シン・ニホンシ

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334.志賀海神社と山誉め祭~阿曇族の祝詞と君が代~

志賀海神社の山誉め祭とは。日本の国家「君が代」と山誉め祭の祝詞は関係がある。次の流れで紹介していく。

・山誉め祭とは
・山誉め祭の祝詞
志賀海神社の歴史

■山誉め祭とは
山誉め祭は志賀海神社の神事。
神功皇后三韓出兵の伝説にちなんだ行事である。

神功皇后対馬豊浦に滞在中、志賀の海士が海山の幸で饗応したとされることに基づくとされる。

現在は春と秋に
・春:4月15日、山誉種蒔漁猟祭
・秋:11月15日、山誉漁猟祭
が行われる。

以前は旧暦の2月15日と11月15日に行われ「狩漁(かりすなどり)の御祭」と称していた。なお「狩漁」とは海の漁と山の漁のこと。

この中の「狩」の行事では
・ひもろぎを折り執り、志賀三山(勝山、衣笠山、御笠山)を祓う
・次に、扇をとり「あーらよいやましげったやま」と三方の山をほめ拝む
・そして山誉めが終わり、ひもろぎに向い、鹿がいるという問答を行い、弓で鹿を射るという作法を行う
出典:福岡市の文化財、山ほめ祭の紹介ページより

bunkazai.city.fukuoka.lg.jp

↓はYOUTUBE、福岡黄金ロード、山誉め祭

www.youtube.com

■山誉め祭の祝詞
行事の中で次の祝詞が奏上される。

あーらよい山 
繁った山
あらふれる
正木の蔓(かずら)
いろまさる 
このこまに 
水をかい 
はみをあたえよ

山は深し
木の葉は繁る 
山彦(やまびこ)の声か 
鹿の声(かのこえ)
聞分けたりとも 
覚え申さず

(いち)禰宜殿(ねぎどの)には 
七日七夜の 
おん祭り 
ごしゅに食べ酔い
ふせって候

五尺の鹿
七かしら
八かしら 
おぐしの前を通る鹿
何となさる

その時は
志賀三社 
志賀大明神の
御力(みちから)をもって
一匹たりとも逃しはせぬ


君が代
千代に八千代に 
さざれいしの
いわおとなりて
こけのむすまで

あれはや
あれこそは
わがきみのみふねかや
すろうがせ 
みがいに命
千歳(せんざい)という

花こそ咲いたる 
沖のおんづの 
潮早(しおはや)
はえたらぬ
たいは沖の 
むれんだい
つるおにくわざらぬ 
潮は沖のむれんだいほや

志賀の浜 
長きを見れば 
いくよへぬらん
香椎路に向いたる 
あの吹き上げの浜 
千代に八千代まで
今宵 
夜半につき給う
御船こそ
たが御船なりけるや

あれはや
あれこそは
阿曇の君のめし給う
御船なりけるよ

いるかよ
いるか
潮早にいるか
磯良ヶ崎に
鯛釣るおきな

いくせで釣る
よせてぞ釣る

いくせで釣る
よせてぞ釣る

いくせで釣る
よせてぞ釣る

志賀海神社の歴史
創建は明らかではない。

古くは志賀島北部の勝馬
・表津宮:表津綿津見神
・仲津宮:仲津綿津見神
沖津宮底津綿津見神
の三社が建てられ、綿津見三神がそれぞれ祀られていた。

2世紀から4世紀の間に
・表津宮を勝山の麓である現在の場所に遷座
・あわせて仲津綿津見神表津綿津見神が奉祀された
と伝えられている。

志賀海神社綿津見三神を祖神とする阿曇族が代々にわたって奉斎してきたとされる。
阿曇氏に関わる歴史としては

・806年(大同元年)平城天皇のとき、阿曇神に神封八戸が寄進された
・859年貞観元年)清和天皇のとき、従五位上の神階が授けられた
南北朝の頃には衰微するが、大内持世(おおうちもちよ、室町時代中期の守護大名、生没年は1394年~1441年)が再興する
・戦国時代では、豊臣秀吉は50石を寄進、小早川隆景黒田長政なども崇敬したとされる。
出典:志賀海神社|志賀海神社について をもとに若干、編集

君が代の作詞は古今和歌集の短歌のひとつとされる。実際はが、古今和歌集の短歌と阿曇族の起源が大きく関わっていたことになるだろうか。

↓は過去記事にて国家・君が代の成立過程について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

<参考>
・福岡県の文化財 山ほめ祭 https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=3&id=30
大内持世 - Wikipedia
平城天皇 - Wikipedia

清和天皇 - Wikipedia