天皇(スメラノミコト)について。いつの時代に称された、そしてどのような意味が込められているのだろうか。「スメラノミコト」とされる天皇を列挙しながら、判明している事象を紹介する。簡潔に言えば、日本への渡来には先行する紀元前1000年(モーセ後)~紀元後450年(ネストリウス派)頃くらいのユダヤの民族の流れ、そしてペルシャ系の渡来の流れがあると推測されるのである。次の流れで紹介していく。
・歴代天皇のグループと在位年数
・60の倍数となっている理由
・六十干支
・辛酉革命説
・中国の史書に残る九州の史実
・ヤマトタケルの東征
・ヤマトタケルの西征
・装飾古墳はなぜ九州で発達したか
・ユダヤ人は渡来したか
・淡路
・出雲
・日高見国
・250年頃に到達したと推測されるペルシャ人
過去、前編、中編で「スメラノミコト」に関連する事象を解説した。
↓はスメラノミコト・前編
↓ははスメラノミコト・中編
今回はまず、天皇の年代がどのように設定されていたか、日本書紀を成立させた時点での、それ以前の天皇について。
■歴代天皇のグループと在位年数
さまざまな研究者による研究、および林順治氏「日本書紀と古事記」によれば、次のように設定されている。
第一グループ:
・初代・神武~6代目・考安天皇:在位年合計370年
第二グループ:
・7代・孝霊~11代目・垂仁天皇:在位年合計360年
・12代・景行:在位60年
・13代・成務:在位60年
・14代・仲哀~15代・応神:在位年合計120年
第三グループ:
・16代・仁徳~17代・履中:在位年合計95年
第四グループ:
・18代・反正天皇~30代・敏達:在位年合計180年
・31代・用明天皇~35代・皇極:在位年合計60年
全グループ合計:1305年
で構成されているという。
おおよそ60の倍数を主として年代紀を成り立たせている。
以降は林順治氏の解説のほか、他文献、および、これまで紹介してきた私見などを交えつつ解説する。
■60の倍数となっている理由
これは、
・六十干支(ろくじっかんし)
・辛酉革命説
が関連すると思われる。
■六十干支
十干と十二支を組み合わせたもので60年で1サイクル。
古代の人たちの寿命は60年もない人が多数であり、生年・死没とも六十干支で問題なかったものと思われる。
しかし、日本書紀のようなクロニクル・編年体でまとめようとした場合、西暦のような統一的な基準がないため、西暦でいつの人であったかが不明、ないしはとらえずらくなる。
これにより、断片的な人物、特定の年代の事象をてがかりとしたピースを、時代を散らしながら、天皇を中心としたクロニクルに編纂したものと考えられる。
↓は日本書紀が編年体であること、孝元天皇の名前がクニクルでクロニクルに近いことを示した
■辛酉革命説
辛酉革命説とは、干支が辛酉(しんゆう、かのととり)にあたる年には大変革が起こるという讖緯(しんい)説のうちのひとつ。
これによれば、日本書紀は601年が基準となっていると考えられる。
601年は推古天皇9年にあたる年、「辛酉」の年であった。
また、関連し、660年に百済が滅びている。
紀元前660年を神武天皇の即位の歳としたのは、601年より21回分×60年前の「紀元前660年」などが関連しているとされる。
↓は皇紀とは何かにて、辛酉革命説を紹介した
続いて、古墳時代と九州の関係性について。
■中国の史書に残る九州の史実
まず、神武天皇は実在の人物ではないとされる。
では、神武天皇とはどのような設定なのか。
これが、推定で紀元前800年頃の天之御中主とされる人物、そして紀元後・300年頃のヤマトタケルの東征の史実を合成して作成されたキャラクターであるとされる。
では、天之御中主とはどのような人物か。
天之御中主は高千穂峰の王国の初代の国王的な人物とされる。
次に、邪馬台国とは何か。
場所は九州の有明海付近にあったとされる。
推定で、熊本が王の中心地であったのではないか。
このときの邪馬台国は小国がやっとまとまったというくらいの連合国家である。
その王、卑弥呼は当時ヒムカと呼ばれていた巫女。
そして、このヒムカの後を継いだのがトヨ。
魏志倭人伝にも卑弥呼、台与と考えられる中国への遣使の歴史が残る。
ただし、具体的な場所までは伝わらない。
ではなぜ熊本と言えるのか。
・日本書紀・景行一八年五月一日条に示される、八代県の豊村(やつしろあがたのとよむら)
・日本霊異記・宝亀二年(771年)一一月一五日に示される、肥後の国八代の郡豊服の郷(とよぶくのさと)の人、豊服広公の娘、舎利菩薩に関する話
など、熊本に関する不思議な逸話が記されている。
火の国、トヨの地名の残る熊本県八代市付近が遷都前のヤマト国であったのではないかと考えられる。
ほか、魏志倭人伝の陳寿のルートも、異論はあるにせよ、熊本にあったことが前提となっていると考えられる。
↓は熊本にヤマト国(邪馬台国)があったことを示した回
■ヤマトタケルの東征
また、ヤマトタケルの東征、西征は日本史にどう関係するのか。
まず東征があったの時代は西暦300年前後とされる。
出発地点は南九州と考えられる。
そして東征で活躍した「ヤタガラス」とはどのような人物であったか。
それは、賀茂氏であったと考えられる。
賀茂氏とは何か。
賀茂氏は推定で中央アジア・サマルカンド方面を経て渡来したスキタイの後裔と推測する。
↓はアヂスキタカヒコネと賀茂氏の関係を示した回
西暦300年当時は力をもっていたのだろう。
しかし、高知県に残る神社の歴史からみると、やがて衰退していくことがわかる。
↓高知県の勢力には、秦氏やスキタイの興亡が関わると推測される
■ヤマトタケルの西征
一方、西征とは。
西征は卑弥呼・当時で30余国をまとめあげた程度の国家であった。
やがて近畿や関東、東北へと遠征したヤマト国の民族たちであったが、その一方で、九州のすべてをまとめあげたわけではなかった。
この、九州の残りの地域を平定していったのが西征。
これに先発隊として賀茂氏は同行したのだろう。
それが、近畿・奈良が日本の中心地となり、第二期のヤマト国・大和王権が近畿地方において次第に確立していった。
■装飾古墳はなぜ九州で発達したか
日本史の不思議な点は、大陸には中国という大国が存在したこと、そして西方由来の人物が太陽の昇る東の国を目指して移動したと考えられることだろう。
商業上・貿易上のシルクロードの終着地点は中国であった。
しかし、その一方で、本来の旅の目的は、旧約聖書にいう東の島々の国であったと考えられる日本を目指していたのではないか。
なお、主に九州を中心として装飾古墳が発達する。
これはなぜ九州で起こったのか。
卑弥呼(ヒムカ)、台与(トヨ)は本質的にはギリシャや芸術と縁の深い人物である。
これが、ヒムカやトヨにゆかりを持つ九州にて装飾古墳が発達していった理由なのだろう。当時も渡来人や縄文人の子孫にも、芸術系の人物がいたのだろう。
■ユダヤ人は渡来したか
古代に出雲、淡路、日高見国(茨城県にあったと推定される)の3地点において、日本書紀の成立時点よりもかなり早い時期にユダヤ人が到達していたことはほぼ間違いない。
「ミズラ」について取り上げた回で、千葉県の芝山古墳・姫塚を扱った。
この古墳は6世紀後半の築造である。
形象埴輪の人物像、そして髪型が、日本人ではなく、ユダヤ人を象徴していると思われる埴輪が見つかっている。
↓は千葉・芝山古墳について扱った回
さて、文献史学上、古事記、そして日本書紀上でユダヤ人は登場するのか。
ユダヤ人に関する表現は直接的には存在しない。
しかし、暗喩やその存在をにおわせる表現が多数残っている。
さらに歴史は複雑であり、250年頃に到達したペルシャ人、400年以降に渡来したネストリウス派のユダヤ人、ソグド人、スキタイなどにより、その民族の特定は難しい。
■淡路
淡路には古代のイスラエル文化遺跡が残る。
このため、かなり早くにユダヤ人は渡来していたのではないか。
具体的には、古墳時代よりももっと早くなのだろう。
この遺跡の発掘を指示したのは、実は明治時代の宗教家・出口王仁三郎氏である。
この遺跡の時代はいつだろうか。
この遺跡は、原始的なユダヤ教の祭祀遺跡とされ、古いからには古墳時代より前ではないかと推測される。
四国には高知に
・西部に幡多
・中部に物部氏、蘇我氏などといったヤマト王権で活躍した人物の地名、七星剣
・東部に応神、サカ(サカとなればスキタイとも関連してくる)
といった古い歴史が残る。
そして特に、徳島には剣山がある。
といった、近畿のヤマト王権から少し離れた四国にも物部、蘇我の関連地がある。
また、古墳時代から少し時代を経て、佐伯氏から空海が生まれるのである。
佐伯氏もまた、渡来系であることが判明している。
なぜ、空海の時代事において、四国において著名な人物が生誕したのだろう。
それは、ヤマト王権からそう離れておらず、かつ、ユダヤ人の後裔が活躍したのではないかと推測する。
古事記では伊予之二名島(イヨのフタナジマ)とある。
これは、二つの名を持つ、にひっかけた、ナフタリ族が渡来していたことを示す描写ではないか。
1952年、菰江(コモエ)にて
古代ユダヤ遺跡とされる
・ナフタリ族のシンボルである鹿(シカ)が刻まれた指輪
・ダビデ紋章(六芒星)が刻まれた指輪
・石
が発見されている。
しかし、その後1959年の伊勢湾台風にて遺跡は流された。
当時はまだ日本史の全貌を解明するには早すぎたのだろうか、流されてしまったのである。
↓ナフタリ族のシンボルである鹿の指輪とダビデ紋章の指輪を紹介した回
↓はユダヤ人渡来後のその後の淡路島の歴史、境神明神社、白人神社などを取り上げた
出雲(イズモ)、安曇(アヅミ)、穂積(ホヅミ)などは関連する氏族と考えられる。
古代日本二おける各地方・各国の国土開発に貢献していくことになる。
■出雲
出雲では、天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)、その子である建平鳥(タケヒラトリ)が活躍されたとする。
建平鳥は「ヒラクテリ・ヒラクリティ」をほのめかしていると考えられ、その祖先の天之菩卑能命は、ユダヤ人を指しているものと推測できるのである。
なお、山伏の「頭襟(ときん)」はヒラクリティに似ることは、ユダヤ関連の研究家の中では有名である。
↓は建平鳥、ヒラクテリについて考察した回
出雲がスサノオと関連が深いのは、大分に生まれたアマテラスの弟、スサノオと関連が深いからであると考えられる。
クシナダ媛との結婚を条件に、ヤマタノオロチを退治したという。
ヤマタノオロチは、実際は3つ程度の頭であったという。
そして、おそらく、退治しようと挑んだ人の、銅製の刀を体内に宿していたと考えられる。よって、金属製の剣は紀元前8世紀頃にも持ち込まれていたことになる。
また、その後、スサノオは新羅遠征を行ったという。
この独断での行動により、当時・九州の高千穂峰の王国の首長となっていたアマテラスからスサノオは追放されてしまったという。
これらの出来事から推測すると、出雲に紀元前1000年~紀元前800年頃には最も早いユダヤ人の一部が渡来していたとみる。
このあたりが神話として描かれているのではないか。
なお、やがて高千穂峰の王国は衰退、そして倭国大乱後、阿蘇付近のヤマト国が台頭したとみられる。そしてヒムカ、トヨを始めとする人物を輩出する。
やがて景行天皇(武具の挂甲から名づけたか)の父の子、ヤマトタケルが東征。
出雲・大国主は国譲りを行い、東征に付き添った。
その東征の後、千葉、埼玉、群馬などが開発されているのはこれが関係すると思われる。
なお、建平鳥のほか、一言主(ヒトコトヌシ)、事代主(コトシロヌシ)も出雲関連の実在した人物とみられる。「一言」で一弦、事で琴とも読めるため、弦楽器を暗喩しながらのネーミングと推測できる。
■日高見国
常陸国風土記によれば、現在の茨城に日高見国があったとされる。
↓は日高見国、信太郡について紹介した回
この日高見国の後裔が
・信太郡(しだぐん)
とされる。
信太郡の位置は
・東は信太流海(しだのながれうみ)
・南は榎浦流海(えのうらながれうみ)
・西は毛野河(けののかは)
・北は河内郡(かわちのこおり)
とされる。
信太郡の名前の由来は
「赤旗が垂れ下がる国」
からとったという。
しかし、本当は東アジアを目指したユダヤ人に関わる国ではないかと推測できる。
なぜそのようなことが言えるのか。
ユダヤとシダとを結び付けることのできる根拠として、シダの漢字は羊歯であり、ユダヤ人を示す隠語に「羊」がある。
上野三碑をみると、神道というよりはユダヤ教を信じているような立場から間もない帰化人が仏教へ改宗したのではないかと想定される記録が残る。
↓は上野三碑・多胡碑について紹介した回
一般的に八角墳は天皇陵が多く、六角墳は皇族で扱われることが多いとされる。
その発端が、千葉、海保大塚(かいほおおつか)古墳が4世紀末の築造で、六角墳と推定されている。
↓は六角墳を取り上げた回
東征に同行した蘇我氏系の墓であろうと推測される。
蘇我比咩神社は千葉にある神社で、弟橘姫とも関連がある。
↓は蘇我比咩神社について紹介した回
■250年頃に到達したと推測されるペルシャ人
ササン朝ペルシャは紀元後226年に成立する。
そして、7世紀にイスラム勢力の侵攻を受けて651年頃滅亡した。
ササン朝ペルシャの民族は東アジアを目指した。
新羅の官位にササンがみられる。
この官位や、ローマングラスが残る歴史、秦韓国が新羅の位置に存在していたことが記録に残っていることからして、推定で新羅のテクノクラートとなっていたことは、かなり真実に近いとみて間違いないだろう。
↓新羅の官位・ササンを紹介した回
古墳時代頃には、新羅とローマには少なくとも工芸品的に交流がみられる。
新羅とローマのつながりを示す人物名に金波鎮漢紀武がいる。
允恭天皇(在位は412年~453年)に記される。
↓は新羅とローマ、バチカンなどとの関連を示した回
日本においては、奈良県橿原市(かしはらし)の新沢千塚126号墳から、新羅を経由したローマからもたらされたとする多彩な金のアクセサリー、そしてペルシャ地方(イラン、イラク)からもたらされたとされるガラス製の碗と皿が見つかっている。
↓は新沢千塚126号墳について取り上げた回
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