ホータン(コタン、あるいは于闐、和田)は新疆ウイグル自治区の最南端のオアシス都市。ホータンはかつて仏教国家であった。そして蘇民将来の話の巨旦将来のコタンはホータンと考えられる。次の流れで紹介していく。
・ホータン
・ホータン川とタリム川
・ヤルダンとは
・楼蘭
・ミーラン遺跡
・且末国(しょまつこく)
・精絶国(ニヤ遺跡)
・ダンダンウィリク遺跡
・鼠王図(そおうず)
・蚕姫の板絵
・絹の守り神とシヴァ
・尉遅一族(うっちいちぞく)
・玄奘三蔵の弟子の基と道昭
・スリランカのウィジャヤ (Vijaya)
■ホータン
中央アジア、タリム盆地の南に崑崙山脈がある。
ホータンはその崑崙山脈の北の麓のオアシス都市。
↓はgooglemap、ホータン地区
古代のホータンはシルクロードの中継地として、そして玉の生産地として繁栄した。
ホータン王国はコータン王国とも、あるいは于闐(うてん)とも呼ばれた。
于闐(うてん)は紀元前3世紀には栄えていたとされる。
優れた仏教美術を生み出した。
正式にはホータン王国は56年~1006年頃の国とされる。
11世紀頃、イスラムの支配を受け、住民もイスラム化していったという。
↓は蘇民将来、巨旦将来について取り上げた回。この巨旦(コタン)はホータン国と推測される
■ホータン川とタリム川
ホータン川(和田河)はタリム川の支流のひとつ。
ホータンには東に白玉河が流れる。
そして西には黒玉河が流れる。
この白玉河、黒玉河に挟まれたオアシス都市である。
ホータン川は崑崙山脈の氷河が溶けた水とされる。
ホータン川はタリム川と合流する。
そしてタリム川は死の海とも称されるタクラマカン砂漠を全長1850kmに渡り東西に流れるという。
タリム川は北へ移動しているという。
タリム盆地南側の崑崙山脈が1年に25mの速度で隆起するのに対し、北側の天山山脈の隆起が1年で10mm程度であるため、南側が高くなることで、その高低差によって北へ移動すると考えられている。
このタリム川はプトレマイオスの地図にも描かれているという。
プトレマイオスの地図は西暦150年頃の、ローマ帝国によって知られていた世界による地図。
■ヤルダンとは
ヤルダンとは風によってつくられた凹凸の岩を意味するウイグル語。
風によって長い年月をかけてつくられた大自然の彫刻であるされる。
ヤルダンは中央アジアでみられる地形とされる。
↓はwikipedia、ヤルダン
■楼蘭
楼蘭は中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部にかつて存在した都市。
↓はwikipedia、楼蘭
ロプノールは幻の湖ともされ、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部に、かつて存在した内陸湖。
ロプノール付近にある高さ10mのヤルダンの頂上はかつては湖底であったという。
湖が出現したり、消滅したりしたとされる。
その湖の1つがロプノールであったとされる。
↓はwikipedia、ロプノール
楼蘭は5世紀に滅亡したとされる。
漢、匈奴などによって侵略、支配をうけたことや、ロプノールが干上がってしまったことが原因ではないかとされる。
■ミーラン遺跡
中華人民共和国新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州チャルクリク県に位置する遺跡群。
西域南道は古代の幹線ルートで、このミーランは楼蘭の寺町だったと考えられている。
やがて川の流れが変化、乾燥化し廃れてしまったという。
↓wikipedia、ミーラン遺跡
■且末国(しょまつこく)
中国新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州の県。
現在のチェルチェン。
漢書西域伝ではかつて且末国(しょまつこく)があったという。
チェルチェンは6世紀ごろまで栄えたが廃墟となったという。
且末城跡が残っている。
現在のチェルチェン東に7kmほどの位置という。
■精絶国(ニヤ遺跡)
ニヤは中国新疆ウイグル自治区ニヤ県の都市遺跡。
紀元前1世紀~紀元4世紀に栄えたとされる精絶国(チャドータ)の遺跡とされる。
以上のように楼蘭、ミーラン、且末国、精絶国(ニヤ)は砂漠の砂に埋もれていった。
そして西域南道のルートは南へ移動したという。
↓はwikipedia、ニヤ遺跡
■ダンダンウィリク遺跡
オーレル・スタインにより1900年に発見された。
かつてのホータン王国のオアシス都市で、ホータンの北東150kmにダンダンウィリク遺跡がある。
崑崙山脈からの川が流れていたとされるるが、現在はタクラマカン砂漠の中にあり、廃墟となっている。
8世紀ごろは繁栄していたという。
↓はwikipedia、ダンダンウィリク
ダンダン(象牙)ウィリク(家)は「象牙の家」を意味してスタインが名付けたという。
ダンダンウィリク遺跡はイスラム教伝来前のもので于闐国の第二の都とされる。
↓はwikipedia、オーレル・スタイン
この遺跡から15の寺院跡、壁画、板絵、複数の遺体が発見されている。
■鼠王図(そおうず)
昔、数十万の匈奴が于闐を襲撃した。
国王は対応に苦慮していた。
すると一匹の大鼠が現れた。
この鼠が匈奴の襲撃から于闐を救ったという。
この鼠の伝説を描いたものが「鼠王図(そおうず)」とされる。
■蚕姫の板絵
養蚕技術を于闐に伝えたという蚕種西漸伝説(さんしゅせいぜんでんせつ)を描いた、「蚕姫」の板絵が発見されている。
この板絵には奇妙な人物が描かれており、機織りの道具を手に持ち、絹の守り神ではないかとされる。
■絹の守り神とシヴァ
別の板絵で絹の守り神の姿がペルシャ風の顔つきで描かれている。
またこの板絵の裏ではインドのヒンドゥー教の最高神、シヴァが描かれている。
1枚の板絵に中国、ペルシャ、インドの文化が同時に存在していることが特徴的であるという。
また、ダンダンウィリクで7世紀頃に描かれたとされる女性の壁画みつかっている。
原色のままであるという。
于闐で生まれた独特の画風は敦煌を経て、日本の法隆寺にも影響が残るという。
■尉遅一族(うっちいちぞく)
于闐国(うてんこく)は尉遅一族によって紀元前242年に起こったとされる。
尉はウツと読むとされる。
のちの中国の人物に次の人物がみられる。
・尉遅乙僧(うっちいっそう)
唐の画家で于闐国(ホータン国)出身とされる。西域の画法を唐に伝えたという。
参考:尉遅乙僧 - Wikipedia
・尉遅迥(うっちけい)
生没年は不明~580年。
中国の西魏・北周の軍人で政治家。
参考:尉遅迥 - Wikipedia
・尉遅敬徳(うっちけいとく)
生没年は585年~658年。
中国の唐の軍人。
↓はwikipedia、尉遅敬徳
ほか、
・尉遅菩薩:北魏の武人
・尉遅綱(うっち こう、517年 - 569年):西魏・北周の武人、尉遅迥の弟。
・尉遅運(うっち うん、539年 - 579年):北周の軍人。尉遅綱の子。
・尉遅熾繁(うっちしはん、566年 - 595年):尉遅迥の孫娘。中国・北周の宣帝の皇后のうちの一人。
・基(き):中国の僧。姓は尉遅氏、字は洪道。父は唐の左金吾将軍の尉遅宗(尉遅敬徳の従弟)。
17歳で出家、玄奘三蔵(生没年:602年~ 664年)に師事したという。
・尉遅勝(うっち しょう):ホータン王国の国王。生没年は不明。安禄山の乱(755年~763年)では唐を援助したとされる。安禄山は西域のサマルカンド出身。ソグド人と突厥の混血であるという。
ホータン国の国王の姓はヴィジャヤ(Vijaya)で、あるという。
その漢字の尉遅や伏闍は音写ではないかとされる。
↓はwikipedia、尉遅
■玄奘三蔵の弟子の基と道昭
玄奘三蔵と日本の関係について。
玄奘三蔵(生没年:602年~ 664年)の弟子に上述の基(き)、道昭がいることが知られる。
道昭は629年(舒明天皇元年)~700年(文武天皇4年)の僧。
653年に遣唐使の一員として定恵らとともに入唐、玄奘三蔵を師事、法相教学を学んだ。
↓はwikipedia、玄奘
■スリランカのウィジャヤ (Vijaya)
スリランカの最初の王とされる人物もヴィジャヤである。
在位は紀元前543年~紀元前505年頃の人物。
その後、紀元前483年にスリランカに上陸、シンハラ朝を築いたという。
↓はスリランカのウィジャヤ (Vijaya)
スリランカには仏教は紀元前247年頃に伝来したという。
↓はwikipedia、スリランカの仏教
<参考>
・講談社版 新シルクロード歴史と人物 第11巻 ホータンと水の都の物語
・ホータン川 - Wikipedia
・タリム川 - Wikipedia
・チャルチャン県 - Wikipedia
・尉遅 - Wikipedia