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214.鉄剣や鉄刀、鏡に記された文字①~額田部臣名大刀、隅田八幡神社人物画像鏡、戊辰銘鉄刀~

今回は「鉄剣、鉄刀、鏡に記された文字」をテーマに日本の古代を探る。
①では下記を取り上げる。
島根県岡田山1号墳/額田部臣名大刀(ぬかたべのおみめいたち)
・隅田八幡神社人物画像鏡
日本書紀武寧王
箕谷2号墳(みいだに にごうふん)/戊辰銘鉄刀(ぼしんめいてっとう)
・戊辰銘鉄刀は608年説が正しいのでは
・まとめ
・考察~隅田八幡神社人物画像鏡に関連し503年説を採用した場合の2つの見解~

島根県岡田山1号墳/額田部臣名大刀(ぬかたべのおみめいたち)
出雲岡田山古墳の所在は島根県松江市大草町。形式は前方後円墳。築造は6世紀後半。岡田山古墳群は7基(1号墳の他は円墳)から構成される。岡田山1号墳からの出土品の中には「円頭大刀」や「内行花文鏡」が存在する。

円頭大刀には銀象嵌銘がみられ額田部臣(ぬかたべのおみ)とされる「各田卩臣」の文字が彫られている。額田部臣は「出雲国風土記(大原郡の条)」にも登場する豪族。部姓が記されたモノとしては日本で最古、氏が記載されたモノとしては「隅田八幡神社人物画像鏡」の次に古いとされる。

内行花文鏡には「長冝子孫」の銘文が見える。後漢期(25年~220年)の中国製とみられている。
参考①:↓はwikipediaより、岡田山古墳のイメージ

ja.wikipedia.org

■隅田八幡神社人物画像鏡
隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)が所蔵する銅鏡で国宝となっている。隅田八幡神社和歌山県橋本市に所在。隅田八幡神社人物画像鏡は5世紀から6世紀頃製作とされる。443年説、503年説の2つがある。稲荷山鉄剣銘、江田船山鉄刀銘とともに大王号を示す資料として貴重な手がかりとなっている。

鏡に記された文字は次のように書かれている(異説あり)。

癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る

意味は次の通りである。

503年(癸未年)。「男弟王」が大和の「意柴沙加宮(忍坂宮)」にいた時。「斯麻」が鏡を作らせ「男弟王」の長寿を祈った。

百済武寧王の諱は斯麻。生年は「武寧王墓誌」から462年とされる。雄略6年にあたる。

続いて日本とこの武寧王との関係を見ていく。
参考①:↓はwikipedia、隅田八幡神社人物画像鏡
ja.wikipedia.org

参考②:↓は橋本市、隅田八幡神社

www.city.hashimoto.lg.jp

日本書紀武寧王
日本書紀武寧王の出生の話が登場する。武寧王百済の25代王。在位は502年~523年。雄略天皇紀5年(461年)条に百済の加須利君(蓋鹵王:百済の第21代の王、在位:455年~475年)が弟の昆支王(24代東城王の父にあたる)倭国に人質として貢る。その際、加須利君の妊娠した婦を与え、途中で子供が生まれれば送り返すよう命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま、加唐島まで来た際、子供が生まれる。嶋君と名付けた。そして百済に送り返した。これが武寧王とされる。

武寧王は日本の地で生まれている。また弟の昆支王が同盟的人質外交により倭国にいた。
↓以下は百済の25代王。武寧王の諱は斯麻王、昆支王の子

ja.wikipedia.org

↓以下は武寧王陵、出土品なども確認できる

ja.wikipedia.org

箕谷2号墳(みいだに にごうふん)/戊辰銘鉄刀(ぼしんめいてっとう)
箕谷2号墳の所在は兵庫県養父市八鹿町小山。形式は円墳。築造は7世紀。2号墳のほか3号、4号、5号墳の4基により「箕谷古墳群」が形成されている。いずれも円墳。

この箕谷2号墳の出土品の中に年号が入った「鉄刀」が存在。 干支年号をもつ鉄刀の出土例としては埼玉県の稲荷山古墳に続き全国で2例目となる。鉄刀は銅象嵌による銘文がみられ「戊辰年五月(中)」と刻まれている。文字は「戊辰年五」までははっきりとしており、月はそう読める、中は2画分だけ文字が判別できる状態。戊辰年は608年が有力。ただし668年説もある。608年は第3回遣隋使として小野妹子が中国に渡った年。五月中とは中国や朝鮮で作られた古代の刀剣によく使われる吉祥句。

wikipedia箕谷2号墳のイメージ

ja.wikipedia.org

↓は養父市、戊辰銘鉄刀

www.city.yabu.hyogo.jp

■戊辰銘鉄刀は608年説が正しいのでは
この608年頃、中国出身の文書を扱ったり知識の高い人物らが名前や出自を記録に残す傾向がある。これより、608年説が正しいと考えられる。
↓過去記事、183.第3回遣唐使メンバーの学生の名前のヒミツ を参照頂きたい

shinnihon.hatenablog.com

■まとめ
島根県岡田山1号墳
 額田部臣名大刀より「額田部臣」という古い豪族の記録が残る。
   内行花文鏡より出雲に後漢の末裔が渡来したことも想定される。
・隅田八幡神社人物画像鏡
 443年説、503年説あり。
箕谷2号墳(みいだに にごうふん)
 戊辰銘鉄刀は608年、668年説あり。第3回遣唐使メンバーの学生の名前から608年説が正しいと考えられる。

■考察~隅田八幡神社人物画像鏡に関連し503年説を採用した場合の2つの見解~
以下で503年説を紹介。1つめは通説を関連知識で補強する。2つ目は通説とその矛盾があるとされている点を紹介する。

1つめ:鏡に記された「斯麻」を百済武寧王(502年に即位)とらえる場合
日本書紀武寧王の誕生時のつながりが記載、日本と関係の深い人物

武烈天皇(在位:498年~506年)は武寧王と外交などで関連がある可能性。武烈天皇には「即位後に暴君と化し政局が混迷した」、そして「妊婦の腹を裂いて胎児を見た」というエピソードがある。百済武寧王が日本で誕生した際の加須利君の「妊婦」のエピソードとも関連するのだろうか。加須利君(蓋鹵王)の弟である昆支王の日本への人質外交も何らか影響があっただろう。

2つめ:「男弟(おおと)王」を「男大迹(おほど)王」に比定した説がある
・同じく503年を採用した場合の説で「おほど」が継体天皇を指すとしたもの

・継体は在位は507年~531年。近江あるいは越前の豪族。河内で即位後、20年間も大和入りできなかったとされる。503年に大和入りしたことになるとされ、507年即位との整合性がとれなくなるとされる。なお継体天皇大伴金村の要請を受け即位。筑紫の君・磐井が新羅と結んで起こした乱を鎮圧した。よって百済と親和性があるが新羅とは仲が良くない勢力の人物。

■感想
次の天皇百済の王、王族は時代的にも、そして日本書紀、隅田八幡神社人物画像鏡(ただし503年説が正しいとし、斯麻=武寧王が成立する必要)を根拠としたエピソードでつながりをもつ。

日本の天皇
・第21代・雄略(在位:456~479年、生没年:418年~479年)
・第25代・武烈(在位:498年~506年、生没年:489年~506年)
 妊婦の腹を裂いて胎児を見たというエピソードあり

百済の王
・第21代王・蓋鹵王(在位:455年~475年、生没年:不明~475年)
・昆支王(生没年:不明~477年)、蓋鹵王の子。461年(雄略5年)に日本に人質として献上された
・第25代王・武寧王(在位:502年 - 523、生没年:462年~523年)
 日本書紀に加須利君の妊婦を与え、子供が生まれ、百済に帰ったエピソードがある

<参考>
183.第3回遣隋使メンバーの学生の名前のヒミツ - シン・ニホンシ
和歌山県神社庁-隅田八幡神社 すだはちまんじんじゃ-