今回は志賀海神社および神功皇后伝説を取り上げる。また神功皇后伝説に関連する豊功神社、満珠島、干珠島、忌宮神社を紹介。次の流れで紹介していく。
・志賀海神社(しかうみじんじゃ)
・志賀島の神功皇后伝説
・志賀島の金印
・志賀海神社の境内の鹿角堂(ろっかくどう)
・志賀島の金印
・奈良公園のシカのDNA
・豊功神社(とよことじんじゃ)
・満珠島・干珠島
・忌宮神社(いみのみやじんじゃ)
・まとめ
■志賀海神社(しかうみじんじゃ)
所在は福岡県福岡市東区志賀島。
海神の総本社。
龍の都とたたえられるとされている。
祭神は綿津見三神(わたつみさんしん)。
・左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
・中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
・右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
である。
それぞれに相殿があり、
・左殿相殿:神功皇后(じんぐうこうごう)
・中殿相殿:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
・右殿相殿:応神天皇(おうじんてんのう)
とされる。
神功皇后は出兵の際、志賀島の阿曇磯良を召された。
そして龍神より干珠満珠を授かった。
そして三韓を平定して帰還した。
■志賀海神社の境内の鹿角堂(ろっかくどう)
境内の鹿角堂(ろっかくどう、しかのつのどう、)には1万本以上ともいわれる鹿の角が奉納されている。その数からして「鹿」と強い関りがあることがわかる。
↓は志賀海神社の公式サイト
■志賀島の金印
57年に後漢の光武帝が倭の奴国王に授けたとされる金印は志賀島にて発見された。
↓は漢委奴国王の印について紹介した回
■奈良公園のシカのDNA
ところで、鹿といえば奈良公園。
そして奈良盆地のヤマト王権。
DNAの解析結果によれば、奈良公園などのシカはもともとは紀伊半島に住むシカであったとされる。
↓はAERAdot.、奈良公園のシカの由来に関する記事
続いて神功皇后について。
■豊功神社(とよことじんじゃ)
所在は山口県下関市長府宮崎町。
創建は1868年、明治元年。
旧藩主毛利家の霊屋として創建された。
神功皇后は三韓征伐の際、下関市長府に宮を置いて戦勝祈願をしたとされる。
境内から満珠・干珠を眼下に望むことができるとされる。
↓はgooglemap、豊功神社
■満珠島・干珠島
下関沖の周防灘に浮かぶ2つの島。
小規模な無人島。
忌宮神社(いみのみやじんじゃ)の飛び地の境内であるとされる。
伝説ではどちらが満珠島、干珠島かは言及されていないものの、忌宮神社は沖側・大きい方を満珠島、岸に近い側・小さい方を干珠島とする。
忌宮神社は仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在したとされる豊浦宮の跡とされている。
↓はgooglemap、干珠島
↓はgooglemap、満珠島・干珠島
参考①:関門航路事務所、満珠・干珠 満珠・干珠
■忌宮神社(いみのみやじんじゃ)
所在は⼭⼝県下関市⻑府宮の内町。
数方庭祭(すほうていさい)の伝承が残る。
8月7日から13日までの1週間に行われる祭。
その祭りの由来は、仲哀天皇7年に熊襲が新羅の塵輪(じんりん)の扇動によって豊浦宮を襲撃。
そして仲哀天皇は自ら弓矢を放ち熊襲を撃退。
その戦勝を祝い、塵輪の屍体を囲んで踊ったことが起源とされている。
↓は忌宮神社、神社概要
島根県益田市の石見神楽の演目のひとつに「塵輪」がある。
なお、仲哀天皇の別称は「帯中津日子命」。
ヤマトタケルの子で、神功皇后の夫とされる。
ヤマトタケルは西暦300年前後に活躍。
仲哀天皇は実在なら、そののち頃の人物か。
↓石見神楽、塵輪の演目が紹介されている
www.city.masuda.lg.jp
時にこの頃の朝鮮半島について。
高句麗が313年に楽浪郡を、314年に帯方郡を滅ぼした。
帯方郡については濊(わい)の協力があったともされる。
新羅にも影響があり、日本に逃れてきたのだろうか。
なお、卑弥呼の時代にもたびたび動乱があり、生活が脅かされていたとされるため、逃れてきた人たち=善良な人たちとは限らない。
歴史的には元は濊の土地に扶余、高句麗が入っている。
のち扶余族(高句麗、百済)と倭国との関連が4世紀以降で展開されていくことのきっかけなのかもしれない。
なお、満州地域がのちに渤海国に戻った際は、渤海国から日本に対しては頻繁に遣使が行われた。
■まとめ
神功皇后伝説にまつわり登場する国は
・三韓(高句麗、百済、新羅)
三韓征伐の根拠は
・仲哀天皇7年に、新羅の塵輪(じんりん)の扇動によって熊襲が豊浦宮を襲撃
関連する土地は様々あるが本記事では
・志賀島、阿曇磯良
・下関沖の周防灘の満珠島・干珠島
を扱った。
漢委奴国王の金印(国宝)については
発見時のいわくがあるにしても
・志賀島で見つかったとされている