前回、和邇氏について紹介した。天理市の和邇(わに)から櫟本(いちのもと)のエリアは和爾氏の拠点であったとされる。そのエリアにある東大寺古墳を取り上げる。次の流れで紹介していく。
・東大寺古墳
・漢中平紀年大刀(かんちゅうへいきねんたち)
・赤土山古墳
・和爾下神社(わにしたじんじゃ)
・天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
・和爾下神社古墳
・柿本寺跡(しほんじあと)
・楢神社(ならじんじゃ)
・鬼子母神とザクロ
・櫟本(いちのもと)
■東大寺古墳
所在は奈良県天理市櫟本町。
形式は前方後円墳。
大きさは推定で推定130m~140m。
築造は4世紀後半。
粘土槨の埋葬施設が発見されている。
鉄刀や石製台付坩(せきせいだいつきかん)などが見つかっている。
鉄刀の中には「中平年」銘に入った鉄刀がある。
石製台付坩は儀式用と考えられている。
↓はgooglemap、東大寺山古墳
↓は文化遺産オンライン、東大寺山古墳出土、花形飾環頭大刀(はながたかざりかんとうたち)
↓は1089ブログ、東大寺山古墳出土大刀について論じられている回
↓は文化遺産オンライン、東大寺山古墳出土、石製台付坩(せきせいだいつきかん)
bunka.nii.ac.jp
↓は文化遺産オンライン、東大寺山古墳出土、巴形銅器
■漢中平紀年大刀(かんちゅうへいきねんたち)
東大寺山古墳から出土した「中平」の紀年の銘がある太刀。
太刀には花、鳥、家形の装飾がついている。
中平とは後漢の霊帝の時代の4番目の年号で184年~189年にあたる。
ちなみに黄巾の乱はこの元年、184年に起こっている。
なお、応神の時代に渡来した阿知使主について。
阿知使主は霊帝の曽孫(ひまご)とされる。
阿知使主の渡来時期は3世紀~4世紀、または5世紀前半とされる。
応神の生没は201年~310年であるが、実在なら+200年の4世紀後半から5世紀初頭と考えられる。
この天皇(ここでは時代)と史実・出来事の年代のアンマッチについて。
阿知使主の渡来時期はある程度まで正しいが、天皇(大王)の年代に操作があるのだろう。
↓鉄剣や鉄刀に刻まれた文字を取り上げ、その中で漢中平紀年大刀が登場
■赤土山古墳
赤土山古墳の立地は大和古墳群の北にあたる。
所在は奈良県天理市櫟本町である。
東大寺山古墳群の中の主墳の1つ。
前方後円墳:5基
円墳・方墳:40~50基
から成る。
古墳時代前期から中期を中心とする。
赤土山古墳の形式は前方後円墳。
きわめて特殊な前方後円墳とされ双方中円墳との見解も。
墳丘長は106.5m以上。
築造は4世紀末から5世紀初頭。
後円部突出部の南側で
・家形埴輪:11基
・囲形埴輪:1基
などから構成される埴輪群が検出されており、家形埴輪の祭祀遺構として認知されているという。
↓は天理市、赤土山古墳
↓はwikipedia、赤土山古墳、家形埴輪祭祀遺構の復元の様子が画像にて確認できる
■和爾下神社(わにしたじんじゃ)
所在は奈良県天理市櫟本町字宮山。
東大寺山の西の麓にあたる。
東大寺山古墳群の和爾下神社古墳の後円部が境内。
祭神は素盞嗚命、大己貴命、櫛稲田姫命。
本来は和珥氏の同族である柿本氏の祖神を祀る神社であり、本源は和珥氏の祖神とされる天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)ではないかとされるという。
↓はwkipedia、和爾下神社
和爾下神社は上治道宮、そして約2.5kmほど離れた場所に下治道宮の2社がある。
この2社をもって「和尓下神社二座」と比定されている。
↓は和爾下神社(上治道宮)
↓はgooglemap、和爾下神社(下治道宮)
■天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
和珥氏の祖神とされる天足彦国押人命について。
父は第5代・孝昭天皇の第一皇子。
母は世襲足媛(よそたらしひめ、余曽多本毘売命)。
古事記において春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣などの祖とされる。
のちの小野妹子、柿本人麻呂が有名。
第5代から第7代までの人物関係としては
第5代・孝昭天皇から
・第6代・孝安天皇
・天足彦国押人命
が生まれる。
この天足彦国押人命から
・和珥氏
・押媛(おしひめ)
が生まれる。
この押媛が孝安天皇の皇后である。
ここまでをまとめると、
・和邇氏に由来のある漢中平紀年大刀の紀年は中国・霊帝の時代にある
・阿知使主は日本書紀・応神天皇20年9月の条で「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した」とされる人物
・古事記で和邇吉師(わにきし)、のちの阿知使主、東漢氏(やまとのあやうじ)は霊帝の曽孫(ひまご)と名乗った
・淡海三船(おうみのみふね)が日本書紀における天皇に漢風諡号を名付けた
という経緯がある。
■和爾下神社古墳
形式は前方後円墳
大きさは全長約105m。
築造は4世紀末から5世紀初頭とされる。
東大寺山古墳、赤土山古墳、和爾下神社古墳の順で造られた古墳とされる。
↓は天理市観光協会、和爾下神社古墳
■柿本寺跡(しほんじあと)
和爾下神社の近隣エリアには柿本寺跡や楢神社がある。
柿本寺跡は柿本寺(しほんじ)と呼ばれ、柿本氏の氏寺であった。
↓は天理市観光協会、柿本寺跡の紹介ページ
■楢神社(ならじんじゃ)
所在は奈良県天理市楢町。
鳥居が銅でできている。
1955年までは五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)神社と称していた。
主祭は五十狹芹彦命(いさぜりひこのみこと)、鬼子母神(きしもじん)。
■鬼子母神とザクロ
鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれた王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘であるという。
千人もの子を生みながら、他人の子どもを奪って食べるという乱暴な鬼神であった。
しかしあるときお釈迦さまが、カリテイモのかわいがっている末子を隠し、子供を失う悲しみを教えたという。
これによってカリテイモは仏教に帰依したとされる。
境内にザクロの木があり、多産のシンボルとも。
ザクロは西南アジアや中東が原産とされる。
東方へのザクロの伝来の記述が「証類本草」以降の書物にみられるという。
証類本草(しょうるいほんぞう)は中国の宋代の本草書(薬物の知識をまとめた書)で1091年から1093年頃の成立とされる。
前漢・武帝の命により張騫が西域から帰国した際、パルティアからザクロ(安石榴、あるいは塗林)を持ち帰ったとされる。
↓googlemap、楢神社
■櫟本(いちのもと)
1989年に添上郡の櫟之本村、和爾村、楢村、森本村、蔵之庄村、中之庄村が合併して櫟本村となった。
さらに1954年、丹波市町、朝和村、福住村、二階堂村、柳本町と合併して天理市となった。
■感想
・和邇氏という名前がワニ、海神系、インドのルーツを想起
・楢神社にみる五十狹芹彦命(いさせりひこのみこと)はイソサチとも読める
海幸、山幸のイソサチ。
・柿本寺跡はシホン寺とかつて呼ばれており、シオンと響きが類似
・欠史八代の5代~8代まではまるで和邇氏のためにあるかのよう
・和邇や阿知使主にしても独自の建築技術および独特の墓葬を持つため、秦氏と共通のルーツにあるのだろう。少なくとも400年代のネストリウス派より早い渡来である。
<参考>
・東大寺山古墳/天理市
・中平 - Wikipedia
・霊帝 (漢) - Wikipedia
・東漢氏 - Wikipedia
・赤土山古墳 - Wikipedia
・天足彦国押人命 - Wikipedia
・押媛 - Wikipedia
・春日氏 - Wikipedia
・小野氏 - Wikipedia
・楢神社 - Wikipedia
・ザクロ - Wikipedia
・櫟本町 - Wikipedia