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225.古代の宮⑨~允恭天皇、即位を請う群臣と忍坂大中姫の願い~

古代の天皇の宮とされる伝説の地を紹介していく。これより土地とそれに紐づくエピソードを探していく。
今回はシリーズ第9弾、允恭天皇・男浅津間若子宿禰命(おあさづまわくごのすくねのみこと)を紹介する。次の流れで紹介していく。

・第19代・允恭天皇:遠飛鳥宮
允恭天皇の別名
允恭の親と兄弟
男浅津間若子の即位を請う群臣と忍坂大中姫の願い
允恭の皇后
允恭の略歴
允恭の子供
まとめ

■第19代・允恭天皇:遠飛鳥宮
允恭天皇の宮は、遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)
所在は、伝承としては奈良県高市郡明日香村飛鳥とされる。
具体的な場所は不明とされる。
wikipedia允恭天皇

ja.wikipedia.org

允恭天皇の別名
允恭天皇は雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさづまわくごのすくねのみこ)とも。
淡海三船が漢風諡号を允恭と名付けた由来は不明。
即位のエピソードからすれば、慎みながら即位を許可したことに由来し「允」「恭」の漢字をあてたと考えられる。

■允恭の親と兄弟
父は仁徳天皇(大鷦鷯)、第四皇子にあたる。
母は葛城襲津彦の女の磐之媛命(いわのひめのみこと)。
同母の弟に履中天皇(去来穂別)、反正天皇(瑞歯別)がいる。

男浅津間若子の即位を請う群臣と忍坂大中姫の願い
※注:意訳あり

瑞歯別天皇が皇太子を定めずに死去してしまう。
そこで群郷(まへつきみ、群臣のこと)による合議が行われる。
仁徳天皇(大鷦鷯)の子供のうち允恭(雄朝津間稚子宿禰・おあさづまわくごのすくねのみこ)と大草香皇子(おおくさかのみこ)の名前が挙げらる。
人にめぐみ、親に従うことから雄朝津間稚子が推された。
しかし、雄朝津間稚子はしばらくの間、辞退を続けた。

そこで、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が言う。

大王(きみ)、引き下がって、位につかない。
空位がつづき、年月がたっている。
もろもろの願いに従って、無理にでも帝の位について欲しい。

雄朝津間稚子はしばらくして答えた。

嗣位(ひつぎのくらい)につくことは重い事だ。
なのでたやすくつくことはしなかった。
しかし群臣の請うこと、物ごとの道理は灼然(いやちこ、明らかになること)となった。
ついに断ることはできない。

忍坂大中姫は喜んだ。そして群臣たちに向かって言った。

皇子は群臣たちの申すことを聴くといってくれた。
いま、天皇、璽符(みしるし、じふ)を奉って欲しい。

皇子はいう。
群卿(まへつきみたち)
ともに天下(あめのした)のために
寡人(かじん、徳の少ない)である、おのれを請うた。
寡人ではあるがついに断れない。

■允恭の皇后
允恭の皇后は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。
父は稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ、応神の子)。
母は弟日売真若比売命(おとひめまわかひめのみこと、日本武尊の曾孫)。
弟日売真若比売命の子供が忍坂大中姫、そして意富富杼王おおほどのおおきみ、継体天皇の曾祖父)。
※忍坂大中姫に邪馬台国ヤマトタケル、伊都国とのつながりがみられる。
というよりヤマトタケルが東征したのだから、允恭の時代にも九州とのつながりが残る。

■允恭の略歴
・刑部(おしさかべ)の設置
 刑部は皇后の忍坂(おしさか)から由来だと考えられる。また、中国古代の役所として刑部(けいぶ)が存在し司法を担当した。皇后の忍坂大中忍坂大中姫のために刑部を設置したと記紀に記されている。

新羅への遣使
 遣使を実施、良き医(クスシ)を求めた。

盟神探湯(くがたち)
 熱湯を使った一種の裁判。氏姓の乱れを正すために実施された。明日香村にある味橿丘(うまかしのおか)にて実施されたとある。

・闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)を国造りから姓を落とし、稲置(いなき)とした。闘鶏国は大和国北東部。

玉田宿禰の誅殺
玉田宿禰(たまたのすくね)葛城襲津彦の孫。地震が起きたのち、玉田宿禰は酒宴を行ない殯宮大夫(もがりのみやのかみ)であるにもかかわらず、殯をしなかった。
地震は允恭地震と称され、日本初の地震の記録。真偽、実際の程度などは別として。
※殯(もがり)は葬送儀礼

これを原因とし、允恭は尾張連吾襲(おわりのむらじあそ)を遣わす。しかし玉田宿禰尾張連吾襲を殺す。
玉田宿禰武内宿禰たけしうちのすくね、葛城襲津彦の父)の墓域(はかのうち)に逃げ隠れる。

允恭は玉田宿禰を召喚する。小墾田采女(おはりだのうねめ)が酒をふるまったとき、疑った玉田宿禰が衣の中に鎧(よろい)を着ているのが見えた。
允恭はこれを知り、戦を起こし、玉田宿禰を破った。
※小墾田采女奈良県明日香村(大和小墾田)の豪族の娘ではないかとされる

・瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと、反正天皇を耳原陵(みみのはらのみささぎ)に葬ったとされる。

■允恭の子供
木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)
 木梨軽皇子はのちに皇太子となるが、同母で妹の軽大娘皇女との近親相姦が発覚し失脚。軽大娘皇女は衣通郎女(そとおりひめ)とも呼ばれ、古事記ではとても美しい女性であったという。

衣通姫伝説が残る。
允恭天皇の死後、失脚した木梨軽皇子伊予国の姫原へ流刑される。
軽大娘皇女はその後を追った。
そして伊予国木梨軽皇子と軽大娘皇女は自害したとされている。

安康天皇雄略天皇
 安康天皇は第20代天皇で在位453年~456年。雄略天皇は第21代天皇、在位456年~479年。

※注:在位年数で允恭、安康、雄略と允恭を比較した場合、允恭は在位で412年~453年、41年間と長い。履中や反正も約5年程度であった。允恭の在位の長さは異常なほど。また允恭の日本書紀における即位時のエピソードの文章量は長くその正当性を主張するものであるかのようにも見える。しかしその一方、実績の紹介部分が薄い。このことから、この時代、期間も長く、様々なことがあったであろうことが予想される。

・長田大郎女(名形大娘皇女・ながたのおおいらつめのひめみこ)
 長田大郎女は大草香皇子仁徳天皇の皇子)との間に眉輪王(まよわのおおきみ)をもうけた。眉輪王の父、大草香皇子は罪無くして安康天皇に誅殺される。そののちこの眉輪王によって安康天皇は刺殺されることになる。

・境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)
眉輪王による安康天皇の暗殺後、雄略天皇は同母兄弟の八釣白彦皇子と坂合黒彦皇子を共犯者として疑う。まず八釣白彦皇子が雄略によって殺害される。そして坂合黒彦皇子、眉輪王は葛城円のもとに逃げる。しかし雄略は坂合黒彦皇子、眉輪王、葛城円を焼き殺したという。
・但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)、酒見皇女(さかみのひめみこ)
但馬橘大娘皇女には但馬との関連が伺える。酒見皇女は特に記録がない。

■まとめ
允恭天皇の時代に刑部(司法を担当か)が設置された
・闘鶏国造を稲置に降格させた事実がある
 ※允恭の時代、氏姓制度が発達していく中で、横暴な人物もみられ、罰則・ルールがを設ける過程が伺える
・同時代の天皇の在位年数が5年~10年なのに対し、允恭は41年と長く、さまざまな歴史が凝縮されている可能性がある。

・允恭の皇后は忍坂大中姫。応神の系譜のうち、仁徳の直系が武烈までつづくが、そちらのほうではない稚野毛二派皇子側の子孫。
※すると継体王朝は謎であるともされるが、允恭の皇后としてもつながりがあって、不自然さはないのかもしれない。

■感想
律令国家の整った701年頃までを念頭におくと、ヤマトタケル東征後ののちの約400年間は中央集権国家を目指すための近畿のヤマトを舞台とした地方豪族との闘いの歴史かもしれない。
・眉輪の王は目弱の王とも。ただ、本来は漢字、音韻は「繭倭」だったのではないだろうか。雄略に勝てなかった側の者たち(個人の推測の域)

<参考>
日本書紀(二)岩波文庫
大草香皇子 - Wikipedia
忍坂大中姫 - Wikipedia
稚野毛二派皇子 - Wikipedia
中磯皇女 - Wikipedia
意富富杼王 - Wikipedia
坂合黒彦皇子 - Wikipedia
八釣白彦皇子 - Wikipedia

葛城円 - Wikipedia