シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

366.大酒神社と大避、大闢、ダビデ

大酒神社の漢字にまつわる話を紹介。そしてそれより百済、ホータン、古代イスラエルまでがどうつながるかを紹介する。

次の流れで紹介していく。

・大酒神社(おおさけじんじゃ)について
・大辟について
・大酒神社の主祭神
・弓月と百済の国名は同じでは
倭の五王の時代にあった秦韓国
豊前国に存在していた秦王国
・七支刀はメノラーを模したもの
蘇民将来とホータン地区とワタ
・和田都見神社の三角鳥居とイソラエビス
磯良恵比須はイソラ・エル
・大酒神社の相殿神

■大酒神社(おおさけじんじゃ)について

秦氏を祀った神社である。

所在は京都府京都市右京区太秦蜂岡町。
場所としては広隆寺木嶋坐天照御魂神社蚕ノ社)、東映太秦映画村などはすぐ近く。

延喜式神名帳によれば大酒神社は元名が「大辟神」であったとの記載がある。
ゆえに元は「大辟神」であった。

↓はgooglemap、大酒神社

■大辟について

延喜式(延喜5年、905年に成立)以前において「避」という漢字は「闢」を使用していたのではないかという主張がある。

中国語でこの「大闢」はダビデを意味するという。

ダビデユダヤ人、古代イスラエルの王である。
在位・紀元前1000年~紀元前961年頃の人物。

ここまでをまとめると

・大酒神社の大酒は延喜式によればかつて大辟であった

・中国で大闢はダビデを意味していた

・大辟はかつて大闢であったのではないかという主張がある

■大酒神社の主祭神

主祭神
・秦始皇帝
・弓月王(ゆんずのきみ、ゆづきのきみ、ユツキノキミ)
・秦酒公(はたのさけのきみ)

である。

■弓月と百済の国名は同じでは

「弓月」の朝鮮語の音訓は"ku-tal"あるいは"kom-tal"などとされる。

百済の和訓(漢字に固有の日本語を当てて読むこと)は「クダラ」である。
よって同音、同義と考えられる。

ゆえに「弓月」は「百済」であったのではないかとされる。
※ほか「居陀(羅)」から取られた説もある。
百済はひゃくさい、百残ともされており、朝鮮半島三国時代の中でたくさんの小国がやがて統合されていった

倭の五王の時代にあった秦韓国
実際、倭の五王の時代にも秦韓国が存在していた。

倭の五王の称号から秦韓国が存在していた年代を示した回

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豊前国に存在していた秦王国
また、豊前国には秦王国が存在していた。

↓は隋書の秦王国が豊前国であることを示した回

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■七支刀はメノラーを模したもの

七支刀の紀年が示す年には諸説あるが、少なくとも369年~394年に百済から倭国に送られた刀であり、その形はメノラー、ユダヤ教のろうそく台を模したものであると考えられる。

↓は弓月国は中央アジアカザフスタンにあったと紹介した回

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蘇民将来とホータン地区とワタ

蘇民将来の物語が示す巨旦将来をたどるとホータン地区にたどりつく。

ワタの源流はホータン王国であったのではないか。ホータンは古代、仏教国であった。和田の地名は現在もなお残っている。

和田玉、翡翠が有名である。

↓にて和田、ワタの源流と考えられる秦氏のホータン地区とのつながりを紹介

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■和田都見神社の三角鳥居とイソラエビス
和田都見神社では、本殿から海に向かい、鳥居が5つたっている。
そのうち2柱は海中にある。
満潮や干潮を意識した鳥居になっている。

海幸彦、山幸彦の物語では
・潮の満ちる玉、
・潮の干る(ひる)
が登場した。

和田都見神社と関連があるのだろう。

なお、和田都見神社には三柱の鳥居が存在する。
これはのちの神社の鳥居の原型なのだろうか。
この三柱鳥居は磯良恵比須(イソラエビス)とされる。

↓和田都見神社の三角鳥居を紹介した回

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磯良恵比須はイソラ・エル
エビスは七福神の恵比須さまを示すが、本来エビスはエルであり、エルとは天の使いではないだろうか。すると、磯良恵比須はイソラエルとなる。
↓エルとは天の使いついて示した回

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■大酒神社の相殿神

続いて相殿神
兄媛命(えひめのみこと) - 呉服女。
弟媛命(おとひめのみこと) - 漢織女。

綿津見神(ワダツミ)の子供にトヨタマビメとタマヨリビメがいる。
姉がトヨタマビメ、妹がタマヨリビメである。

少なくとも系図上は天照大神の子孫と海神・豊玉彦命(ワタツミとも)とはトヨタマヒメにてつながる。

ワダツミ神社のある対馬は古代の日本と古代イスラエル人の末裔の合流地点であったのかもしれない。

系図についてはwikipediaタマヨリビメ にて確認できる
タマヨリビメ (日向神話) - Wikipedia

日本書紀応神天皇37年(306年)春二月条、同じく雄略天皇14年正月条などでクレハトリ、アヤハトリに関わる伝承があるという。

日本書紀の示す物語、神社の由来、祭の起源などが示す伝承ではいつ、どこで国と国との歴史が混じったのか、波状的に渡来しているためはっきりとしにくい。

しかし東へ、東へと、さまざまな土地で民族と交じりながら、そして最後、日本へとたどり着いた民族がいた。それが300~400年頃の時点でも相当数いたのだろう。

↓はクレハトリ、アヤハトリ伝承
クレハトリ・アヤハトリ伝承 - Wikipedia

<参考>

大酒神社 - Wikipedia弓月君 - Wikipedia
呉織 - Wikipedia
呉織・漢織(クレハトリ・アヤハトリ) | 池田市立図書館