鹿深の地に残る「油日」とは何か。次の流れで紹介していく。
・甲賀市甲賀町の白髭神社
・油日城跡(あぶらびじょうあと)
・鹿深の道(かふかのみち)
・油日神社(あぶらひじんじゃ)
・油日祭と油日神社の奴振(やっこふり)
・奴振り(やっこふり)
・感想
■甲賀市甲賀町の白髭神社
「白髭神社」という白髭の男性を想起する神社は全国にもたくさんある。
また、滋賀においてもいくつかあるが、滋賀県甲賀市にも白髭神社が存在する。
所在は滋賀県甲賀市甲賀町油日。
甲賀市において「油日」という地名が残る。
↓はgooglemap、白髭神社
■油日城跡(あぶらびじょうあと)
白髭神社から鹿深の道を挟んだ場所に油日城跡、そして油日神社がある。
油日城跡の築造時期や築造主は不明だが、甲賀五十三家(こうかごじゅうさんけ)のうちの上野氏ではないかとする説がある。上野氏はさらに甲賀二十一家のうちの南山六家。
甲賀五十三家は「鈎の陣(まがりのじん)」にて六角氏に味方した甲賀の地侍である五十三家のこと。
後の時代の甲賀流の忍術の中心となった家々であるという。
↓はgooglemap、油日城跡
■鹿深の道(かふかのみち)
壬申の乱が起きた時代において近江と伊賀の間を結ぶ道であったとされる。
※壬申の乱:672年に起きた内乱。第38代・天智天皇(諱は葛城)の後継者争い。天智天皇の息子であり皇太子の大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子が戦った。結果は大海人皇子が勝利した。
↓はgooglemap、鹿深の道
■油日神社(あぶらひじんじゃ)
南鈴鹿の霊峰とされる油日岳の麓に鎮座する。
油日大神(あぶらひのおおかみ)を祀る。
記紀などに油日大神の名前はなく、この地で千数百年の昔から篤い信仰が捧げられてきたという。
日本三代実録(にほんさんだいじつろく)にて平安時代の877年・元慶元年(がんぎょうがんねん)、「油日神」が従五位下を授かっており、これ以前から存在した古社であるという。
↓はgooglemap、油日神社
↓は油日神社公式ページ
↓はgooglemap、油日岳(あぶらひだけ)
■油日祭と油日神社の奴振(やっこふり)
歌の歌詞に起源が歌われる。
天元元年、978年4月を始まりとするという。
それを残したかったということだろう。
第64代・円融天皇の時代である。
祭り・踊りの設定は頭殿(とうどう)に仕えるお供であるという。
実際にこの祭りが栄えたのは江戸時代に入ってからの様子。
↓は滋賀・びわ湖観光情報、油日祭
■奴振り(やっこふり)
武家の供揃えに由来する民俗芸能の一種。
・挟箱(はさみばこ)
・立傘(たてがさ)
・台笠(だいがさ)
・毛槍(けやり)
などを所持する奴(やっこ)が行う独特の所作を示すという。
↓はwikipedia、奴振り
■感想
以下、非公式な見解である。
油日について。
鹿深の地は前記事に引き続き仏教の発展と縁の深い地域と推測される。
また土地柄、王権という日向の存在を支える影の存在だろうか。
油という地名について。アブラ、ユはユダヤのユ、そしてアブラハムと関係があるとして古代に名付けたものが残っていったのではないだろうか。
また、油を注ぐもの、は旧約聖書では救い主を表す言葉。キリスト教では塗油(とゆ)という聖職者が行う行為がある。
油日祭で歌われる歌詞では薩摩に関連がある。
もし「やっこ」の「奴」が「倭奴」やと関連があるとすれば、薩摩と関連がある。
奴(やつこ)は古代の隷属者、従者、臣下などを意味する言葉であるという。
注:ちなみに奴国は魏志倭人伝の時代の頃のかつての倭奴国(倭奴)の属国と考えられる。
<参考>
・壬申の乱 - Wikipedia
・奴振り - Wikipedia
・油日神社由緒:https://www.aburahijinjya.jp/images/yuisyokaki.pdf