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240.古代の宮㉔~雄略天皇(十三):大草香皇子の疑いが晴れ、難波吉士日香々の子孫が大草香部吉士となる~

今回はシリーズ第24弾、雄略天皇・13回目を紹介する。玉縵(たまかづら)が再び登場する。そして大草香皇子の疑いが晴れる。これにより大草香皇子の忠臣であった難波吉士日香々の子孫が大草香皇子の名にちなんで大草香部吉士となる。次の流れで紹介していく。

目次
・身狭村主青らの呉国からの帰国
・磯歯津路(しはつのみち)
・呉原の由来
・飛鳥と伊勢の衣縫部の先祖
・大草香皇子の疑いが晴れる
・日根に逃げて稲城を築いた根使主
・二つの子孫にわけられた根使主
・坂本臣の由来と根使主の子、小根使主(おねのおみ)

■身狭村主青らの呉国からの帰国
即位14年1月(春)。
身狭村主青(むさのすぐりあお)らは呉国(くれのくに)の使者とともに、呉がたてまつった手末の才伎(たなすえのてひと、手工業の技術者)である漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)および衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)らと住吉津(すみのえのつ)に泊まる。
※即位12年4月に身狭村主青らは出発、今回の即位14年1月に帰国。
話の類似性が応神37年2月条、41年2月条とにみられる。

■磯歯津路(しはつのみち)
この1月に、呉の客人用の道をつくって磯歯津路(しはつのみち)に続く道を通した。これを呉坂(くれさか)と名付けた。

磯歯津路:現在の大阪市住吉区から東住吉区東南部にかけての地。
「しはつ」は「磯果つ」で浜の河口、岬などから続く道をつくったと考えられている。

■呉原の由来
3月、臣連(おみむらじ)に命じて呉の使者を迎えいれた。
呉人を檜隈野(ひのくまのの)に安置した。これを呉原(くれはら※)と名付けた。
呉原:大和国高市郡か。高市郡明日香村檜前よりも広い地名であったとされる。

■飛鳥と伊勢の衣縫部の先祖
衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)を大三輪神(おおみわのかみ、大神神社の神)に奉った。弟媛(おとひめ)を漢衣縫部(あやのきぬぬいべ)とした。
漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)の衣縫(きぬぬい)は飛鳥衣縫部(あすかのきぬぬいべ)・伊勢衣縫(いせのきぬぬい)らの祖(おや)である。

伊勢国壱志郡に呉部郷がある

■大草香皇子の疑いが晴れる
即位14年4月(夏)。

天皇は呉人にあたえようと思い、群臣に次々に問いかけた。
「共食者(あひたげひと)には誰がよいだろうか」

群臣たちは言った。

「根使主(ねのおみ)が良いのでは」

天皇は根使主に命じ、共食者(あいたげひと)とした。
※共食者:賓客ともに食事をする係

根使主は石上(いそのかみ)の高抜原(たかぬきのはら)にて呉人と食事をした。
※石上は大和国山辺郡石上郷、高抜原は未詳とされる。

そのとき、ひそかに舎人(とねり)を遣わし、根使主が身に着けている装飾を視察させた。
かえってきた舎人は次のように報告した。
「根使主の玉縵(たまかづら)は太く、際立っており、とても良いものであった」

衆人(もろひと)たちも言った。
「前に使いを迎えた際も身につけていた」と。

天皇は自分も見たいと思い、臣連(おみむらじ)に命じて食事をする際の装いできなさいと殿(おおとの)の前へと呼び出した。

すると雄略の皇后である草香幡梭姫皇女が天を仰ぎみて嘆き悲んだ。

「なんの理由があって泣いているのか」と天皇は皇后に問いかけた。
皇后は床を降りて天皇や皇后は胡床などの高い座にいる)、こう言った。

「この玉縵(たまかづら)は、昔、わたくしの兄である大草香皇子(おおくさかのみこ)が穴穂天皇(あなほのすめらみこと、安康天皇から勅をたまわって、わたくしを陛下雄略天皇にたてまつった際、わたくしの為に献上された物です。

それで根使主を疑って、不覚にも涙を流した。
※根使主が讒言(ざんげん)をし、大草香皇子は無実の罪により安康天皇により殺害された
↓過去記事で根使主を魅了した財宝、押木珠縵を取り上げた

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■日根に逃げて稲城を築いた根使主
天皇はそれを聞き、はなはだ怒り、根使主(ねのおみ)を責めた。
根使主はこたえて言った。

「死罪死罪(うべなり)、まことにわたくしの過ちなり」

天皇は詔(みことのり)して言う。

「根使主を 子々孫々八十聯綿(うみのこのやそつづき)に群臣の例としてはいけない」
そしてまさに斬りかかろうとした。

根使主は逃げ隠れた。
日根(ひね、和泉国日根郡のあたり)に至って、稲城(いなき、稲の城)をつくって待ち戦った。
しかしついに官軍(みいくさ)につかまり殺された。

■二つの子孫にわけられた根使主
天皇は有司(つかさつかさ、役人)に命じ、根使主を二つの子孫に分けた。
半分を大草香部民(おおくさかべのたみ)として、皇后に奉じた。
※大草香部:和泉国大鳥郡日下部郷ではないかとされる

また半分を茅渟県主(ちぬのあがたぬし)に与え、負嚢者(ふくろかつぎびと)とした。

難波吉士日香々(なにわのきしひかか)の子孫を求めて姓を与え、大草香部吉士(おおくさかべのきし)とした。
その日香香(ひかか)らのことは穴穂天皇(あなほすめらみこと)の紀(みまき)にある。
※難波吉士日香々:大草香皇子の臣下。安康天皇によって大草香皇子が殺された際、大草香皇子の後を追って死んだ人物。

■坂本臣の由来と根使主の子、小根使主(おねのおみ)
事がおさまったあとのこと。
小根使主(おねのおみ、根使主の子)が人に語った。

天皇の城は堅くない。我が父の城は堅い」

天皇は人伝いにこのことを聞き、使いを送って根使主の宅(いえ)を偵察させた。
まことにその通りであった。
それゆえ、とらえて殺した。

根使主はのちに坂本臣(さかもとのおみ)となったのは、これが始まりである。

■まとめ
・呉国から身狭村主青らが帰国
・磯歯津路に続く道である呉坂を整備
・呉原に呉人を住まわせた
・漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)の衣縫は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫らの祖
・根使主の嘘により無実の罪で安康天皇により殺害された大草香皇子の疑いが晴れた
・根使主は2つの系統にわかれた
・大草香皇子の臣下であった難波吉士日香々の子孫が大草香部吉士となった