シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

395.日本に渡来したマナセ族~武寧王と継体天皇と尾張目子媛~

日本にマナセ族が渡来していたことを示す。ラテン語のブネイメナシェや隅田八幡鏡に記された人物である継体天皇武寧王などの関係性から示していく。次の流れで紹介していく。

・ブネイ・メナシェ
・マナセ族
百済武寧王とブネイ
・隅田八幡鏡による日十大王、武寧王継体天皇の関係
継体天皇と男(men)
尾張目子媛(おわりめのこひめ)とメシ(men-sheh)
・目弱王(眉輪王)とクサカ
仁賢天皇とアシ(ash)
・まとめ
・考察~ナフタリ族、ユダ族、マナセ族~

■ブネイ・メナシェ

ブネイ・メナシェとは、ヘブライ語で「メナシェの子供たち」の意味である。
マナセ族の子孫と考えられている。

インド北東部にマナセ族の末裔であるという部族がおり、1994年から2003年にかけてイスラエルに帰還した。

マナセのラテン文字インド・ヨーロッパ語族は「men-ash-sheh」。

この「men-ash-sheh」を分解すると

・マン(男)
・アシ
・メナシ
が入っていることに注目頂きたい。

↓では古代イスラエル王国と12支族を紹介

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■マナセ族
マナセは、ヨセフの長子。
ヤコブの孫にあたる。

マナセの弟はエフライム。

ヨセフ族からわかれたのがマナセ族、エフライム族である。

なお、神社のシンボルに狛犬がある。
獅子は南王国、ユダ族のシンボル(創世記49章9節)
一方、ユニコーン(一角獣)はヨセフ族またはエフライム族のシンボルとされる。

アニミズムそのものは古来から日本において存在していた。
ただし仏教に押された神道を普及させようと神社という建物や儀式において信仰を確立させようとメソッド・スキーム化していった過程があると考えられる。
それにはユダヤ教を出自とする民族の支援があるものと推定される。
具体的には「会見の幕屋」の構造から「神社」の建物や配置などを定式化したと考えられる。

出エジプト記25章31節-40章48節にて、幕屋、聖所、祭服などが規定されている。

wikipedia、幕屋ではイスラエル・ティムナ渓谷公園に復元された移動式神殿が画像で確認できる

ja.wikipedia.org

キルギスの建国神話とマナス叙事詩

キルギスにマナセ族がおり、東方に移動したとの伝承がみられる。
↓はユダヤ人の東方移動に関する伝承を扱い、そのうちキルギスを取り上げた回

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百済武寧王とブネイ

宋山里古墳群から出土した「武寧王墓誌」より武寧王の名前と生年が判明している。

武寧王の名前は斯麻王。
生年は462年。
この年は雄略天皇6年、蓋鹵王8年にあたる。
よって武寧王の生没年は462年~523年。
在位は502年~523年。
没年時の年齢は62歳にあたる。

武寧王は加須利君(かそりのきみ)とも呼ばれていた。
カソリックを意味する名前と考えられる。

つまり武寧王は名前から類推するに原始キリスト教徒だったのだろうか。
またブネイ・メナシェの「ブネイ」が入っていることに着目したい。

ただし、ブネイは「子供たち」であり「メナシェ」がマナセ族である。
類似の用語に「サッサリード」がある。
残されし民を意味する言葉である。

武寧王について取り上げた回

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↓加須利君について取り上げた回

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↓サッサリード(残されし民)が登場した回

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■隅田八幡鏡による日十大王、武寧王継体天皇の関係

武寧王継体天皇につながりがある。

隅田八幡神社から見つかった鏡に継体天皇武寧王と関係すると思われる記述がある。

まず、その文字の内容は

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

である。
どこで区切るかなどで解釈がわかれる。

武寧王墓誌から見つかった情報から次の可能性が最も高い。

・癸未年八月:503年(きび、みずのとひつじ)の8月

・日十大王年:日十大王の年
  ※八月日十とで8月10日であったのではいかとする説があるが紀年の日付を間違えるとは思えない。日十大王とみてよい。

・男弟王在意柴沙加宮時:男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮にいるとき

・斯麻念長寿:斯麻が長寿を念じて

・遣開中費直穢人今州利二人等:開中費直(かわちのあたい)、穢人今州利の二人らを遣わして

・取白上同二百旱作此竟:白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。

斯麻は武寧王のこと。
長寿だったのは男弟王。
継体天皇の諱は男大迹(ヲホド)でもあったため、男弟王は継体天皇を指すと考えられる。

少なくとも日十大王の治世下において、継体天皇がオシサカ宮におり、武寧王との関係があった。武寧王から継体天皇に鏡を贈ったことがわかる。

↓は隅田八幡鏡について取り上げた回

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継体天皇と男(men)

現代の天皇は少なくとも継体朝から続いていると考えられている。

継体天皇の諱は男大迹(ヲホド)
父は彦主人王(ひこうしおう)
母は振媛(ふるひめ、ふりひめ)
皇后は手白香皇女仁賢天皇皇女、雄略天皇の外孫)
夫人に尾張目子媛(おわりめのこひめ)がいる。

諱が男大迹(ヲホド)と、男 / men が入っている。

皇后の手白香皇女仁賢天皇との関りがみられる。
母親が振媛と「フル」が入っていることが注目される。
続いて夫人の尾張目子媛を扱う。

尾張目子媛(おわりめのこひめ)とメシ(men-sheh

古事記では目子郎女(めのこいらつめ)
父は尾張草香(おわりのくさか)
尾張草香は古墳時代の豪族で尾張連の一人とされる。

尾張に断夫山古墳がある。
所在は愛知県名古屋市熱田区旗屋1丁目。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)が安置されるという熱田神宮とは約1kmほどの距離。
大きさは墳丘長151m(推定の復元長は160m程度)。
大きさは全国的に見ても屈指の規模になるという。
築造は6世紀前半。

被葬者は伝承ではヤマトタケルの妃、宮簀媛命と伝わるがヤマトタケルの東征は西暦300年頃。
推定で尾張氏首長、一説に尾張連草香、あるいは目子媛と考えられている。

目子媛は古事記では目子郎女と「イラツメ」が入る人物。
また、目子はメシ、メ(ナ)シとも読める、目を眼として眼子と当て字すればマナコとも考えられる。
メナシェ(men-ash-sheh)のmen-shehが入る人物。

↓はgooglemap、断夫山古墳

maps.app.goo.gl

■目弱王(眉輪王)とクサカ
メナシ(メシとか、目がないとか)に関わる同時代の人物に目弱王がいる。
父は仁徳天皇の皇子、大草香皇子(おおくさかのみこ)
母は履中天皇の皇女、中蒂姫命(なかしひめのみこと)。

目弱王は古事記での表記。
日本書紀では眉輪王とされる。

古事記に従えば目が弱いでメナシにニュアンスが似る。
日本書紀側の表記でも眉輪王のマユワを繭、蚕のイト、九州・伊都国と倭とのつながりが想起される人物である。

仁徳の皇子大草香皇子、継体天皇の夫人の目子媛の父の尾張草香には「クサカ」のつながりがみられ、なんら関係がなかったとは考えにくく、なんらか関係があっただろう。少なくとも古事記日本書紀の考える皇族に該当する。

↓は眉輪王について取り上げた回

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仁賢天皇とアシ(ash)
仁賢天皇は生没年で449年~498年、在位で488年~498年と考えられている。

日本書紀では億計天皇
諱は大脚(おおし)あるいは大為(おおす)。
別名に億計(おけ)嶋郎(しまのいらつこ)。

仁賢天皇とは奈良時代淡海三船(おうみのみふね)が名付けた名前。
仁賢はニンケン、ニンゲンではないだろうか。
賢は呉音ではゲン。

諱の大脚(おおし)にアシ(ash)が入る。
事後の話となるが、大為(おおす)といえば古事記の写本が見つかっている愛知、大須観音を想起する。
ただし、大須観音はもともとは岐阜県羽島市大須にあったという。

仁賢天皇の母は荑媛(はえひめ)
荑媛は葛城蟻臣(ありのおみ)の女。
アーリアのアリが入っている。
(ヤ)ハエのハエがみられる。

なお先代の顕宗天皇仁賢天皇は兄弟。
顕宗天皇は弘計(おけ)仁賢天皇は億計(おけ)。
オケとは「王家」を意味するものではないだろうか。
顕宗天皇仁賢天皇の父は市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)
播磨国風土記において市辺天皇とされている。

古事記の写本について取り上げた回

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■まとめ

・ブネイメナシェのマナセ族を示すメナシェは「men-ash-sheh」
キルギスの伝承にマナセ族の東方への移動、日本に移動したとみられる伝承がある

・隅田八幡鏡の紀年は503年、日十大王、武寧王(斯麻)継体天皇(男弟王)の関係が示される
百済武寧王(ブネイ)は生没年で462年-523年(在位502-523年) 
継体天皇は生没年466年-536年(在位で534年-536年)。

尾張目子(めのこ)はメシ、父は尾張草香(クサカ)
・目弱王(生没年450年-456年)の父は仁徳天皇の皇子・大草香皇子にクサカが入る
仁賢天皇(生没年449年-498年、在位488年-498年)は大脚(おおし)でアシ(ash)が入る
仁賢天皇は呉音だとニンゲンとも読め、隅田八幡鏡のいう日十大王は仁賢天皇ではないか

顕宗天皇・弘計(おけ)仁賢天皇・億計(おけ)は兄弟で王家か
・顕宗、仁賢の父は市辺押磐皇子播磨国風土記でいう市辺天皇(すめらみこと)

■考察~ナフタリ族、ユダ族、マナセ族~

・淡路島に渡来していたのはイヨのフタナジマとしても残したナフタリ族。

市辺押磐皇子-顕宗-仁賢系の王家とはおそらくユダ族。

 青森のイチノヘや民謡・ナニャドヤラとも関連があるものと推測される。

武寧王、継体、尾張草香ー目子媛がマナセ族。
 任那(ミマナ、532年には滅亡)の名前の由来とも関連があるものと推測される。
 ※任那4県割譲は512年磐井の乱527年

なぜ尾張熱田神宮、草薙の剣があるのか。正確なことは不明だが、尾張草香や目子媛などのマナセ族渡来後のその後の歴史と関係があるものと推測される。

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<参考>
出エジプト記 レビ記 岩波書店
ブネイ・メナシェ - Wikipedia

マナセ - Wikipedia
エフライム族 - Wikipedia
幕屋 - Wikipedia

マニプル州 - Wikipedia
宮簀媛 - Wikipedia
断夫山古墳 - Wikipedia
眉輪王 - Wikipedia
仁賢天皇 - Wikipedia
市辺押磐皇子 - Wikipedia