シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

397.太安万侶とジガバチ

前記事では太安万侶墓誌をもとに判明している太安万侶、そして同時代の奈良の墓誌を取り上げた。今回は太安万侶をテーマとし、わかる古代の事象を取り上げていく。次の流れで紹介していく。

・多氏(おおし/おおうじ/おほし)
阿蘇
・大分君
多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)
多坐弥志理都比古神社主祭神の人物関係と神八井耳命
神八井耳命とヤイル
中央アジアとイラン、トルコ
・多品治(おおのほんじ)
大野東人(おおののあずまびと)
・少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)
・スガルの物語が意味すること

■多氏(おおし/おおうじ/おほし)

太安万侶古事記を編纂した人物。
716年に太氏(多氏)の氏長となった。

多氏は
・太
・大
・意富
・飯富
・於保
とも記される。

多氏の子孫は

・九州を中心に繁栄した系統
・中央豪族で繁栄した系統
・東国に繁栄した系統
があるという。

九州を中心に繁栄した系統は

・火君(火国造)
・大分君(大分国造)
阿蘇阿蘇国造)
・筑紫三家連
・雀部臣
・雀部造
・小長谷造
・伊余國造
など。

中央豪族で繁栄した系統は

・多朝臣
・意富臣
・小子部連
・坂合部連
など。

東国に繁栄した系統は

・科野国
・道奧石城國造
・常道仲國造
・長狭国造
・伊勢船木直
尾張丹波(丹羽県主)
・嶋田臣
などがあるという。
国造や県主になっている例が多いとされる。

↓はwikipedia、多氏

ja.wikipedia.org

阿蘇

阿蘇君は律令時代に阿蘇神社の神主家となった豪族。

過去記事にて阿蘇神社やクルソンを取り上げた。
その際、阿蘇神社は推古天皇の命により創建されたと考えられることを紹介。
一方、
健磐龍命(たけいわたつのみこと)/阿蘇都彦命(あそつひこ)
八大竜王とも関係する人物である。

阿蘇の古代史での影響を紹介した回にて阿蘇神社を取り上げた

shinnihon.hatenablog.com

↓クルソンを取り上げた回にて過去七仏から健磐(たていわ)が登場した

shinnihon.hatenablog.com

■大分君
大分氏(大分君)豊後国大分郡の豪族。
後裔に大分恵尺(おおきだのえさか)がいる。
壬申の乱(672年)では大海人皇子天武天皇側の功臣とされる。

大分県大分市三芳の古宮古(ふるみやこふん)、九州で唯一の畿内型の終末期古墳に埋葬されたと有力視されている。
宮古墳の形状は方墳。
大きさは一辺が12m。

多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)
所在は奈良県磯城郡田原本町

式内社名神大社

多社、多坐神社、太社、意富(おお)社とも。

主祭神は次のとおり。

・第一社:神倭磐余彦尊神武天皇神八井耳命の父)
・第二社:神八井耳命神武天皇皇子)
・第三社:神沼河耳命綏靖天皇神八井耳命の弟)
・第四社:姫御神玉依姫命神八井耳命の祖母)

そして「太安万侶」が祀られているという。

当地は多氏の拠点で多氏の祖神の神八井耳命が祀られているという。

多坐弥志理都比古神社主祭神の人物関係と神八井耳命

上記の人物関係を整理すると

神武天皇がおり、
・その子供が神八井耳命(兄)、神沼河耳命(弟、綏靖天皇
・そして玉依姫命神八井耳命の祖母

という関係にある。

ただ神武天皇は実在の人格のある人物ではない。
天之御中主神ヤマトタケルの東征などの事績が合成されているという。
一方で玉依姫命は人格のある人物である。

古事記
旧約聖書アブラハムヨシュアまでの人物関係
・アマテラス~崇神天皇までの人物関係
が一致しているとの説がある。

書籍になっていたり、あるいはそれよりももっと早くから指摘していた方がいらっしゃる。

神八井耳命とヤイル

神八井耳命とは。

綏靖天皇を取り上げた回で五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)手研耳命(たぎしみみのみこと)神八井耳命(かんやいみみのみこと)、神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)が登場した。
綏靖天皇を取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

伊都許利命は神武天皇の皇子・神八井耳命(かんやいみみのみこと)の八代目の御孫とされる。千葉と伊都許利命は関係がある。

↓千葉の印旛国造・伊都許利命について紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

古事記の人物関係が旧約聖書をもとに考えられていた可能性がある。

するとこのカンヤイミミは旧約聖書の人物から考えられた可能性はあるだろうか。
候補として「ヤイル」がいる。

ヤイルはユダ族のヘツロンの孫である。
セブグがマナセ族の妻によって産んだ子。
マナセ族の領地で23の都市を攻略したとされる人物。
ユダ→ペレツ→ヘツロン→・・・→ダビデとつながる人物の、ヘツロンの孫。

↓はwikipedia、ヘツロン

ja.wikipedia.org

↓はwikipedia、ヤイル

ja.wikipedia.org

なぜヤイミミがヤイルと読めるのか。

古代の中央アジアの民族が耳(ミミ)・ジを「ル」と当てた可能性がある。

トルコの当て字が「土耳古」である。

↓トジコやイラツメが出現する時代を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

中央アジアとイラン、トルコ

トルコと古代日本がどうつながるのか。

日本書紀の668年、天智天皇7年の是の月(7月)にはトルコ系(トゥルク系遊牧民突厥に関する記述がみられる。このころトルコ(突厥)の名前を子にあてた可能性が高い。同様に、イラツメの「イラ」もアーリア人(イラン)から取って名前に当てた可能性が高い。

↓トルク系遊牧民突厥を取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

中央アジア
・サカ
・マッサゲタイ
・塞
烏孫
・康居
バクトリア
・ソグド人
・マルギアナ
などはイラン人との関わりがあった国とされる。
これがやがてトルキスタン、トルコ系の国になっていく。

日本書紀でも記述のある秦氏中央アジアの弓月国から来たと記されている。

■多品治(おおのほんじ)
672年の壬申の乱大海人皇子天武天皇)の側で戦った。
そして莿萩野を守り、敵を撃退したとされる人物。

久安5年(1149年)に謹上された「多神宮注進状」では多品治の子が太安万侶であるとされているという。

壬申の乱が起こった時、多品治は美濃国の安八磨郡安八郡の湯沐令(ゆのうながし)だったとされる。
↓はwikipedia、多品治

ja.wikipedia.org

大野東人(おおののあずまびと)

多氏に関連のある太安万侶の時代と近い人物に大野東人(おおののあずまびと)がいる。

糺職大夫の大野果安の子とされる。

糺職大夫は弾正台にあたる官司。

弾正台とは監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の一つ。

律令制下の太政官制に基づき設置された。

古代の律令体制における監察・警察機構。

魏志倭人伝に記される九州・伊都国に存在した一大卒の後裔となるものだろうか、役割が似ている。

「伊都国」「奴国」には考古学的に王墓があり、王の存在が示されている。

↓奴国、伊都国の違いについて取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

大野のつく人物に大野果安(おおのはたやす、おほののはたやす)がいる。
大野東人の父である。
生没年は不明。
672年の壬申の乱に関わる人物。

ちなみに当時の「果安(はたやす)に関する人物が複数いる。

大野果安のほか
蘇我果安
・出雲果安
がいる。

蘇我果安(不明~672年)について。
大海人皇子壬申の乱に踏みきり美濃国の不破に兵を集めてそこに移る。
この際、山部王、蘇我果安、巨勢比等(巨勢人)が大海人皇子を討つべく不破に向けて進発したという。
しかし山部王は果安と比等に殺害され混乱、進軍が滞ったという。
その後、果安は自殺、また果安の子は乱の終結後に配流されたという。

出雲果安は和銅元年(708年)に第25代出雲国造となった人物である。

↓はwikipedia大野東人

ja.wikipedia.org

↓はwikipedia大野東人の父、大野果安

ja.wikipedia.org

↓はwikipedia蘇我果安

ja.wikipedia.org

↓はwikipedia、出雲果安

ja.wikipedia.org

ここまでを振り返ると、
・伊都国=意富→多氏
・九州・阿蘇

などが多氏とつながりがあることが推測される。

具体的には多氏こと伊都国に渡来していた民族がヤマトタケルの東征を援助。
その分布とその地位からして土着の人物ではなく、遊牧民的に、全国各地に散らばっていった渡来系民族であったのではないだろうか。

また250年頃~720年頃の当時、武人あるいは文官としても才能豊かな民族であったと推測される。

続いて、多氏とハチのつながりについて。

■少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)
蜾蠃(以降、スガル)日本書紀日本霊異記などで登場する雄略天皇時代の豪族とされる。
神八井耳命の子孫であるとされる。
ゆえに多氏とつながりがある。

上述の「多品治」の由来の根拠となった「多神宮注進帳」では少子部蜾蠃は多武敷の子で、多清眼の弟とされる。
そして多清眼の11世孫が小錦下・多品治であるという。

スガル→・・・多武敷→多清眼(兄)→多品治(多清眼の11世孫)

という関係である。

日本書紀雄略天皇六年三月の条(推定462年)にスガルに関する不思議なエピソードがいくつか紹介されている。

雄略天皇から日本国内の蚕(こ)を集めるよう命令されたこと。
このときスガルは誤って児(嬰児)を集めてしまう。これが発端となって子供たちを養育させるために少子部連の姓を賜った。

雄略天皇から「私は三輪山の神の姿を見たい。お前は腕力が優れているから、行って捕らえてこい。」と命令されたこと。
このときスガルは「ためしにやってみましょう。」と答え、三輪山に登って大蛇を捕らえ天皇に献じた。

大蛇が雷のような音をたてたため、雄略天皇は目を覆って殿中へと逃げ込む。大蛇は山に放たれその山を雷(イカズチ)と名付けた。

などが示される。
ほか、日本霊異記でもスガルにまつわるエピソードがみられる。

■スガルの物語が意味すること

かつての三輪山オオクニヌシスクナビコナから、雄略の時代には権力が移っていることを象徴したエピソードなのだろうか。

また、鹿島神宮などとも関連のあるミカヅチイカヅチ)の話を挿入していることも気がかりである。
鹿島神宮タケミカヅチと関連のある日本神話に登場する神。
蘇我比咩神社ではこの武甕槌(たけみかづち)をタケミカヅキと読んでいる。
タケ(筑紫)に月の国(ミカヅキ)から来た民族を示していた可能性がある。

また「スガル」はジガバチの古名とされる。

不思議なエピソードをいくつも紹介しているため、

・多氏に関する話をいくつも入れた

か、あるいは

・ジガバチ=滋賀(?)のことだろうか。あるいはジガバチのような細い体や風習を持つ渡来民族がいた可能性も考えられる。

神八耳のハチ、ジガバチのハチなど古代の人にとって「ハチ」は特別な意味があったのだろう。

大八洲(おおやしま、日本の古称)、八雲(やくも)八咫鏡(やあたのかがみ)、八十(やそ)、八重桜などハチには明らかに特別な意味がある。
ハチは8で末広がり、繁栄発展、無限を意味する数字でもある。
↓はwikipedia、ジガバチ

ja.wikipedia.org

<参考>
・砂漠と草原の遺宝 香山陽坪 講談社学術文庫
名神大社 - Wikipedia
大野東人 - Wikipedia
弾正台 - Wikipedia
湯沐令 - Wikipedia
大分恵尺 - Wikipedia

古宮古墳 (大分市) - Wikipedia