今回は「古墳の上につくられた神社」をテーマに日本の神話に迫る。前玉神社、尾張戸神社を紹介する。前玉神社に関連して前玉姫命を、尾張戸神社と近い白鳥塚古墳に関連して尾張氏(おわりうじ)やヤマトタケルの御陵の変遷を紹介する。次の流れで紹介していく。
1.前玉神社(さきたま神社)
・浅間塚古墳
・前玉神社の御由緒
・前玉姫命(さきたまひめのみこと)
2.尾張戸神社(おわりべじんじゃ)
・尾張戸神社古墳
・尾張戸と尾張氏
・建稲種命(たけいなだねのみこと)
・美夜受比売(ミヤズヒメ)
・建稲種命の子孫の活躍
・ヤマトタケルの御陵をめぐる変遷
・まとめ
■1.前玉神社(さきたま神社)
所在は埼玉県行田市大字埼玉、さきたま古墳群に隣接する。平成9~10年の調査によって神社の周囲に周溝が見つかり、「浅間塚古墳」の上に建っていることがわかった。
参考①:↓は彩北なびより、神社のイメージ
参考②:↓は前玉神社のHP
■浅間塚古墳
周囲92m、高さ8.7m、高さ8.7mほどの規模とされる。浅間塚古墳の石室の石材と思われる角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)が発見されている。埼玉古墳群終焉期の7世紀前半頃の時代ではと考察されている。
■前玉神社の御由緒
ご祭神は前玉彦命・前玉姫命の二柱。平安時代の927年に作成された全国の官社神社一覧「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」にも記載がある古社。前玉神社が最初に祀られた時代は、一説には安閑天皇、宣化天皇あるいは雄略天皇の頃の古墳時代(400年代後半~500年代前半)ではないかと考えられている。その一方では上記のとおりで、浅間塚古墳が7世紀前半ではないかとする説も。いずれにしても由緒ある古い神社である。
↓は前玉神社のHP、御由緒が紹介されている
sakitama-jinja.com
■前玉姫命(さきたまひめのみこと)
古事記(上巻、大国主神の系譜の条)では前玉比売が登場する。天之甕主神(アメノミカヌシノカミ)の娘が前玉比売。そして前玉比売は大国主神(オオクニヌシ)の子孫である速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤジヌミ)の妃。この2人から甕主日子神(ミカヌシヒコカミ)が生まれた。
※「甕(みか)」は土器の一種。主に酒を醸造するのに用いた大きなかめ。
つづいて尾張戸神社を紹介。
■2.尾張戸神社(おわりべじんじゃ)
所在は愛知県名古屋市守山区および瀬戸市にまたがる神社。東谷山(とうごくさん)の山頂、尾張戸神社古墳の墳丘上に鎮座する。祭神は天火明命(あめのほのあかりのみこと)、天香語山命(あめのかぐやまのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)。
↓はwikipedia、尾張戸神社のイメージ
■尾張戸神社古墳
形式は円墳、径は約27.5m、築造は4世紀前半とされる。墳丘は2段、また斜面に葺石が積み上げられている。この葺石上に大量の石英がまかれている。これは白鳥塚古墳と同じとされる。
参考①:↓で尾張戸神社古墳の画像が確認できる
www.rekishinosato.city.nagoya.jp
■尾張戸と尾張氏
尾張戸神社などの尾張戸が「おわりと」がと読まず「おわりべ」と読むのは尾張部(おわりべ)、尾張氏に従属した部民を意味し、尾張氏(おわりうじ)の墓だからなのではとする見解がある。
■建稲種命(たけいなだねのみこと)
尾張氏は日本書紀において天火明命の子孫とされる。建稲種命は尾張国造の乎止与命(をとよのみこと)の子。建稲種命はヤマトタケルの東征の際、副将軍として随伴した。
■美夜受比売(ミヤズヒメ)
ヤマトタケルは尾張氏の娘、美夜受比売(ミヤズヒメ、日本書紀では宮簀媛)を東征時の還路でめとったとされる。そのときミヤズヒメは草薙剣を預かり、熱田社を建てて奉納したとされる。
■建稲種命の子孫の活躍
応神朝において建稲種命の子である尾綱根命(おつなねのみこと)は大臣となった。応神天皇は建稲種命の孫の仲姫命を皇后としている。仁徳朝において尾綱根命の子、尾張意乎己(おわりのおとひこ)は大臣となった。
■ヤマトタケルの御陵をめぐる変遷
白鳥塚古墳は尾張戸神社古墳から2kmほど離れた古墳。形式は前方後円墳、墳長は約115m。築造は4世紀前半。白鳥塚古墳とヤマトタケルをめぐる伝説が存在する。石英で白く輝いていた外観が白鳥塚の名称の由来される。
↓で白鳥塚古墳の現在の様子が確認できる
www.rekishinosato.city.nagoya.jp
明治9年白鳥塚古墳がヤマトタケルの墓として正式に治定された。しかし明治12年には三重県亀山市の丁子塚(能褒野王塚・のぼのおおつか)へと改定された。その後、大阪府羽曳野市軽里にある古墳「白鳥陵古墳」が宮内庁により「白鳥陵」として日本武尊の陵に治定されている。形状は前方後円墳で古市古墳群を構成する古墳の1つ。また、奈良県御所市冨田の琴弾原白鳥陵についても日本武尊陵とされる。
この変遷は「古事記」「日本書紀」によれば次のような経緯があるため。まずヤマトタケルが伊勢国能褒野で薨(こう)じ、陵をつくったことによる。「古事記」「日本書紀」に根拠をもつ。つぎに古事記では「八尋白智鳥(やひろしろちとり)」となって天を駆け、浜に向かって飛ぶ。そして河内の国の志幾(しき、現在の大阪府柏原市)に留まり、そこにも陵をつくったとされる。しかしさらにそこから天に翔けて飛び立った。
加佐登神社HPより、白鳥塚古墳のヤマトタケルの御陵をめぐる話↓。www.kasado-jinja.com
■まとめ
・古墳の上に建つ前玉神社、尾張戸神社を追うことで神話の中の史実部分に触れた
・前玉神社は前玉姫命と関りを持つ
・尾張戸神社は尾張氏と関りを持つ
・尾張氏は天火明命(あめのほのあかりのみこと)の子孫
・尾張国造の乎止与命(をとよのみこと)の子、建稲種命がヤマトタケルの東征時の副将軍
・応神、仁徳朝で尾張由来の人物が活躍する
■感想
・ヤマトタケルは200年代後半~300年代前半にかけて活躍した実在の人物、景行の子
・これと応神の在位年が270年~310年と、一時代の終わりを告げる時期とほぼ一致
・景行天皇の在位は71年~130年、200年足すとほぼ一致してくる
<参考>
・新版 古事記 中村啓信 訳注
・前玉神社 - Wikipedia
・建稲種命 - Wikipedia
・尾張氏 - Wikipedia
・宮簀媛 - Wikipedia
・白鳥陵 - Wikipedia