シン・ニホンシ

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357.応神天皇と矢河枝比売

ここでは矢河枝比売を取り上げる。応神天皇の皇后の一人とされる人物。次の流れで紹介していく。

・矢河枝比売(やかわえひめ、やかはえひめ)
・矢河枝比売と応神天皇の子
・女鳥王(めどりのみこ)
・矢河枝比売と応神の出会い
応神天皇の三皇子
・和爾氏

■矢河枝比売(やかわえひめ、やかはえひめ)

宮主宅媛(みやぬしやかひめ)、和珥日触使主女とも。
矢河枝比売は第15代・応神天皇の妃の一人である。

父は丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)
矢河枝比売(やかわえひめ、やかはえひめ)は宮主、神職である。

また応神天皇はしばらくしたのち、軍神・八幡神と称されるようになった。
この八幡神社秦氏が創建した神社である。

この八幡・ヤハタは渡来していた秦氏などが信仰していた「ヤハエ」と同一と考える。
「やかはえひめ」の「か」の文字を抜くと「ヤハエ」となる。

以下、矢河枝比売をテーマとして古代の文献をみていく。

■矢河枝比売と応神天皇の子

古事記によれば宮主・矢河枝比売と応神天皇との間に次の3人の子(三柱)がいる。

菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)応神天皇の皇太子

・八田若朗女(やたのわかいらつめ):第16代・仁徳天皇の妃

・女鳥王(めどりのみこ)仁徳天皇に対し隼別皇子と謀反を起こそうとした

なお、応神は矢河枝比売の妹の袁那弁郎女(をなべのいらつめ)もめとっている。

応神と袁那弁郎女との間の子に菟遅若朗女(うぢのわかいらつめ)がいる。

■女鳥王(めどりのみこ)
女鳥をめぐる鷦鷯(仁徳)と隼別皇子との戦いを下記の過去記事の回にて記した。
なお、隼別皇子は応神の子で、桜井田部連垂根(さくらいのたべのむらじたりね)の娘の糸井比売(いといひめ)との子とされる。

↓女鳥王が登場した回

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■矢河枝比売と応神の出会い
応神が木幡村京都府宇治市木幡)に到ったとき。
道端で麗しき乙女と出会った。

天皇はその乙女に「誰の娘か」とを尋ねた。

乙女は「丸迩之比布礼能意富美(わにのひふれのおおみ)の娘、宮主矢河枝比売(みやぬしやかえひめ)」と名乗った。

天皇は明日の帰りの際、乙女の家に寄ると言った。
矢河枝比売はその詳細を父に語る。
すると父は「それは天皇だろう。恐れ多い」とし矢河枝比売にお仕えせよといった。
そして家を飾って次の日を待った。

こうして父・ワニノヒフレノオホミは天皇に対して供え物を奉る際に矢河枝比売に大きな酒杯(さかずき)を持たせて奉った。

すると天皇は酒杯を受け取り、次の歌をうたう。

この蟹や 何処(いづく)の蟹 
百伝ふ 角鹿(つぬが)の蟹 
横さらふ 何処に到る
伊知遅島(いちぢしま) 美島(みしま)にとき
鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息づき 
しなだゆふ 佐々那美道(ささなみぢ)
すくすくと 我がいませばや
木幡(こはた)の道に 遇(あ)はしし嬢子(おとめ)
後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも
歯並(な)みは 椎菱(しひひし)なす
櫟井(いちひゐ)の 和邇(わにさ)の土(に)
初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ
底土(しはに)は 土黒(にぐろ)きゆえ
三つ栗の その中つ土を
頭突(かぶつ)く 真火(まひ)には当てず
(まよ)(が)き 濃(こ)に画き垂れ
遭はしし女(をみな)
かもがと 我が見し児(こ)
かくもがと 我(あ)が見し児(こ)
うたたけだに 向かひ居(を)るかも
い副(そ)ひ居るかも

と歌ったとされる。
そして生まれた子が宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)古事記は紹介している。

万葉集・巻十六に「乞食者(ほかひびと)の詠二首」という歌が記されている。
それによればカニとシカに扮して歌うという形になっているそうだ。

↓下記の万葉集を読む、にて乞食者(ほかひびと)の歌が紹介されている。
乞食者の歌(万葉集を読む)

応神天皇の三皇子
古事記では応神天皇にはつぎの三皇子がいたとする。

・大山守命(おおやまもりのみこと)
・大雀命(おおさざきのみこと、のちの仁徳)
菟道稚郎子
である。

応神天皇菟道稚郎子に継がせようという思いがあった。
そのため大山守命、大雀命に誰が皇太子にふさわしいかと尋ねた。
その結果、応神天皇の思い通りの答えが返ってくる。

そして
・大山守命には山海(やまうみ)の政(まつりごと)
・大雀命には食国(をすくに、治める国)の政(まつりごと)
菟道稚郎子には天津日継(あまつひつぎ、皇位
となることを命じた。

しかし、最終的には応神が崩御する。
そして大山守との間の皇位継承が発生、皇位を譲るため菟道稚郎子自死した日本書紀とされる。

しかしその一方、播磨国風土記・揖保郡の条では菟道稚郎子は宇治天皇(うぢのすめらみこと)と称されている。

↓は神功皇后応神天皇を紹介、菟道稚郎子が登場した回

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■和爾氏
矢河枝比売の父である和爾氏(和珥氏)について。

和珥氏は奈良盆地の東北部一帯に広く勢力を持った古代氏族。
和珥氏の一族は孝安天皇(第6代)開化天皇(第9代)に后妃2人(それぞれ押姫、意祁都比売命)を入れたとされる。

また葛城氏の没落後は11人の后妃を出し、勢力を広げた。

仁徳朝の頃、米餅搗大臣命(たがねつきのおおおみのみこと)が大きく
和邇
・大宅
・布留
・春日
の各地にわかれていったとされる。
応神と矢河枝比売との出会いは和爾氏の出自を示したものだろうか。

■感想
丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)の名前について。

ひとつめは「比布礼」について。
日触の字があてられることも。
一方、「へブル」から次のように子音を操作したのではないかと思う。

へ→ひ

る→れ

ふたつめは「意富美」について。
大物主神の別名が「意富美和之大神」。
「おほみ」はオオミ、近江とも。

米餅搗大臣命の四子のうちの和邇、大宅、布留、春日の「布留」にへブルのフルも入る。
ちなみに、フルは物部氏との関連の「布留」が有名だが、旧約聖書モーセ、アロンのほか、フルという人物がモーセを支えたとされる。

仮に古代のユダヤ人が淡路への渡来後、移り住んだ候補地としては琵琶湖付近があげられっる。琵琶湖付近を、ガリラヤ湖のように思って好んで住んだのではないかという説もみられる。

なお、琵琶湖とガリラヤ湖を比較すると、
・琵琶湖:670平方キロメートル
ガリラヤ湖:166平方キロメートル
である。
琵琶湖の面積はガリラヤ湖の約4倍にあたる。

菟道稚郎子の宇治は琵琶湖の南。
のちの秦氏(主にキリスト教ネストリウス派と考えられる)は京都で活躍していくことになる。

丸邇氏「ワニ」を名乗っているため、海神系と思われる。

以上より、推測の域をでないが、和爾氏はその頃宇治市木幡に住んでいた古代のユダヤ人の氏族だったのでは。その物語が挿話の形で出自を隠しつつも埋め込まれているのでは。

なお、八重の用いられ方の変遷について。八重→弥栄→八坂と変化していったとされるも

<参考>
八河江比売 – 國學院大學 古典文化学事業
米餅搗大使主 - Wikipedia
和珥氏 - Wikipedia
押媛 - Wikipedia

意祁都比売命 - Wikipedia
アロン - Wikipedia