テュルク系民族が高志国、古代の北陸に渡来していたと考えられる。根拠となる加賀にまつわる事象を取り上げる。5世紀頃の日本の謎を解く手がかりとなる。次の流れで紹介していく。
・テュルク系民族
・中央アジアの民族は日本に渡来していた
・土耳其とトルコ
・カガンとハトゥン
・カガトゥン(可賀敦)
・高志国・越国(こしのくに)
・胎内
・阿倍氏の祖による高志国の鎮圧
・阿倍比羅夫の粛慎討伐
突厥はモンゴル高原で活動していたトゥルク系遊牧民、トルコ人。
古代の日本人はこの突厥を認識していた。
日本書紀668年、天智天皇7年の是の月(7月)、突厥に関する次の記述がある。
是の月に、蘇將軍(そしょうぐん)と突厥の王子・契苾加力(けいひつかりき)らと水陸・二路(みずくぬがふたみち)よりして、高麗(こま)の城下に至る。
皇太子(同母弟の大海人皇子、のちの天武天皇)は長津宮(ながつのみや)に遷っていた。
ようやくに水表(おちかた、海外のことでその情勢をさす)が聴こえてきた。
よって、古代日本人は突厥を知っていた。
歴史的には突厥は582年に東西に分裂、そして8世紀、東西の突厥とも滅亡した。
↓は突厥について取り上げた回
古代のトルコ人が当時の日本にどう関わったのか。
まずは当時の周辺国と考えられる、ソグディアナから。
■中央アジアの民族は日本に渡来していた
中央アジアの民族は日本に渡来していたと考える。
中国の史書ではソグディアナは粟特(ぞくとく)と記される。
このソグディアナの音韻にまつわる記述が猿田毘古神がヒラブ貝に手をかまれて溺れた際に生まれた3神の名前に眠っている。
なお、ソグディアナとはおよそウズベキスタン共和国となる。
その3神とは
・底度久(ソコドク)
・都夫多都(ツブタツ)
・阿和佐久(アワサク)
である。
ソグディアナと底度久御魂がどうつながるのか。
底度久(ソコドク)だけでもゾクトクに近い。
また、粟特(ゾクトク)を「アワトク」と読ませている。
さらに阿和佐久と都夫多都から阿和、都、久の文字を拾うと「あわとく」が成立する。
この時の残りの文字は佐、夫、都、多となる。
このうち「夫、都、多」を使うと「ブッダ」となる。
よって、
・粟特(ゾクトク)はアワトク
・ブッダ
これらの歴史を3神の神の名の音韻や文字に埋め込んだと推定される。
↓はソグディアナについて取り上げ、ゾクトク、アワトク、ブッタの音韻の謎を解明した回
なぜ「ブッダ」が埋め込まれているのだろうか。
それは仏教が中央アジアから韓国経由で日本に渡来しているからと考えられる。
大乗仏教などはインドから北上、ホータン国などを経て、東方に向かい、やがて高句麗、百済を経て日本に伝わったと考えられる。
後世に伝わる「蘇民将来」に登場する「コタン」はホータン(コタン)国のことであると考えられる。
中央アジアの民族(の一部)が、古代、日本にも渡来していたのではないか。
↓はホータン王国と仏教について取り上げた回
↓は蘇民将来について取り上げた回
続いて、聖徳太子の頃の時代。
日本の古代、「トジコ」や「イラツメ」の人物名を持つ人たちがいる。
トジには「刀自」があてられている。
また、聖徳太子の時代頃。
歴史的に見ても、原始キリスト教であるネストリウス派も渡来していたとみてほぼ間違いない。
厩戸皇子は馬小屋から生まれたとされるキリストに例えて名付けられたという説は有名である(ただし、キリストは馬小屋からではなく家畜の小屋であるという説も)。
また、中国や台湾などの中国語圏ではトルコを「土耳其」と当てる。
土耳其の「耳」を、
「ル」と読めばトルコ。
「ジ」と読めば「トジコ」となる。
↓はトジコついて取り上げた回、ほかイラツメについても扱った
テュルクに戻る。
「カガン」と「ハトゥン」を紹介。
■カガンとハトゥン
「カガン」は古代のテュルク語。
古代の北方遊牧騎馬民族の君主号の一つとされる。
漢語では「可汗」「可寒」とされる。
また、中央ユーラシアにおいて、主に遊牧国家の君主の「后妃」が名乗る称号に「ハトゥン」がある。
これを使用した王朝や民族に
・鮮卑
・柔然(402年~555年)
・アヴァール(5世紀~9世紀)
などがある。
鮮卑では、夫余語との共通点が注目が注目されているという。
また鮮卑である檀石槐(155年? - 181年?)以前の部族長に大人(たいじん)があるという。
日本でも大人をウシと読んでいたことがある。
古代日本におけるウシ関連では次の人物たちがいる。
・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の別名に于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)とウシが入る。
・彦主人王(ひこうしのおう):継体天皇の父
・飛鳥時代の人物に紀大人(きのうし)
・和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノカミ)
などがいる。
馬冑(ばちゅう)が出土している古墳がある。
福岡、埼玉、そして和歌山である。
九州・熊本付近のヤマト国からヤマトタケルの東征が開始、福岡・伊都国の協力を経て、和歌山や近畿を平定、その後関東に上陸。
埼玉や千葉にはユダヤ人が残った。
あるいは関東にはさらに古代からユダヤ人が渡来していたと推測される。
和歌山にはほぼ確実に早くに中央アジアからの民族が渡来したのだろう。
古代の和歌山、「紀伊国(きのくに)」の「キイ」についても、もしかすると「ターキー」の「キイ」から名づけられているのかもしれない。
↓は馬冑(ばちゅう)について取り上げた回
なお、新羅の蔚珍鳳坪碑にも「大人」の文字が見える。
当然、朝鮮半島にも渡来していただろう。
↓新羅の蔚珍鳳坪碑では「大人」の文字がみられる
↓大人(うし)が登場した回、日本書紀では「煩神」、和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシノカミ)とも
■カガトゥン(可賀敦)
先述の通りで「ハトゥン」は中央ユーラシアにおいて主に遊牧国家の君主の「后妃」が名乗っていた称号という。
この起源は鮮卑・突厥時代にまで遡るという。
「ハトゥン」は古くはカガトゥン、「可賀敦」であるという。
この、カガトゥン(可賀敦)は気がかりな言葉である。
まず、石川県は加賀(カガ)と呼ばれた。
さらに、福井に敦賀市がある。
カガンやカガトゥンの「カガ」が入る。
さらにはカガトゥン(可賀敦)の「賀敦」の漢字を入れ替えると「敦賀(ツルガ)」と一致する。
ツヌガアラシトこと、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)は意富加羅国(大加耶、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子であったという。
そして「敦賀(つるが)」の由来とされる人物という。
音韻や地名、日本書紀などにまつわるエピソードからすれば、ツヌガアラシトは加賀に渡来していた、鮮卑ことトルコ由来の人物と推定される。
テュルクに「ツル」の音韻が残り、敦賀(つるが)に「ツル」が残るのも、このためだろう。
北陸の、古代の高志国・越国である、敦賀(福井)や加賀(石川)がこの地方の繁栄に貢献したのだろう。
■高志国・越国(こしのくに)
越国(こしのくに)は現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域。
日本の古代、大化の改新以前の呼称とされる。
高志はいつからあったのだろう。
7世紀後半に書かれた木簡に「高志」の文字があるという。
北陸地方は、渤海などの国からの渡来が行われやすい地域である。
加賀国について。
加賀は668年に燃える水を天智天皇に献上している。
689年~692年、大宝律令による令制国の設置に伴って越前国、越中国、越後国に三分割された。
畿内に近い順に、越前、越中、越後の順である。
のち、次の分立があったという。
・越前国より能登国、加賀国が分立
↓は渤海国と日本の交易を取り上げた回
↓は牛の信仰を取り上げ、扶余族や古志の国などを扱った回
↓燃える水について紹介、加賀国についても扱った
■胎内の城の山古墳
城の山古墳(じょうのやまこふん)の所在は新潟県胎内市。
形式は円墳。
4世紀前半の築造という。
龍を浮き彫りにした銅製の盤龍鏡が出土、中国の1世紀~3世紀のデザインのものであるとされ、ひじょうにめずらしいものとされる。
古墳の大きさは東西41m、南北35mで楕円形。
被葬者は舟木木棺内に被葬されていた。
棺周辺部に赤色の顔料が大量に用いられているという。
「胎中」について。
応神天皇の名前に、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)がある。
「胎中」が新潟の「胎内」に残るのも、先祖が関係しているからではないか。
天皇の系統は応神天皇から武烈で途絶える系統と、応神から継体天皇へ続く系統に分かれる。
■高志国というネーミング
高志国の「高志」はどのように名付けられたのか。
北陸にテュルク系民族が渡来していたのではないか。
高志は「ターキッシュ / Turkish」の音韻から名付けられたのではないか。
応神から稚野毛二派皇子、意富富杼王、乎非王、彦主人王、継体天皇と続く。
このとき、先述の「彦主人王(ひこうしのおう)」は越前国にいたとされる。
継体天皇は
・古事記では近江国を治めていたとする。
・日本書紀では越前国を治めていたとする。
当時気候変動により寒冷化していた時代。
突厥やユダヤ人が、それぞれ、あるいは混じりながら朝鮮半島付近に来ていたのだろう。やがて、北陸にも船で渡来したのだろう。
時代はいつだろうか。
ヤマトタケルの東征が300年前後とされる。
継体天皇の青年が450年頃とされる。
よって、突厥などの渡来は300年頃~450年頃の間だろうか。
エフェソス公会議が431年。
よって早くはこの前頃から、この時代の西方の民族が東へ移動しているのだろう。
「敦賀」と「ツヌガアラシト」と「額角有人」、「ヒラクリティ」が突厥のようでもあり、ユダヤ教徒でもありそうな人物として混じっているのはこのためだろうか。
■阿倍氏の祖による高志国の鎮圧
古事記において、
大彦命が高志国にて童謡(わざうた)を歌う少女に会う。
そして大彦命(阿倍臣の祖)は建波邇安王の反乱を知り、天皇(すめらみこと)に伝える。
そして、大彦命、そして丸迩臣(わにおみ)の祖(おや)である日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)を派遣し平定させたという。
この物語で
・大彦命:阿倍臣の祖
・日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと):丸迩臣(わにおみ)の祖(おや)
という、阿倍臣、そして丸迩臣といった氏族の祖の功績が示される。
↓はターキー朝の王を阿倍臣、丸迩臣の祖が討ったことを示した回
そして、時代は、阿倍比羅夫の時代、古事記や日本書紀成立の手前の時代に。
阿倍氏は越・北陸道方面で活躍したとされる氏族。
阿倍比羅夫は7世紀中期の将軍。
阿倍比羅夫は越国守、後将軍、大宰帥を歴任した。
↓は阿倍比羅夫を取り上げた回
また阿倍比羅夫は
そして白村江の戦い。
扶余豊璋、上毛野稚子、阿倍比羅夫らは白村江の戦いにて百済復興を目指す。
日本と百済遺民、耽羅(たんら、現在の済州島)の軍は663年、白村江(現在の錦江河口付近)において唐・新羅の連合軍と戦う。しかし、唐・新羅の前に敗れることとなった。
↓は阿倍比羅夫と白村江の戦いについて取り上げた回
■阿倍比羅夫の粛慎討伐
阿倍比羅夫は粛慎(みしはせ、あしはせ)の討伐を行っている。
粛慎とは。
中国の文献に、紀元前に存在した粛慎(しゅくしん)があるという。
これはツングース系の民族であったという。
よって、少なくともツングース系民族が渡来していたとすることは確定的と思われる。
ただし、テュルクとツングースは同一ではない。
なお、ツングースの語源がテュルクにあったとする説もみられる。
以上、阿倍氏の祖である大彦命らがターキー朝の存在をにおわせる、武埴安彦命(たけはにやすのみこと)を討ったのだろう。
粛慎討伐のように、渡来した民族が、同じく渡来していた他の民族を討ったのだろう。
“阿倍比羅夫”の”粛慎討伐”のみを取り上げると、”粛慎”が何であったかをとらえることはできない。しかし、阿倍氏の祖に討たれた"武埴安彦"などにまで遡ると、見えてくる歴史がある。
やがて古事記成立近辺の時代、阿倍氏である阿倍比羅夫は高志国である越国において越国守ともなっている。また百済救済のために白村江の戦いにも赴いた。
664年(天智天皇3年)、冠位二十六階の大錦上となっている。
次回は古代朝鮮の「扶余族とツングース」を取り上げることで、西方、朝鮮半島、日本までの歴史をつないでいく。
<参考>
・テュルク系民族 - Wikipedia
・タジク人 - Wikipedia
・東突厥 - Wikipedia
・カガン - Wikipedia
・西突厥 - Wikipedia
・柔然 - Wikipedia
・鮮卑 - Wikipedia
・370.天智天皇・即位7年、越の国から献上された燃える水と胎内市の城の山古墳 - シン・ニホンシ
・檀石槐 - Wikipedia
・紀大人 - Wikipedia
・都怒我阿羅斯等 - Wikipedia
・彦主人王 - Wikipedia
・城の山古墳 - Wikipedia
・阿倍比羅夫 - Wikipedia
・ツングース系民族 - Wikipedia
・粛慎 (日本) - Wikipedia