)
といった古い歴史が残る。
そして特に、徳島には剣山がある。
といった、近畿のヤマト王権から少し離れた四国にも物部、蘇我の関連地がある。
また、古墳時代から少し時代を経て、佐伯氏から空海が生まれるのである。
佐伯氏もまた、渡来系であることが判明している。
なぜ、空海の時代事において、四国において著名な人物が生誕したのだろう。
それは、ヤマト王権からそう離れておらず、かつ、ユダヤ人の後裔が活躍したのではないかと推測する。
古事記では伊予之二名島(イヨのフタナジマ)とある。
これは、二つの名を持つ、にひっかけた、ナフタリ族が渡来していたことを示す描写ではないか。
1952年、菰江(コモエ)にて
古代ユダヤ遺跡とされる
・ナフタリ族のシンボルである鹿(シカ)が刻まれた指輪
・ダビデ紋章(六芒星)が刻まれた指輪
・石
が発見されている。
しかし、その後1959年の伊勢湾台風にて遺跡は流された。
当時はまだ日本史の全貌を解明するには早すぎたのだろうか、流されてしまったのである。
↓ナフタリ族のシンボルである鹿の指輪とダビデ紋章の指輪を紹介した回
↓はユダヤ人渡来後のその後の淡路島の歴史、境神明神社、白人神社などを取り上げた
出雲(イズモ)、安曇(アヅミ)、穂積(ホヅミ)などは関連する氏族と考えられる。
古代日本二おける各地方・各国の国土開発に貢献していくことになる。
■出雲
出雲では、天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)、その子である建平鳥(タケヒラトリ)が活躍されたとする。
建平鳥は「ヒラクテリ・ヒラクリティ」をほのめかしていると考えられ、その祖先の天之菩卑能命は、ユダヤ人を指しているものと推測できるのである。
なお、山伏の「頭襟(ときん)」はヒラクリティに似ることは、ユダヤ関連の研究家の中では有名である。
↓は建平鳥、ヒラクテリについて考察した回
出雲がスサノオと関連が深いのは、大分に生まれたアマテラスの弟、スサノオと関連が深いからであると考えられる。
クシナダ媛との結婚を条件に、ヤマタノオロチを退治したという。
ヤマタノオロチは、実際は3つ程度の頭であったという。
そして、おそらく、退治しようと挑んだ人の、銅製の刀を体内に宿していたと考えられる。よって、金属製の剣は紀元前8世紀頃にも持ち込まれていたことになる。
また、その後、スサノオは新羅遠征を行ったという。
この独断での行動により、当時・九州の高千穂峰の王国の首長となっていたアマテラスからスサノオは追放されてしまったという。
これらの出来事から推測すると、出雲に紀元前1000年~紀元前800年頃には最も早いユダヤ人の一部が渡来していたとみる。
このあたりが神話として描かれているのではないか。
なお、やがて高千穂峰の王国は衰退、そして倭国大乱後、阿蘇付近のヤマト国が台頭したとみられる。そしてヒムカ、トヨを始めとする人物を輩出する。
やがて景行天皇(武具の挂甲から名づけたか)の父の子、ヤマトタケルが東征。
出雲・大国主は国譲りを行い、東征に付き添った。
その東征の後、千葉、埼玉、群馬などが開発されているのはこれが関係すると思われる。
なお、建平鳥のほか、一言主(ヒトコトヌシ)、事代主(コトシロヌシ)も出雲関連の実在した人物とみられる。「一言」で一弦、事で琴とも読めるため、弦楽器を暗喩しながらのネーミングと推測できる。
■日高見国
常陸国風土記によれば、現在の茨城に日高見国があったとされる。
↓は日高見国、信太郡について紹介した回
この日高見国の後裔が
・信太郡(しだぐん)
とされる。
信太郡の位置は
・東は信太流海(しだのながれうみ)
・南は榎浦流海(えのうらながれうみ)
・西は毛野河(けののかは)
・北は河内郡(かわちのこおり)
とされる。
信太郡の名前の由来は
「赤旗が垂れ下がる国」
からとったという。
しかし、本当は東アジアを目指したユダヤ人に関わる国ではないかと推測できる。
なぜそのようなことが言えるのか。
ユダヤとシダとを結び付けることのできる根拠として、シダの漢字は羊歯であり、ユダヤ人を示す隠語に「羊」がある。
上野三碑をみると、神道というよりはユダヤ教を信じているような立場から間もない帰化人が仏教へ改宗したのではないかと想定される記録が残る。
↓は上野三碑・多胡碑について紹介した回
一般的に八角墳は天皇陵が多く、六角墳は皇族で扱われることが多いとされる。
その発端が、千葉、海保大塚(かいほおおつか)古墳が4世紀末の築造で、六角墳と推定されている。
↓は六角墳を取り上げた回
東征に同行した蘇我氏系の墓であろうと推測される。
蘇我比咩神社は千葉にある神社で、弟橘姫とも関連がある。
↓は蘇我比咩神社について紹介した回
■250年頃に到達したと推測されるペルシャ人
ササン朝ペルシャは紀元後226年に成立する。
そして、7世紀にイスラム勢力の侵攻を受けて651年頃滅亡した。
ササン朝ペルシャの民族は東アジアを目指した。
新羅の官位にササンがみられる。
この官位や、ローマングラスが残る歴史、秦韓国が新羅の位置に存在していたことが記録に残っていることからして、推定で新羅のテクノクラートとなっていたことは、かなり真実に近いとみて間違いないだろう。
↓新羅の官位・ササンを紹介した回
古墳時代頃には、新羅とローマには少なくとも工芸品的に交流がみられる。
新羅とローマのつながりを示す人物名に金波鎮漢紀武がいる。
允恭天皇(在位は412年~453年)に記される。
↓は新羅とローマ、バチカンなどとの関連を示した回
日本においては、奈良県橿原市(かしはらし)の新沢千塚126号墳から、新羅を経由したローマからもたらされたとする多彩な金のアクセサリー、そしてペルシャ地方(イラン、イラク)からもたらされたとされるガラス製の碗と皿が見つかっている。
↓は新沢千塚126号墳について取り上げた回
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484.蟻と蝿~ヤハエと王家が市辺押磐皇子を通じてつながるまでのロジック~
古代における蠅(ハエ)と蟻(アリ)について。これが、ヤハウェを信じていたアーリア人が日本に渡来し、日本人へと同化、その封印、書き換えられた(自発的かどうかは不明)とみる。次の流れで紹介していく。
・市辺押磐皇子と妻の荑媛
・市辺押磐皇子に隠されるハエ
・荑媛の子
・黒媛
・飯豊青皇女とイラツメ
・黒媛の父・葦田宿禰
・葛城蟻臣(かつらぎありのおみ)
・市辺押磐皇子を起点とした人物関係
・継体天皇の妻の蠅媛
・矢河枝比売(やかわえひめ、やかはえひめ)
まず、市辺押磐皇子について。
■市辺押磐皇子と妻の荑媛
市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)は5世紀頃の皇族とされる。
日本書紀で
・磐坂皇子(いわさかのみこ)
・磐坂市辺押羽皇子
・天万国万押磐尊(あめよろずくによろずおしはのみこと)
古事記で
・市辺之忍歯王
・市辺忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ)
播磨国風土記で
・市辺天皇命(いちのへのすめらみこと)
とされる。
配偶者は荑媛(ハエヒメ)。
この妻の荑媛には「ハエ」の文字が入る。
また播磨国風土記は市辺押磐皇子を天皇と呼ぶ。
このことには、何らか意味があるのだろうか?
「イチノヘ」は、青森の一戸~八戸のイチノヘとも音韻を同じくする。
青森県新郷村の戸来(ヘライ)はヘブライが転じたものとも推測できるとされる。
こじつけなのか、それとも真実が隠されているのか、どちらだろうか。
学術的にはなかなか証明しきれないものである。
■市辺押磐皇子に隠される音韻のハエ
市辺押磐皇子は古事記において「市辺之忍歯王」とも呼ばれたという。
これは、八重歯で歯の先端が3つに割れていたことに由来するという。
また、市辺之忍歯王は日本書紀などの名前から
・押磐(オシイワ)
・忍歯(オシバ)
・磐坂皇子(いわさかのみこ)
などがみられる。
忍歯は八重歯でもあるという。
この八重歯(ヤハエ)の語順を入れ替えるとヤハエとなる。
つまり、市辺押磐皇子も妻の蝿姫もこのヤハエと関係があるのではないだろうか。
■荑媛の子
荑媛は葛城蟻臣の女(むすめ)とされる。
市辺押磐皇子と荑媛の子に、
・居夏姫(いなつひめ)
・億計王(おけのみこ)
・弘計王(をけのみこ)
・飯豊青皇女(いいとよのひめみこ)
・橘王(たちばなのみこ)
がいるという。
・父:履中天皇
・母:黒媛(葦田宿禰の女、葦田宿禰は葛城襲津彦の子)
とする。
一方、日本書紀・顕宗紀が引用する「譜弟」で
・父:市辺押磐皇子
・母:荑媛(はえひめ、葛城蟻臣の女)
であるという。
市辺押磐皇子と荑媛の子の億計王(おけのみこ)、弘計王(をけのみこ)の兄弟は天皇ともなっており、また「おけ」が何を示すのかについては興味深い。
発音からすると「王家」の意味が隠されているのではないかと推測する。
実際、古事記では仁賢天皇の名に、意富祁王(おおけのみこ)がある。
この推測はこじつけか、それとも真実味を帯びたものだろうか?
まずは市辺押磐皇子の出自を追うため、市辺押磐皇子の母の黒媛を取り上げる。
■黒媛
父は葦田宿禰とされる。
履中天皇の夫人。
履中天皇と黒媛の子が市辺押磐皇子という。
この黒媛の子には
市辺押磐皇子のほかに、
・御馬皇子
・飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)
がいる。
先ほどのとおり、飯豊青皇女の両親は2通りの可能性がある。
この、飯豊青皇女について。
■飯豊青皇女とイラツメ
飯豊青皇女は忍海郎女(おしぬみのいらつめ)ともいう。
イラツメが入る。
イラツメは、具体的にはイランのイラであると考えられる。
アーリア人、である。
有明(アリアケ)も、このアーリア人が関連する土地から転じてできた言葉と思われる。
↓はイラツメについて考察した回
↓カルの名を追うと、ハシヒトやイラツメがペルシャ由来と推定される
飯豊の「いひとよ」は古語で、フクロウを表すという。
ギリシャ神話ではフクロウは女神アテナの使いとされる。
知恵や学問、芸術の象徴であるという。
また、飯豊青皇女は第22代・清寧天皇が崩御すると、一時的に政務を行ったとされる。
このため飯豊天皇とも呼ばれたという。
続いて市辺押磐皇子の母・黒媛に続いて、黒媛の父について。
■黒媛の父・葦田宿禰
黒媛は葦田宿禰の娘という。
この父・葦田宿禰の子には
・黒姫
・葛城蟻臣
がいる。
葛城蟻臣には蟻(アリ)が入る。
アーリア人のアリではないかと考えられる。
ここで、イラン、アーリアなどが関連用語としてつながってくるのである。
この蟻臣について。
■葛城蟻臣(かつらぎありのおみ)
葦田宿禰の子のうちの一人。
子に荑媛(ハエヒメ)がいる。
この荑媛は、市辺押磐皇子の妻となる。
ここまでの関係をまとめる。
■市辺押磐皇子を起点とした人物関係
市辺押磐皇子を起点とし関係を整理すると、
・市辺押磐皇子の名前:押歯→八重歯→ヤハエ
・市辺押磐皇子の妻:荑媛(ハエヒメ)
そして親子の関係に
・葦田宿禰
→ 葛城蟻臣(アリ)→ 荑(ハエ)媛
→ 黒姫 → 市辺押磐皇子(播磨国風土記で天皇)
→ 飯豊青皇女(忍海郎女・イラツメ、飯豊天皇)
という関係となる。
市辺押磐皇子と荑媛は結婚しているのだが、葦田宿禰からみて血統が近い(二親等の孫)。
そして市辺押磐皇子と荑媛の子が
・億計王(おけのみこ)
・弘計王(をけのみこ)
・飯豊青皇女(いいとよのひめみこ)
であるという。
子のうち3人が天皇となっている(飯豊青皇女が即位したかは問わない)。
飯豊青皇女の出自についてはもうひとつの可能性があるため両方の系統をまとめる。
・葛城蟻臣→荑媛→ 飯豊青皇女
そして、もうひとつでは葦田宿禰の父は葛城襲津彦とされるため、
となる。
いずれにしても葛城氏と関わりが深い。
ここで2つの調査が必要となる。
・ハエヒメは市辺押磐皇子の妻の荑媛のほか、もう2人いる
・億計王(おけのみこ)、弘計王(をけのみこ)
続いて、継体天皇の妻の蠅媛(ハエヒメ)について。
■継体天皇の妻の蠅媛
第26代・継体天皇の妻は複数いる。
まず、皇后は手白香皇女とされる。
夫人は尾張目子媛である。
メシヒメ、メシヤ(救世主)と関わる言葉から名づけたと推測される人物である。
↓は尾張目子媛について紹介した回
そして妃の一人が和珥臣河内の女の蠅媛(ハエヒメ)である。
継体天皇と蠅媛の間の子には、
・稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
・円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)
・厚皇子(あつのみこ、阿豆王)
がいるという。
↓は和邇氏族について紹介した回
そしてもう一人の、ハエヒメ、矢河枝比売について。
■矢河枝比売(やかわえひめ、やかはえひめ)
宮主宅媛(みやぬしやかひめ)、和珥日触使主女とも。
矢河枝比売は第15代・応神天皇の妃の一人である。
父は丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)。
応神天皇はしばらくしたのち、軍神・八幡神と称されるようになった。
この八幡・ヤハタは渡来していた秦氏などが信仰していた「ヤハエ」と同一と考える。
「やかはえひめ」の「か」の文字を抜くと「ヤハエ」となる。
ハエやヤハタはヤハエを意識した名前だろう。
↓は応神天皇と矢河枝比売
↓では5人のイラツコを紹介、応神と矢河枝比売の子の菟道稚郎子を取り上げた
ここまで、アーリア人の「アリ」、ハヤウェの「ハエ」が市辺押磐皇子を通じて、つながっている可能性が高いことを示した。
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<参考>
・黒媛 - Wikipedia
・蟻臣 - Wikipedia
・飯豊青皇女 - Wikipedia
・飯豊 - Wikipedia
483.市辺押磐皇子へと天皇のバトンを渡した白髪の清寧天皇
清寧天皇について。清寧天皇は天皇にまつわる物語上において「王家」と推測される「市辺押磐皇子」の子らの一族にバトンを渡すキーパーソンであると推測される。次の流れで紹介していく。
・清寧天皇
・星川皇子の乱と清寧天皇
・清寧天皇の即位前紀
・皇子がいなかった清寧天皇
・億計王、弘計王が播磨で発見される
・磐余甕栗宮(いわれみかくりぐう)
・白髪部と白壁
・手白髪郎女(手白香皇女)
・播磨国風土記・賀毛郡の志深の里(しじみのさと)
・玉丘古墳群
・玉丘古墳
・陪塚第1号墳と第2号墳
・クワンス塚古墳
・壇塔山(だんとうやま)古墳
・マンジュウ古墳
・笹塚古墳
まずは清寧天皇について。
■清寧天皇
第22代天皇とされる。
父は雄略天皇、第三皇子。
母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。
諱は白髪(しらか)である。
在位は短く、即位5年1月16日に崩御したという。
生まれながらにして白髪であったという。
そのエピソードなどから実在性を疑う説がみられる。
実在したとすれば、在位は480年~484年と考えられている。
なぜ白髪という何やら怪しげなエピソードを日本書紀は掲載したのか。
允恭を祖とする、このため、おそらくペルシャ系との混血であり、白い色素の髪が出たのではないか。
さらには、新羅・シルラとの関係も考えられる。
新羅周辺に秦韓国が存在した時期がある。
星川皇子こと星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)は生没年は生年不明~479年(雄略天皇23年)。
日本書紀で雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子とされる。
星川皇子の乱は推定479年(雄略天皇23年)、ヤマト王権側の白髪皇子と吉備をはじめとする星川皇子の勢力との戦いで、星川稚宮皇子が吉備上道臣一族の支援の元に、天皇亡き後の皇位継承をめぐって起こした政変とされる。
経緯として、天皇の妃の一人・吉備稚媛が子である星川皇子をそそのかし、「天下の位に登ろうとするなら、大蔵の官をおさえなさい」と言ったという。
そこで星川皇子は大蔵を占拠したとされる。
これに対し、大伴室屋・東漢直掬らが星川皇子、稚媛、吉備上道兄君、城丘前来目(き のおかさきのくめ)らを焼き殺したという。
この翌年の正月、清寧天皇は即位したとされる。
↓は七星剣と妙見信仰を紹介する中で星の名を持つ星川皇子の乱を取り上げた
星川の名を持つ人物に星河建彦宿禰がいる。
星川稚宮皇子は巨勢氏と関係があったものと推測される。
↓は仁徳天皇は巨勢氏の象徴であり、また星河(星川)とも関係があることを示した
続いて、清寧天皇の即位前の頃の話について。
■清寧天皇の即位前紀
その冬十月。
大伴室屋大連(おおともむろやのおおむらじ)が臣、連を率いて、璽(しるし、天子の印章、御璽(ぎょじ))を皇太子(清寧天皇)に奉った。
元年の春正月、壇上(たかみくら)を磐余の甕栗(みかくり)に設けて、即位した。
そして葛城韓姫を尊びて皇太夫人(おおきさき)とした。
大伴室屋大連を大連とし、平群真鳥大臣(へぐりのまとりおおおみ)をもって大臣とした。
この平群真鳥は仁賢天皇の崩御後に、自ら大王になろうとしたされる。
しかし不満を抱く大伴金村が後の武烈天皇・小泊瀬稚鷦鷯尊の命令により、平群真鳥、真鳥の子の平群鮪(へぐりのしび)を討ったという。
さらには平群一族を皆殺しにしたされる。
平群一族は古代イスラエル人の末裔と考えられるため、この頃何かあったと考えられるだろう。
↓は平群真鳥の父の平群木菟についての考察回、平群氏はユダヤ人であったと推定される
↓は平群木菟と大鷦鷯天皇の名前交換エピソードについて考察した回
■皇子がいなかった清寧天皇
清寧天皇の崩御後、顕宗天皇が即位するまでの間は飯豊青皇女が執政したという。
のち、顕宗天皇が即位したとされる。
平群木菟(へぐりのつく)のツク・木菟(みみずく)はフクロウ科の鳥。
飯豊青皇女はの飯豊はフクロウの古語、「いひとよ」とされる。
フクロウは、ギリシャ神話の知恵の女神・アテナの聖鳥とされる。
また、飯豊青皇女には「青」が入る。
青は知性を表すともされる。
このあたりにギリシャ系の知識が入っていることになる。
おそらく、アレキサンドロス大王の東征以後、インドにギリシャ系の知識が入り、やがて中国・秦の始皇帝の兵馬俑の美術系の監督者もその子孫だろうから、日本にもさらにこの中国を経由した子孫が一部渡来していたのではないか。
雄略天皇が信頼した二人の部下に、身狭村主青と檜隈民使博徳がいる。
日本書紀では、雄略は即位8年、身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉(宋)に派遣したとされる。
↓は身狭村主青、檜隈民使博徳が登場した回
shinnihon.hatenablog.com
↓は身狭村主青、檜隈民使博徳が帰国したときの回
■億計王、弘計王が播磨で発見される
清寧天皇即位2年冬十一月、億計王(後の第24代・仁賢天皇)、弘計王(後の第23代・顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見される。
三年の春正月、伊予来目小楯(いよのくめべのおだて)らが億計、弘計を奉(あがめたてまつ)りて、摂津国(つのくに)に至った。そして臣(おみ)・連(むらじ)をして、節(しるし)を持ちて、王(みこ)の青蓋車(みくるま)をもって、宮中に迎え入れたとされる。
ちなみに、スメラノミコトは人物ではなく、乗り物を指していることもある。
■磐余甕栗宮(いわれみかくりぐう)
清寧天皇が執政を行ったのは磐余甕栗宮とされる。
御厨子神社(みずしじんじゃ)、奈良県橿原市東池尻町のあたりが磐余甕栗宮伝承地とされる。
しかし、甕栗宮(みかくりぐう)の甕栗(みかくり)は、億計王、弘計王の身隠し(みがくし)と関連して名付けられ、言葉を変化させたものではないかと推測する。
つまり、ミガクシ→ミカクリである。
■白髪部と白壁
清寧天皇の諱は白髪である。
また、古代の部(名代)の一つに白髪部(しらがべ)がある。
二年の春二月(きさらぎ)のこと。
天皇(すめらみこと)が子(みこ)が無いことを恨んで、大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)を諸国(くにぐに)に遣わした。
そして、
・白髪部舎人(しらかべのとねり)
・白髪部膳夫(しらかべのかしはで)
・白髪部靫負(しらかべのゆげひ)
を置いたという。
さらに清寧天皇よりのちの天皇に第49代・光仁天皇、在位(770年~781年)がいる。
光仁天皇は天智天皇の第7皇子である施基親王(志貴皇子)の第6皇子にあたる。
諱は白壁である。
白髪部は白壁と同じであるとみてよいと思われる。
例えば、古墳において、牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん、八角墳)の外壁は白い凝灰岩(ぎょうかいがん)で覆われている(現在、復元されている)。
さらには埴輪において、国宝である「挂甲の武人」の埴輪は白かったことが判明している。
ゆえに、白髪部は白い壁を示し、古墳などの外壁を担当していた名代や部が存在してたことを示すと推測できる。
↓は牽牛子塚古墳について取り上げた回
↓は6角墳、8角墳を築造の年代順に並べた回、牽牛子塚古墳が登場
続いて、「白髪」に関連し、同じく古事記で「白髪」の入る人物、手白髪郎女(手白香皇女)をみていく。
■手白髪郎女(手白香皇女)
古事記で手白髪郎女と「白髪」が入る。
日本書紀では手白香皇女と「白香」となる。
とする。
この手白香皇女は継体天皇の皇后である。
↓は手白香皇女が登場した回
播磨国風土記・賀毛郡の玉野の村にて、二人のオケの名がみえる。
意祁(仁賢天皇)、袁祁(顕宗天皇)の皇子たちが美囊の郡(みなぎのこおり)志深の里(しじみのさと)の高宮にいたとき。
山部小楯(やまべのおたて)を遣わし、国造(くにのみやつこ)許麻(こま)の女(むすめ)・根日女命(ねひめのみこと)に求婚する。
根日女命は言葉通りに従ったが、二人は譲り合って辞退した。
日が立って、根日女命は年老いて亡くなったという。
皇子たちは悲しみ、小楯を遣わして、勅して言った。
「朝夕に日の隠ろはぬ地に、墓を造り、その骨を蔵め、玉をもって墓を飾れ」。
ゆえ、この墓を玉丘と名付け、その村を玉野と名付けたという。
この玉丘について。
↓はgooglemap、玉丘町
10基ほどから成るという。
・玉丘古墳
・陪塚第1号墳
・陪塚第2号墳
・クワンス塚古墳
・壇塔山古墳
・マンジュウ古墳
・笹塚古墳
などがあるという。
■玉丘古墳
大きさは全長約109m。
築造は古墳時代中期。
古墳時代中期はおよそ5世紀と考えられている。
形状は前方後円墳で墳丘は3段築成。
墳丘周囲に幅約20mの周濠がある。
出土遺物に家形埴輪、鶏形埴輪、そして円筒埴輪が多数出土しているという。
播磨国風土記・賀毛郡、根日女悲恋伝承の舞台と考えられている。
古墳時代は、西暦250年頃に端を発する、主に朝鮮半島からの大陸からの移民の渡来期でもあるといえる。
■陪塚第1号墳と第2号墳
陪塚第1号墳は
大きさ:径約25m
形状:円墳とされるが、前方後円墳とする説
周濠:改変が激しいが周濠があったものとみられる
陪塚第2号墳は
築造年代:古墳時代中期とされる
位置:玉丘古墳をはさんだ西と東の対の位置にある
大きさ:一辺長約24m
形状:方墳
周濠:幅約4mの溝を持つ周濠がある
出土物:周濠から埴輪と凝灰岩片が出土している
■クワンス塚古墳
大きさは径約35m
形状は円墳
築造は古墳時代中期
墳丘に方形の造出し部が付くという
墳頂に、割竹形木棺を納めたと考えられる竪穴式石槨が残る
副葬品の大半はなくなったものと考えられいるが、
・三角板革綴じ短甲
・剣
・直刀
・鉾等の武具
・斧
造出し部から
土器類として
・鶏形埴輪等の形象埴輪
土製品として
・杵形
・突起付棒形
・棒形
・円盤形
・籠目形
などが出土しているという。
■壇塔山(だんとうやま)古墳
大きさ:径約17m
形状:円墳
築造年代:古墳時代中期
周溝:幅約3mの周溝がある
出土遺物:埴輪片が周溝から出ている
■マンジュウ古墳
大きさ:墳丘長約46m
形状:帆立貝式古墳だが、墳丘の大部分が削られている
築造年代:古墳時代中期
南側のくびれ部に造出し部があるという
周濠:幅10m前後の周濠、周庭帯が残るという
古墳の周囲に一辺長約10m方墳、径約24mの円墳が存在していたという
■笹塚古墳
大きさ:全長約51m
形状:帆立貝式墳
築造年代:古墳時代後期
竪穴式石槨:削られた墳丘の頂上に竪穴式石槨が露頭しており、天井石等が落下しているという
造出し:墳丘裾に方形の造出し部が設けられていたが削られており、その形がわずかに残る程度であるという
周濠:幅約10mの周濠がある
出土:周濠の埋土から円筒埴輪片、人物形象埴輪がある。
別回にて、市辺押磐皇子を紹介する。
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<参考>
・清寧天皇 - Wikipedia
・飯豊青皇女 - Wikipedia
・白髪部 - Wikipedia
・光仁天皇 - Wikipedia
・玉丘古墳群 - Wikipedia
・古墳について 玉丘史跡公園-玉丘古墳,クワンス塚古墳,陪塚第1号墳・第2号墳,壇塔山古墳,愛染古墳,実盛塚古墳
482.イドとイト~倭奴、伊都国、奴国、そして伊奴~
古代日本におけるイドとイトについて。次の流れで紹介していく。
・漢委奴国王の金印と「委奴」
・伊都国
・意富臣と多氏
・奴国
・委とユダニツク
・倭奴国とは何か
・志賀島
・志賀海神社と山誉め祭と君が代
・伊奴神社(いぬじんじゃ)
・和同開珎
・ユダヤ人は日本にいたか
・聖神社とムカデ
・ムカデと阿曇氏
■漢委奴国王の金印と「委奴」
西暦57年、後漢の光武帝から倭の奴国王に金印を授かったとされる。
この金印が発見されたのは志賀島(福岡県福岡市東区)。
江戸時代に、農民が地面を掘っていたら金印が出てきたとされる。
一般的に委奴は「ワのナコク」とされる。
倭が委とされるのは略字という。
↓漢委奴国王の印について扱った回
一方で、「委奴」はイド、ワドなどとも読める。
委奴は伊都国とも近い言葉である。
何かしらの関連性が感じられる。
今回は、古代におけるイトに関連した勢力の歴史の変遷をつないでいくこととする。
まず、伊都国や奴国は次のエリアとされる。
■伊都国
現在の糸島市を中心とした地域に存在した国、糸島市の三雲・井原遺跡が中心。
三雲南小路遺跡から、奴国の須玖岡本遺跡と同様に多数の鏡(前漢鏡)などの優れた副葬品を持つ甕棺墓が発見されている。
三雲南小路遺跡の所在は福岡県前原市。
伊都国の王都が三雲南小路遺跡・井原遺跡一帯であったと推定されており、その三雲南小路遺跡にて剣が出土している。
↓は三雲南小路遺跡など、把頭飾付有柄青銅剣が出土した遺跡を紹介した回
↓は個人墓、特定集団墓への変化に関し、奴国と伊都国の違いを扱った回
■意富臣と多氏
古代の氏族に意富臣(おおのおみ)がいる。
古事記では神八井耳命を祖とする19氏の中の1氏族が「意富臣」である。
ほか、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥石城国造、常道仲国造、長狭国造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣らがいる。
太安万侶は多氏と考えられている。
多氏も神八井耳命を祖とする。
多氏はヤマトタケルの東征前後で、全国各地に散っていったのではないか。
↓は巨勢氏と雀(サザキ)を取り上げた回で意富臣、多氏が登場した
■奴国
奴国は福岡平野にあった国、春日市にある須玖遺跡が中心。
須玖岡本遺跡から、鏡(前漢鏡)が30面前後出土した甕棺墓が発見され、奴国の「王墓」があったとされる。
須玖岡本遺跡・岡本地区の2016年の調査では、
弥生時代中期前半(紀元前150年頃)の甕棺墓(かめかんぼ)から
・銅剣
・青銅製把頭飾(はとうしょく)
が出土した。
把頭飾とは銅剣につける飾りである。
甕棺墓の大きさは縦5.2m、横3.9m。
銅剣は中細型銅剣1点、大きさは長さ42cm、幅は5cm。
青銅製把頭飾は1点、大きさは高さ4.5cm、幅は5.5cm前後。
遺物周辺には水銀朱が見られたとされる。
甕棺墓は国内最大級の大きさとされる。
また福岡平野の奴国域での青銅製の把頭飾が出土したのは初めてとされる。
↓は須玖岡本遺跡を紹介した回
■委とユダニツク
委奴(わのぬこく)の「委」は委ねるの「ユダ」とも考えられる。
そして委奴の音読みはイドとも読める。
日本書紀、雄略期の記述によれば「ユダニツク」という言葉が存在していた。
委ねるの語源と考えられる。
そして、委ねるには「ユダ」が入る言葉である。
おそらく、ユダヤ人がテクノクラートであった時代があり、日本の歴史の中に中枢勢力がユダヤ人に任せていたことがあったことが想定される。
↓古語のユダニツクについて語源を推測した回
倭奴と奴国は区別が必要である。
地域としては異なる。
■倭奴国とは何か
倭奴、奴国とは。
まず倭奴国の本拠地はどこか。
それは、以外にも鹿児島である。
南端に日本として最も初期の王朝のようなものがあった。
唐書の通典倭伝に、倭国の最南端であることが示される。
地理的に鹿児島以外には考えにくいためだ。
鹿児島が本拠地であり、朝鮮半島に向かう北端が伊都、奴国などであったのだろう。
↓は倭奴国が鹿児島にあったことを紹介した回
そして倭奴国(鹿児島)から奴国経由にて、57年に後漢の光武帝に遣使したのではないかと考えられる。
南九州の王朝が精力的に優位であったものが、倭国大乱(中国の霊帝の在位中、168年~189年頃とされる)によって衰退したものと推測される。
そして、これにより阿蘇付近のヤマト国が台頭。
30余国をまとめるに至り、その地盤を継いだのがヒムカ(ヒミコ、日向とも)のヤマト国と考えられる。
30余国をまとめるにあたっては、卑弥呼(ヒムカ)が直接行ったのではなく、先代の男王たちが戦によって国々をまとめ、それを卑弥呼が引き継いだのだろう。
そして渡来人たちも女王の卑弥呼に従い、国が治まったものと考えられる。
ところで、南九州の王朝は、アメノミナカヌシ(この名前は神格化されているとみる)を始まりとする王朝である。
新唐書日本伝でも阿毎氏(あまし)、天御中主を始まりとすることが記述されている。
なお、魏志倭人伝、卑弥呼の時代には奴国が北部九州に2つある。
一大率の置かれた伊都国付近の国の近隣国とみてよいはずである。
これは上述の福岡平野にあった国、春日市にある須玖遺跡が中心のエリアを指すと思われる。
九州の王朝の属国であった伊都国、委奴国のうち、少なくとも伊都国がヤマト国に従うようになったのが100年代後半から200年代の前半と考えられる。
続いて、委奴国の文字の記された金印が発見された志賀島とは。
■志賀島
先述の通りで、57年の遣使によるものとされる金印は志賀島(福岡県福岡市東区)から見つかっている。
祭神は「綿津見三神(わたつみさんしん)」。
綿津見三神は
・左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
・中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
・右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
とされる。
この綿津見三神は長崎県対馬の和田都見神社でも祀られている。
和田都見神社には三柱鳥居があり、これが磯良恵比須(イソラエビス)とされる。
イスラエルを想起する名前である。
エビスはエルと同等であったと推定される。
よって、イソラエビスはイスラエルを示すと考えられる。
↓は和田都見神社と磯良恵比須について紹介した回
↓はエビスとエルが同じ言葉であることを証明した回
志賀海神社の境内、鹿角堂(ろっかくどう)には1万本以上ともいわれる鹿の角が奉納されている。
その膨大な数からして「鹿」と強い関りがあることがわかる。
↓志賀海神社とシカについて取り上げた回
■志賀海神社と山誉め祭と君が代
日本の国家、君が代は志賀海神社の山誉め祭りの祝詞の一部が採用されている。
この祝詞は安曇族のものであるという。
よって阿曇磯良(あづみのいそら、安曇磯良)、そして、後に示す阿曇連百足(あづみのむらじももたり)とも関連があると考えられる。
↓は山誉め祭について取り上げた回
愛知には、ヤマトタケル東征後、一部の民族が移動したと考えられる。
熱田神宮が三種の神器のひとつの草薙神剣を持っていたり、最古の古事記が見つかっている大須観音などがあり、何かと日本の古来に関わるのはこのためと考えられる。
そのような中で、出雲と愛知の接点について。
■伊奴神社(いぬじんじゃ)
現在、愛知県、島根県に伊奴神社がある。
まず愛知県にある伊奴神社について。
所在は名古屋市西区稲生町。
三種の神器のひとつ草薙の剣があるとされる熱田神宮からは10.4kmほどの距離。
延喜式神名帳(927年にまとめられた)に山田郡伊奴神社とあり、また、尾張本国帳(平安末期・12世紀頃)で従三位伊奴神社とあるという。
創建は西暦673年、天武天皇の時代とされる。
この673年は天武天皇が即位した年である。
名古屋でとれた稲を皇室に献上した際に建立されたと伝わっているという。
古事記では大年神(おおとしのかみ)と伊奴姫神(いぬひめのかみ、伊怒とも。神活須毘神の娘。)に五神が生まれる。
大年神に生まれた五神とは
稲生町は「いのうちょう」と読む。
伊奴がイヌと読むことを嫌って稲生町としたとする説がある。
実際は、伊奴がイド、イトと関連することを嫌って稲生町と好字をあてたのではないか。
伊奴神社は平安時代は12社あったとされる。
島根県出雲市にも伊奴神社がある。
こちらの神社の祭神は
・赤衾伊努大住比子佐倭氣命(あかぶすまいぬおほすみひこさわけのみこと)
である。
赤衾伊努大住の「大住」は鹿児島の大隅だろうか。
倭奴(鹿児島)と伊都国、奴国をつなぐ接点とも考えられるだろうか。
続いて、日本の古代の貨幣とのつながりについて。
■和同開珎
708年6月3日から鋳造・発行されたと推定される銭貨である。
和同開珎は、なんと読むかに議論がある。
・わどうかいちん
・わどうかいほう
とも。
現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にぎあかがね)が産出したという。
これによって元号を「和銅」に改元、和同開珎がつくられたという。
続日本紀にて、
・和銅元年5月11日(708年6月3日)には銀銭の発行
・和銅元年7月26日(708年8月16日)には銅銭の鋳造が開始
・和銅元年8月10日(708年8月29日)に発行
されたという。
621年に発行された唐の開元通寳(かいげんつうほう)を模したもので、書体も同じという。
オリジナルの開元通寳が「かいげんつうほう」と読むため、和同開珎は「わどうかいほう」と読んだだろうか。
貨幣の鋳造技術を誰がもっていたか。
おそらく中国を経由して渡来したユダヤ人だろう。
中国の開封市に、漢王朝時代(紀元前206年-紀元後220年)にユダヤ人がインドからやって来たことが「重建清真寺記碑」より判明している。
ここからは推測となる。
日本の貨幣の「和同開珎」は倭奴(ワド、イド)と開珎(かいほう、かいふう)の音韻が入る。
音韻、および技術面からして和同開珎の発行にはユダヤ人の協力があったものと考えられる。
貨幣経済などなかった日本にそれをつくろうとしたということは、貨幣経済のメリットを知っている民族がそれを創設したとするのが妥当だろう。
具体的には日本の元号の和銅、そして和同開珎はこれらの勢力とも関りがあるのではないか。
和同開珎の開珎が「カイチン」「カイホウ」いずれであったとしても、開封市の開封と通じるところがある。
■ユダヤ人は日本にいたか
ユダヤ人はこの頃、日本にいたか。
千葉・芝山古墳からはユダヤ人の風貌をした「人物埴輪」が出土している。
はっきりとは不明だが、秩父と比較的近い日高市は、以下のような事実がある。
まず埼玉は白村江の戦い以後、日高市にて高句麗、新座市にて新羅を受け入れた国であった。
なお芝山古墳群は6世紀後半、なので500年代後半。
和同開珎は708年のこと。
↓は芝山古墳について取り上げた回
↓ミズラはミズラヒムが語源と考えられる
■聖神社とムカデ
そして日高市の日高は日高見国の日高でもある。
茨城の日高見国と埼玉の日高にも、少なくとも民族的になんらかの関係はあったものと思われる。
↓茨城県に日高見国があり、古代ユダヤ人の関与もあったと考えられる
和同遺跡の近くに聖神社がある。
御神宝に、
・創建当時に採掘された和銅石13個(神社に現存するのは大小2個)
・元明天皇から下賜された銅製の蜈蚣(百足)雌雄一対
が現在に伝えられているという。
百足(ムカデ)が下賜されているところが非常に特徴的である。
■ムカデと阿曇氏
ムカデ(百足)といえば、阿曇連百足(あづみのむらじももたり)がいる。
阿曇氏は日本に渡来していたユダヤ人と推測され、百足・モモタリからもユダヤ人との接点が推測されるのである。
↓は安曇とは何かを検証、古代に渡来したユダヤ人の末裔と推定した
以上、倭奴、伊都、伊奴の音韻のつながりによる歴史が存在する。
そしてそれらをつなぐ民族はユダヤ人と関連していくことを示した。
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<参考>
・志賀島 - Wikipedia
・阿曇磯良 - Wikipedia
・伊奴神社 - Wikipedia
・年神 - Wikipedia
・百足足尼命 - Wikipedia
481.五十のつく人物名と邪馬台国と伊都国のつながりを示す五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
日本書紀によれば伊都国はかつてイソ国と呼ばれていたという。そしてこのイソ国は、古代ユダヤ人が渡来していものと考えられる。ここでは、伊都国とイソの音韻の接点となる、五十(イソ)の名前のつく古代の人物を取り上げる。次の流れで紹介していく。
・犬養五十君(いぬかいのいきみ)
・崇神天皇(すじんてんのう)・御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりびこいにえのすめらみこと)
・垂仁天皇・活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)
・五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
・五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)
・伊都国と王
・ヤマト国と伊都国との関係に関する考察
・吉備津彦命・彦五十狭芹彦命
・彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
・五十日真黒人(いかがまくろうど)
■犬養五十君(いぬかいのいきみ)
犬養五十君は、飛鳥時代の人物。
壬申の乱(672年)において大友皇子(弘文天皇)の将として活躍した。
しかし乱に敗れ、殺されたという。
過去記事にて、伊都国がイソ国であり、イソは古代イスラエルを示すことを検証、犬養五十君が登場した。
↓は伊都国がイソ国であることを紹介した回
犬養五十君を遡ると、つぎの人物がみられる。
■崇神天皇(すじんてんのう)・御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりびこいにえのすめらみこと)
第10代天皇。
諱は御間城尊(ミマキノミコト)。
日本書紀で御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。
欠史八代ののちの、実在性のある人物と考えられている。
紀元前148年~紀元前30年の人物と設定されている。
ただし実在なら、3世紀後半から4世紀前半頃の人物と推定されている。
崇神天皇の父は開化天皇である。
一方、母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。
伊香色謎命は物部氏の遠祖、大綜麻杵命(おおへそき)の娘。
また御間城尊の異父の兄に「彦太忍信命(磐之媛の祖)」がいる。
崇神(すじん)天皇は日本書紀で御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)とも。
このハツクニシラススメラミコトと設定される人物はもう一人おり、それが初代・神武天皇である。
なぜハツクニシラススメラミコトが2人いるのか。
神武天皇という人格は不在だが、実際は天之御中主之神(紀元前800年頃、鹿児島出身)とヤマトタケル(紀元前2世紀後半~3世紀、推定で熊本出身)を混成した人格と史実とされる。
崇神天皇は、名前から推測すれば、任那から来たのかもしれない。
↓は崇神天皇について取り上げた回
■垂仁天皇・活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)
第11代天皇。
日本書紀で活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)と「五十」が入る。
五十狭茅でイサチであるが、五十をイソと読めば、イソサチとなり、海幸、山幸の海幸と同じ名前となる。
日本書紀の垂仁二年是歳・都怒我阿羅斯等では、伊都都比古(いつつひこ)が登場、次のエピソードがある。
穴門(あなと、長門国の西南部の古称。関門海峡付近と考えられる)に至る時。
その国に人がいた。
名は伊都都比古(いつつひこ)。
伊都都比古はいう。
吾(われ)はこの国の王(きみ)なり。
吾をおいてふたりの王はいない。
ゆえに他のところに行きなさい。
しかしその人となりをみるに王ではないと知った。
そして出雲の国を経て、ここに至った。
このとき崇神天皇(すじんてんのう、みまきいりびこ)の崩御にあった。
そして活目天皇(いくめのすめらみこと、垂仁)に仕えて三年(みとせ)に逮(な)ったという。
伊都都比古は長門(山口)にいたものの、伊都国(イト国)由来の人物の象徴ではないかと推測する。
↓は垂仁天皇について紹介した回、伊都都比古が登場
都怒我阿羅斯等・ツヌガアラシトは日本書紀の原文をたどると「額角有人」。
額に角が有る人で、ヒラクリティをつけた人物と推測される。
↓古事記の建平鳥(タケヒラトリ)を解読し、ヒラクテリ(ヒラクリティ)との関連を示した回
■五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
第11代・垂仁天皇の皇子。
古事記で
・印色入日子命
とされる。
日本書紀、垂仁記天皇・39年で五十瓊敷命が茅渟(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)にいて1000本の剣をつくったとされる。
垂仁天皇には皇后が二人いる。
前の皇后が狭穂姫命。
後の皇后が日葉酢媛命である。
この後の皇后である日葉酢媛命と垂仁天皇の子が
・五十瓊敷入彦命
・景行天皇(大足彦忍代別尊・おおたらしひこおしろわけのみこと)
・倭姫命
らである。
五十瓊敷入彦(イニシキイリヒコ)は読み方を替えるとどうなるか。
五十でイソ・イト、瓊敷はニシキだとすると
糸・錦となる。
イソ、イト、伊都とのつながりを示すものとも考えられる。
■五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)
第11代・垂仁天皇の皇子。
石田君らの祖とされる人物。
古事記で五十日帯日子王(いかたらしひこのみこ)。
母は、日本書紀では苅幡戸辺の子とされ、古事記では苅羽田刀弁の子とされる。
五十日足彦命からみて、その家系は
・祖父が御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)で崇神天皇
・父が活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコイサチ)で垂仁天皇
そして、
・五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)
と続いていることになる。
■伊都国と王
魏志倭人伝において、伊都国に関する記述がある。
代々、王がいた場所とされる。
主な内容を列挙すると、
・伊都国の場所:末廬國から東南へ陸を500里
・長官:爾支(にし、じき)
・副官:泄謨觚(せつもこ、せつぼこ、せもこ)、柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ、へくこ)
・家:1000余戸
・代々、王がいた
・皆女王国に従属
・帯方郡の使者が往来した際に足を止める所
という。
■ヤマト国と伊都国との関係に関する考察
五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の系統から景行天皇が生まれ、そしてヤマトタケルの誕生へとつながる。
ヤマトタケルは九州、熊本にあったと推定されるヤマト国の人物。
ヤマトタケルには当然、父がいる。
その人物に設定されているのが景行天皇(大足彦尊、大帯日子淤斯呂和氣天皇とも)である。
この景行天皇の頃からイリ(五十系)系から、タラシ(足、帯)に転じる。
そのタラシに転じるのは、五十日足彦命の頃からみられる。
・五十日足彦命:別名が五十日帯日子王
・景行天皇:大足彦尊、大帯日子淤斯呂和氣
・成務天皇:稚足彦尊、若帯日子天皇
・仲哀天皇:足仲彦尊、帯中日子天皇
・神功皇后:大足姫命、息長帯比売命
などと、それぞれに足や帯の名前や別名がある。
魏志倭人伝では伊都国が邪馬台国(実際はヤマト国)に代々従っていた記述がある。
ある段階でヤマト国と伊都国に婚姻関係が結ばれているのだろう。
以上、文献上においてヤマト国と伊都国との関係性がみられるのは、特に、垂仁天皇と日葉酢媛命の子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の関係である。
この「五十」を示す系統は伊都国を示す王統を示す子孫の系統だろう。
「五十」はさらに遡ることができるだろうか。
■吉備津彦命・彦五十狭芹彦命
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は
第7代・孝霊天皇の皇子。
四道将軍の1人。
四道と四道将軍の関係は次の通り。
・北陸:大彦命
・西道:吉備津彦命
・丹波:丹波道主命
・東海:武渟川別
この西道に派遣されたのが吉備津彦命とされる。
↓は四道将軍について取り上げた回
吉備津彦命の名前は、
日本書紀で
・彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)
・吉備津彦命(きびつひこのみこと)
古事記で
・比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)
・大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
とされる。
彦五十狭芹彦命・ヒコイセサリヒコに、「五十」の名前が入る。
垂仁天皇・活目入彦五十狭茅にも、「五十狭茅」でイサチ、イソサチがみられ、この吉備津彦の五十狭芹(イサセリ)、イソセリは類似する。
イソとイトが同じであったとすれば、次に示す彦五瀬命も関連があるものと推測される。
■彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
神武東征に従軍、その際に賊の矢にあたって薨じたという。
父は鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)、母は玉依姫(タマヨリビメ)。
長男で、神武天皇は弟とされる。
↓古代の3女神を取り上げ、玉依姫や彦五瀬を紹介した回
神武天皇は紀元前800年頃の天之御中主と西暦300年頃のヤマトタケルの人格や史実の合成とされる。
3人とも海神系。
弟橘姫はヤマトタケルの妻、走水で入水し、海を鎮め、ヤマトタケルらを救った人物。
この彦五瀬命が神武東征に従っているとされるので、実際はヤマトタケルの東征に参加した人物の象徴である可能性も。
なお、和歌山市の三社参りのひとつ、竈山神社は彦五瀬命と関りがみられる。
■五十日真黒人(いかがまくろうど)
五十日足彦の子孫とされる人物。
丹哥府志(たんかふし)・江戸時代後期に編纂された丹後国の地誌などで、五十日真黒人が登場するという。
五十日真黒人は丹波国・与謝郡・三重郷の長者で、現在の京丹後市大宮町五十河(いかが)に居住したいう。
市辺押磐皇子の子の億計(仁賢天皇)、弘計(顕宗天皇)を匿ったとされる人物。
五十日真黒人と億計、弘計の関係については別回にて。
↓はgooglemap、大宮町五十河(いかが)
以上、イトとイソ、そして五十のつながりを追った。
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<参考>
・犬養五十君 - Wikipedia
・崇神天皇 - Wikipedia
・垂仁天皇 - Wikipedia
・五十瓊敷入彦命 - Wikipedia
・五十日足彦命 - Wikipedia
・吉備津彦命 - Wikipedia
・伊都国 - Wikipedia
・仲哀天皇 - Wikipedia
・神功皇后 - Wikipedia
・彦五瀬命 - Wikipedia
S07.現代日本
現代における日本について。経済などの仕組みはどのような状況になっているだろうか。過去記事からリンク集として、次の流れでまとめた。
・WTOが停滞しTPPなどの地域的な経済連携が進んだ
・クアッドとは何か
・日本とイギリスの準軍事同盟「円滑化協定」とは
・サラリーマンの納税制度の仕組みと消費税と法人税のトレードオフ
・東証プライム、スタンダード、グロースの違いと資産所得倍増プラン
・巨大IT企業の租税回避とデジタル課税
・国債発行によって民間にお金が回る仕組み
・クルマのEV化はいつか来た道、銀行のバーゼル規制の再来か
・日本のスゴイところ新10選
・日本は農業大国、自給率の低さは計算式にカラクリあり
・日本は超内需大国、米国の株価やドルの影響を大きく受けるのは不思議な話
・情報機関、インテリジェンスとは何か
・特定秘密保護法とファイブアイズ
・政治資金収支報告書であの議員が誰からお金をもらったかがわかる
・ウクライナ難民の受け入れと日本の移民政策
・子供の行方不明者の多い日本、こども家庭庁の創設は関連している!?
・国家予算の議論と防衛費増額のタイミング
・慣性の法則ともいえる対米従属と戦った鳩山総理と安倍総理
・図解でわかる世論構築の構図~周辺諸国、ポリティカルコンパスも考慮して~
貿易関連の機関としては既にWTOがある。しかしそのうえで、さらになぜTPPが始まったのだろうか。WTOの問題点、そしてTPPとは何か。自由貿易や経済連携に関する協定について、GATT、WTOの歴史をふまえたうえでTPPのはじまりについて取りあげる。
■クアッドとは何か
クアッド(Quad)とは日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国が安全保障などで協力する枠組みのことである。このクアッドについて、マラッカ海峡など地理的要因や、参加各国の中国との衝突の状況をふまえて取りあげる。
■日本とイギリスの準軍事同盟「円滑化協定」とは
2023年1月11日に英国を訪問した岸田首相はリシ・スナク英国首相との間で「日英部隊間協力円滑化協定」への署名を行った。「日英同盟」とは異なるのであるが、では円滑化協定は同盟とはどこが違うのだろうか?
■サラリーマンの納税制度の仕組みと消費税と法人税のトレードオフ
納税制度の仕組みについて。権力の変遷を古墳時代からのはじまって取り上げ、さらに現代においては消費税と法人税のトレードオフの関係を示す。資産形成のポジションについても触れる。
■東証プライム、スタンダード、グロースの違いと資産所得倍増プラン
東京証券取引所の制度が変わり、何だかよくわらなくなってしまった人も多いのではないか。何が変わったのか、プライム、スタンダード、グロースの違いを紹介。またideco、NISA、積み立てNISAの違い、そして岸田政権時に発表のあった「資産所得倍増プラン」とは何かを取りあげる。
■巨大IT企業の租税回避とデジタル課税
巨大IT企業が租税回避行動取ろうとし、それに対してデジタル課税をかけようとする動きがある。巨大IT企業の問題点と、デジタル課税ルールがつくられるまでを追う。
■国債発行によって民間にお金が回る仕組み
原油価格の高騰問題などもあり貿易赤字に転落した日本。しかし原則は経常的な貿易黒字国である。また消費においても節約志向、浪費しない国民性であり2000兆円でうち半分が預金として眠っているというが、豊かにならないのはなぜなのだろか。また、消費税と法人税、法人税率の設定が各国水準にあわせていることを取りあげる。
■クルマのEV化はいつか来た道、銀行のバーゼル規制の再来か
かつて1989年のバブル崩壊寸前、日本は世界ナンバーワンの経済大国であった。このとき、いったい何が起きていたのか。また、現在ではクルマの電気自動車化が進んでいるが、推進しすぎるとどのような影響が起きてしまうのか。ビジネス、スポーツにおけるルールチェンジについて取り上げることで理解をより深める。
■日本のスゴイところ新10選
日本はすでに世界がうらやむ実力をもっている。だが、日本人は「自国」への評価が低くそれには気づかない。これに気づくためには自国への認識、自国への評価が変わる必要がある。このため、日本の他国と比較しながら「自国」がどのような特徴を持つかを知る。
■日本は農業大国、自給率の低さは計算式にカラクリあり
日本は食料自給率が低いと言われている。しかし、これは疑問だ。自給率が低いのならスーパーの精肉や野菜コーナーは外国産だらけのはず。このギャップは何からきているのか。実は、計算式にカラクリがある。自給率をカロリーベース、生産額ベースでの数値の違いから示し、このカラクリを解説する。
参考:浅川芳裕氏の著書「日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率」をベースとする
■日本は超内需大国、米国の株価やドルの影響を大きく受けるのは不思議な話
日本の株価はアメリカなど海外需要の影響を受けて株価が大きく影響を受けてしまう。しかし、ほんとうに日本経済は海外需要に依存しているのか。日本は超内需大国であることを数値から検証、株価やドルなど金融によって大きく影響を受けてしまうのは不思議なことであることを示す。
■情報機関、インテリジェンスとは何か
近年の戦争は単なる物理的な攻撃ではなく情報戦となっている。国家は安全保障のため情報を収集、分析して首脳部に報告する機関を持ち、「インテリジェンス」と呼ばれる。各国の情報組織、情報にはどのような種類があるかを取りあげながら、日本の情報組織についても触れる。
■特定秘密保護法とファイブアイズ
日本は安全保障上の機密を共有して欲しいため、ファイブアイズ入りを目指している。このため法整備などを進めているが、セキュリティ対策、スパイ活動に対する警戒の意識が追いつかない。ここでは「ファイブアイズ」「特定秘密保護法」を取りあげる。
■政治資金収支報告書であの議員が誰からお金をもらったかがわかる
政治家の意見はその人自身の意見だろうか。所属する政党の意見、支援者や投票してくれる人、支持を集められそうな人の意見、そして、「政治資金を援助してくれる人」の意見というものがある。いわゆる「カネの流れ」を追うことで、どのような考えや人脈からの影響を持つ議員かがわかる。そこで、政治資金収支報告書、その調べ方を紹介する。
■ウクライナ難民の受け入れと日本の移民政策
2022年、日本はウクライナの避難民の受け入れを行った。あわせて日本の移民政策に関連する2019年の改正入管法にできた制度、在留資格「特定技能」を取り上げる。さらに難民、移民、不法移民、あわせて在日や帰化、永住の違いを取りあげ、それぞれの違いを知る。
■子供の行方不明者の多い日本、こども家庭庁の創設は関連している!?
日本は子供の行方不明者が多い。その理由には様々な理由があるが、一番怖いのは犯罪に巻き込まれてしまうこと。さらに、とある一連の事件に関連し、こども家庭庁の創設目的について調べた。表向きは何の関係もみられないのではあるが。
※一部個人の基づく私見およびその推測を含みます
■国家予算の議論と防衛費増額のタイミング
防衛費の増額の議論について。関連する国家予算案作成の流れを取り上げ、予算や財源に関する議論がいつ行われているかを把握することで、その決定のされ方がわかる。
■慣性の法則ともいえる対米従属と戦った鳩山総理と安倍総理
日本の総理・政権は独自路線をとるのか対米従属を行うかによって長期政権となるのか、短命に終わるかが決まってくるという。なぜ独自路線だと短命に終わるのか。また、対米従属路線に対して鳩山総理や安倍総理が戦ったそのポイントを紹介。
■図解でわかる世論構築の構図~周辺諸国、ポリティカルコンパスも考慮して~
国民の意見を吸い上げ、国民の暮らしを良くする。そのような仕組みがどうして実現できないのか。実は、わたしたちが思っているものとは別の利害関係者がおり、意思決定をするのは複雑であることを把握する。
以上、主に経済面、経済安全保障などでの現代日本の構造を紹介した。
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480.富雄丸山古墳とウズベキスタン・サマルカンドとのつながり
富雄丸山古墳とウズベキスタン・サマルカンドとのつながりがニュースとなった。これにて歴史の大きな空白が埋まっていくことになるだろう。次の流れで紹介していく。
・ウズベキスタンで富雄丸山古墳から出土の鏡と同じものが見つかった
・ソグディアナとサマルカンド
・猿田彦と阿曇比羅夫
・安康天皇(あんこうてんのう)とソグド人
・中央アジアから渡来したと推測される賀茂氏
・高知県の秦氏と賀茂氏
■ウズベキスタンで富雄丸山古墳から出土の鏡と同じものが見つかった
富雄丸山古墳の築造は4世紀後半(つまり300年代後半)とされる。
2024年、3枚の青銅製の鏡がみつかったという。
そのうち、最も古い鏡は虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)。
大きさは直径で19cm、紀元前後のものと推定されていて、中国で製作されたと考えられている。
この鏡が、ウズベキスタンのサマルカンド州にあるコクテパ墳墓(紀元前1世紀)でも同形の鏡(直径18.7cm)が出土しているという。金の装飾品、人骨から、地位の高い女性が埋葬されていたとみられている。
↓は富雄丸山古墳について取り上げた回
■ソグディアナとサマルカンド
ソグディアナは、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名とされる。
また、このソグディアナは中国の史書では粟特(ぞくとく)と記された。
古事記にて、猿田毘古神がヒラブ貝に手をかまれて溺れた際に生まれた神々にこおソグディアナの音韻が眠らせてあるようだ。
・底度久(ソコドク)
・都夫多都(ツブタツ)
・阿和佐久(アワサク)
の3神について。
粟特(ゾクトク)はアワトクとも読めるため、底度久(ソコドク)、阿和佐久(アワサク)などが近い。残りの「都夫多都(ツブタツ)」はブッダの音韻を残したのだろう。
↓は底度久御魂とソグディアナの関連について示した回
■猿田彦と阿曇比羅夫
さきほどの3神の誕生に関わる猿田彦はヒラブ貝に手をかまれて死ぬ。
ソグド人は隊商のことをイラン語系のキャラヴァンではなく「サールト」と呼んだとされる。
これは、サンスクリット語のサールタに由来するという。
つまり、猿田彦はサールタ、隊商などとつながりのある言葉となる。
一方、ヒラブ貝のヒラブは阿曇比羅夫をモチーフとして創作されている可能性が高い。
阿曇比羅夫とは。
志賀海神社で紹介した阿曇浜子より後、阿曇一族で活躍した人物に阿曇比羅夫(あづみのひらふ)がいる。
661年(斉明天皇7年)、百済の救援軍の将軍となり百済へと渡った。
662年(天智天皇元年)、百済の王子・扶余豊璋とともに百済へと渡る。
そして663年、白村江の戦いに参加。
その際に戦死したとされる。
長野県安曇野市・穂高神社にて安曇連比羅夫命として祀られている。
ヒラブ貝は、反対から読むと「海部ラビ」とも読める。
このあたりが、歴史の謎の部分が、なぜかソグド人によってつながっているのだ。
第20代天皇。
穴穂皇子。
諱は穴穂。
父は允恭天皇で、安康天皇は第二皇子。
生没年は401年~456年とされる。
いずれも父は允恭天皇、母は忍坂大中姫である。
この「安」「康」は淡海三船がつけたものであるが、名前に安、康が入っているのは非常に興味深い。
なぜなら、ソグド出身の人物に
・サマルカンド出身は康、
・ブハラ出身は安などと表すとされるからである。
ちなみに、ソグド人はイラン系の農耕民族と考えられている。
↓は間人について考察した回
賀茂氏はアジスキタカヒコネを祀る。
つまり、祖先がアジスキタカヒコネであるということにほかならない。
このアジスキタカヒコネが持っていた剣に神渡剣(カンドのツルギ)がある。
これがサマルカンドの「カンド」を残しているのだろう。
葵祭(賀茂祭)のアオイなども、サマルカンドが青の都と呼ばれたこととも関連するだろう。
さらに、八咫烏(ヤタガラス)は賀茂氏のことと考えられる。
ヤマトタケルの東征の先発隊などであったのだろう。
鴨長明の「無名抄」「方丈記」に猿丸大夫の墓を伝える記事があるという。
猿丸大夫の「猿丸」もサマルカンドのサマルが残っている。
↓は中央アジアからの渡来、そしてスキタイの出自をにおわすアジスキタカヒコネ
南葛城の遺跡は鴨氏ゆかりの地とされる。このあたりも、ヤマトタケルの東征後、鴨氏は南葛城付近に住んだのだろう。このあたりがヤマト王権の発展とも関わってくる。
↓南葛城の遺跡は鴨氏ゆかりの地
■高知県の秦氏と賀茂氏
高知県には、秦氏(蘇我氏)、そして賀茂氏とも関りがある。
高知県の西部に幡多郡があるのだから、北部九州から四国西部に移動していることはわかりやすい。そして高知県中部には物部川や蘇我氏と関わる地名なども。
↓は波多国造や味鋤高彦根神をまつる土佐神社について取り上げた回
以上、富雄丸山古墳とウズベキスタン・サマルカンドが虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)でつながることが考古学的に証明がなされた。
これを機に、サマルカンドからの渡来があったことを古事記、日本書紀などの文献からまとめていたものを紹介した。
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S06.現代における国際社会の枠組み
本記事は、現代の国際社会の枠組みについて。過去記事からリンク集として、次の流れでまとめたものである。
・ヨーロッパ統合の軌跡とイギリスのブレグジット
・ゴルバチョフによるソ連改革と東西冷戦の終結
・旧ワルシャワ条約機構加盟国のNATO加盟がロシアに脅威を与えた
・アメリカ外交政策の特徴とその多面性
・北方領土問題をこじらせたダレスの恫喝
・中国の近代化と二つの中国
・一帯一路は覇権国家を目指す中国の経済圏構想
■ヨーロッパ統合の軌跡とイギリスのブレグジット
2016年にイギリスがEUからの離脱を投票、2021年には完全離脱した。この理由を知るため、EU統合の歴史を追う。
■ゴルバチョフによるソ連改革と東西冷戦の終結
ゴルバチョフによるソ連の改革について。連邦制の体制維持としては失敗かもしれないが、資本主義の問題点に対しての共産主義思想という、結果平等、計画経済による面においての評価や、体制を軟着陸させたという点ではいかがだろうか。戦後からゴルバチョフが登場、ソ連の解体、ソフトランディングさせる過程をみていく。
■旧ワルシャワ条約機構加盟国のNATO加盟がロシアに脅威を与えた
NATO(北大西洋条約機構)とは何か。ロシアも準加盟していた時期がある。NATOの成立からロシアがウクライナ紛争、ロシア・ウクライナ戦争に至るまでを取り上げる。
■アメリカ外交政策の特徴とその多面性
日本からみたアメリカの外交政策の歴史をとらえる。「正義の国」として戦争を開始したと映るときもあれば、好戦的に戦争を仕掛けているかのように映るときもある。アメリカにはいくつものパーソナリティ、多面性がある。いくつかの切り口からその特徴をとらえた。
■北方領土問題をこじらせたダレスの恫喝
尖閣諸島、竹島、北方領土は日本が抱える領土問題である。それぞれの領土問題の要点をみていく。さらに北方領土問題を深堀し、こじらせた原因である「ダレスの恫喝」を扱う。
■中国の近代化と二つの中国
中国が戦後どのように近代化を進めたのか。2つの中国、共産党の人民解放軍、国民党軍がなぜわかれたのか。香港に適用された一国二制度とはどのようなものか。中国から日本軍が撤退した後の中国の歴史を取りあげる。
■一帯一路は覇権国家を目指す中国の経済圏構想
中国は「一帯一路」という、現代版のシルクロード構想を実施している。これは経済圏構想でもあり、覇権国家を目指す中国にとっての戦略でもある。中国の特徴を4点、中国が取る戦略を9点、計13点のトピックから紹介する。
以上、現代における国際社会の枠組みを知る上でかかせない各国の歴史を扱った。
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S05.火種となることが予想される中東問題
今後、世界が戦争を終結させ、手を取り合っていく時代を迎えるために、火種となることが予想される中東問題について。過去記事からリンク集として、次の流れでまとめたものである。
・イスラエル建国と3つの宗教の聖地エルサレム
・文明の十字路、アフガニスタン
・アフガニスタンへの侵攻に失敗したソ連
・中東紛争に介入したアメリカとテロとの戦い、世界の警察からのリタイア
イスラエル建国の過程と、3つの宗教の聖地・エルサレムを取り上げる。
また、3つの宗教の神は同一の神である。
人類が乗り越えるべき難問が1つの土地に集約されている。
shinnihon.hatenablog.com
■文明の十字路、アフガニスタン
アフガニスタンでは2021年にはアメリカ軍が撤退し、タリバン政権が復権した。
地政学的に不安定な場所とされる。
文明の十字路とも呼ばれるアフガニスタンとはどのような土地か。
この戦争は1989年まで続いた。
莫大なコストをもたらし、ソ連崩壊の原因にもなった。
■中東紛争に介入したアメリカとテロとの戦い、世界の警察からのリタイア
第二次世界大戦以後、アメリカは正義の国として、民意や国際法を味方につけ、世界の紛争に介入、権益を確保しようと動いた。
しかし戦争に疲弊したアメリカはやがて、世界の警察から撤退していく。
ここでは特に原因となった中東紛争への介入を取り上げる。
以上、イスラム教宗教と関わる国の中で特に古代ユダヤと関わると思われるエルサレムやアフガニスタンを取り上げた。
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479.景行天皇の二人の皇后と子供のオウス、オオウス、オオスワケ、そしてもうひとりのオオス
ヤマトタケルの父である景行天皇には二人の皇后がいる。播磨稲日大郎姫、そして八坂入媛命である。この二人から3人のオウス、オオウス、オオスワケが生まれる。そして時代を経て、後の時代にもう一人のオオスが現れる。これはなぜだろうか。次の流れで紹介していく。
・姉の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)
・妹の伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)
・姉または妹の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)
・八坂入媛命の家族関係
・オウス、オオウス、オオスワケ
・古事記のもっとも古い写本を持つ大須観音
・もう一人のオオス
播磨稲日大郎姫を基準として展開していく。
■姉の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)
名前は
・針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)
・印南別嬢(いなみのわきいらつめ)
とも。
第7代・孝霊天皇の皇子である若建吉備津日子の女(むすめ)とされる。
この若建吉備津日子は吉備臣らの祖であるという。
播磨稲日大郎姫は妹に伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)がいる。
・大碓命(おおうすのみこと、大碓皇子とも)
・小碓命(おうすのみこと、日本武尊)
がいるという。
なお、古事記によると、姉の播磨稲日大郎姫には上記の子のほかに、
・櫛角別王(くしつのわけのみこ)
・倭根子命(やまとねこ)
・神櫛王(かむくしのみこ)
らがいるという。
続いて、播磨稲日大郎姫の妹、伊那毘能若郎女について。
■妹の伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)
伊那毘能若郎女は景行天皇の妃とされる。
日本書紀では、播磨稲日大郎姫の名前に異説があり「稲日稚郎姫」であるという。
名前上、
・日本書紀の姉の播磨稲日大郎姫の異説:稲日稚郎姫
・古事記の妹:伊那毘能若郎女
は非常に近い名前とされる。
また、古事記、日本書紀に加え、播磨国風土記でも似た人物名が登場する。
■姉または妹の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)
印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の父と母について。
父は比古汝茅(ひこなむち)。
丸部臣(わにべのおみ)の祖とされる。
母は吉備比売(きびひめ)。
さきほどの、
・日本書紀の姉の播磨稲日大郎姫の異説の名前:稲日稚郎姫
・古事記の妹:伊那毘能若郎女
のいずれかと同じ人物と考えられている。
いずれにしても、播磨国風土記の賀古郡・印南郡が印南別嬢(いなみのわきいらつめ)を記し、姉か妹のいずれであったかは議論があるとしても、播磨国にイナミ、もしくはイナビ出身の女性がいたのだろう。
ここまで、
景行天皇の皇后の播磨稲日大郎姫、つまり日本武尊(ヤマトタケル)の母方の家系、
・母の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)
・母の妹の伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)
を扱った。
■八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)
古事記では八尺之入日売命(やさかのいりひめのみこと)とある。
美濃出身と考えられている。
美濃は壬申の乱の勝敗を決した重要な地域でもある。
この美濃、岐阜の発展について。美濃では中国の新の時代の鏡、コインの貨泉が出土している。
岐阜では弥生時代の終り頃から前方後方形の墳丘墓が出現。
そして古墳時代初期は前方後円墳ではなく、前方後方墳がつくられた。
ヤマトタケルの東征は西暦300年前後(±20年ほどか)とされる。
中国の新が滅びた後にも渡来があり、縄文人と融合したのだろう。
そして古墳時代、熊本付近のヤマト国・ヤマトタケルの東征が起こったと考えられる。
↓は美濃の古墳時代について取り上げた回
■八坂入媛命の家族関係
父は八坂入彦命。
この八坂入彦命は第10代・崇神天皇の皇子とされる。
八坂入媛命の子には、7男6女の子供がいるという。
・成務天皇
・五百城入彦皇子
・忍之別皇子
・稚倭根子皇子
・大酢別皇子
・渟熨斗皇女(渟熨斗姫命)
・渟名城皇女
・五百城入姫皇女
・麛依姫皇女
・五十狭城入彦皇子
・吉備兄彦皇子
・高城入姫皇女
・弟姫皇女
がいるという。
■オウス、オオウス、オオスワケ
「オオス」で類似する音韻の人物について。
八坂入媛命側の系統は非常に興味深いものがある。
注目すべきは、4点ある。
まず1点目は景行天皇の次が成務天皇となっていることである。
美濃系統である、ともいえる。
つぎに2点目、
・五百城入彦皇子には「イオキ」が入る。
また、3点目、
・五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこと)には、五十でイソが入る。
おそらく、イソサチ、海幸を意識した名前と思われる。
イオキ、イソはイスラエル出身の人物名と考えられる。
↓はイオキ部の名のつく人物、廬城部連武彦(いおきべのむらじたけひこ)を取り上げた回
最後に4点目。
オウスもオオスも類似、いったん同じと考えると、景行天皇周辺には3人のオオスがいる。
オウス、オオウス、オオスワケである。
なぜ類似する名前が3人いるのだろうか。
まずはヤマトタケルこと小碓命(おうすのみこと)。
母が播磨稲日大郎姫。
そしてヤマトタケルの兄の大碓命(おおうすのみこと)。
大碓皇子ともされる。
ヤマトタケルとは双子であるという。
この「うす」の名前の由来は、景行天皇二年三月に記述されている。
双子が生まれた際に、天皇が怪しんで、碓(うす、臼)に向かって叫んだことによるという。
この臼に関する話、そしてこのヤマトタケルに双子の兄がいるというのは疑わしい。
しかし、双子のはずの兄の大碓命は景行天皇4年に美濃に遣わされたとする話がある。
これは双子であるという話と矛盾するとされる。
「オオス」の由来は何か別のものにあると思われる。
そして、景行天皇のもう一人の皇后、八坂入媛命の子にいる大酢別皇子(おおすわけのおうじ)がいる。
愛知県の大須観音、正式名称は北野山真福寺寶生院で、この真福寺本「古事記」が最古とされている。
↓は現存するもっとも古い古事記の写本を持つ真福寺本こと大須観音について紹介した回
美濃ではなく尾張となるが、継体天皇の夫人に尾張目子媛(おわりめのこひめ)がいる。
継体天皇の時代には、ブナイ・メナシェ(メナシェの子供たち)の音韻が散らばっている。
↓尾張目子媛について紹介した回
もう一人のオオスの名を持つ人物について。
■もう一人のオオス
・億計天皇(おけのすめらみこと)
・大石尊(おおしのみこと)
・意祁命(おけのみこと)
・意富祁王(おおけのみこ)
・大脚(おおし)
・大為(おおす)
という名前がある。
この、大為(おおす)が「オオス」と入っていることは注目すべきだろう。
字は
・嶋郎(しまのいらつこ)
である。
市辺押磐皇子の子である
・億計王(おけのみこ、後の第24代・仁賢天皇)
・弘計王(をけのみこ、後の第23代・顕宗天皇)
は兄弟である。
仁賢天皇が第二子、顕宗天皇が第三子。
弟、兄の順に天皇となっている。
この「おけ」について。
兄の仁賢が意富祁王(おおけのみこ)。
弟の顕宗天皇が袁祁王(をけのみこ)。
「おけ」は「王家」を意味するのではないか。
兄のおけには「意富」も残る。
つまり、伊都国(イト、イソがなまったものがイト)とも関連があるものと推測される。
↓は嶋郎(しまのいらつこ)、仁賢天皇が登場した回
古事記を編纂した太安万侶は多氏(おおし、おほし、おおうじ)の子孫と推測されている。
多氏は魏志倭人伝にある一大率、伊都国の子孫なのかもしれない。
あくまでも推測にすぎないが、可能性としては高いのではないか。
↓は太安万侶について取り上げた回
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