今回は「アワ」にちなんだ地名あるいは言葉を紹介。これより古代日本を紐解く手がかりを得る。次の流れで紹介していく。
・阿波伎(あわぎ)
・阿波岐原 / 檍原(あわぎはら)
・宮崎市の阿波岐原町と江田神社
・中王子神社と阿波国造墓碑
・粟国(阿波国)と大宜都比売(オオゲツヒメ)
■阿波伎(あわぎ)
古代の済州島に存在した国家・耽羅の王族の名前に「阿波伎」がみられる。
阿波伎は661年に耽羅使として倭国へと派遣された人物。
耽羅国(済州島)は雄略天皇20年、476年に初めて日本書記に登場する。
476年4月、耽羅国(済州島)は百済の文周王に貢物を献じた記録が残る。
高句麗により475年、百済の蓋鹵王が捕らえられ百済が一時的に滅ぶ。
その蓋鹵王の後を継いだのが文周王である。
耽羅の遣使はこの文周王のためと考えられる。
文周王は蓋鹵王の子。
蓋鹵王が王位についた際、文周王は上佐平として蓋鹵王を補佐したとされる。
↓で耽羅国の三姓神話を紹介、過去記事で耽羅国の三神人の名前を並べるとヤコブになることを示した。
なお、耽羅国の王の在位は25年あるいは50年周期で交代していることが多い。
指雲王(483年-508年)~岷王(908年-933年)までの王の計17回にわたる王の交代はすべて25年間隔になっている。一般的には平均的に王の在位は10年前後とされる。後世によって書き換えられたのであろうか。
↓wikipedia、朝鮮の君主一覧、耽羅国を参照
朝鮮の君主一覧 - Wikipedia
■阿波岐原 / 檍原(あわぎはら)
古事記では「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」、日本書紀では「筑紫日向小戸橘之檍原」という言葉が残る。
古事記では「小門の阿波岐原」だったものが日本書紀では「小戸橘之檍原」となっている。
宮崎県の江田神社の近くにアワギハラがあるとされる。
イザナギが黄泉の国から帰還、体についた「穢れ」を落とすために禊(ミソギ)をした。その禊をした場所が「阿波岐原(アワギハラ)」とされる。
一方、小戸橘は「弟橘」と言葉が一致している。
ヤマトタケルが関東を平定後の帰路の際、走水付近にて、敵対心を抱く勢力がヤマトタケルを阻止する。そして気象が荒れる。ヤマトタケルをはじめとする一行の命が危ぶまれる事態に陥る。
そこで弟橘媛は海の精霊たちに願い出て助けを乞う。
そしてその身を海に投じることをもって海をおさめ、ヤマトタケルたちを助けた。
その後ヤマトタケルは西征をする。
そして九州の未平定であった地域を治めた。
その後は一定の勢力をもって近畿に遷都した。
西暦300年前後の頃とされる。
■宮崎市の阿波岐原町と江田神社
阿波岐原とは具体的にはどこであったのだろうか。
江田神社の所在は宮崎市阿波岐原町字産母。
その江田神社の周辺に檍遺跡(あおきいせき)がある。
古墳が存在、檍1号墳の形式は前方後円墳、築造年代は3世紀末。
この檍1号墳から国内最大の木製墓室の「木槨跡(もっかくあと)」が見つかっている。
木槨(もっかく)とは棺(ひつぎ)を安置するための木の板で囲まれた部屋。
その部屋は長さ約7.5m、幅約4.5m、高さ約1.5mとされる。
なお奈良県のホケノ山古墳の木槨は長さ約7m、幅約2.7mとされ、これを上回る大きさである。
ヤマトタケルの東征前だろうか。
九州において前方後円墳が築造されていたことになる。
なお、魏志倭人伝に卑弥呼の墓が墳丘であった描写が残る。
卑弥呼の死亡は推定247年~249年頃。
その後、約50年程度の間に前方後円墳を築造するようになり、
東征したのだろうか。
↓はwikipedia、江田神社
↓卑弥呼の死亡推定年代や墳丘の大きさについて紹介した回
■中王子神社と阿波国造墓碑
中王子神社(なかおうじじんじゃ)の所在は徳島県名西郡石井町。
創建は723年とされる。
御神体として阿波国造墓碑が祀られている。
その大きさは
・縦19.8cm
・横17.4cm
・厚さ10cm
とされる。
正面には3行19文字、
阿波国造
名方郡大領正七位下
粟凡直弟臣墓
側面には2行10文字。
養老七年歳次癸亥
年立
と刻まれている。
その意味は粟国造である名方郡の郡司(大領)、粟凡弟臣(あわのおおしのおとおみ、直は姓)が養老7年(723年)頃に没する。
このため同年、墓碑が立てられた。
喪葬令に従い、官位、姓名が記載されている。しかし律令制において墓碑の建立は三位以上の位階のものが建立したとされ、正七位とされる阿波国造が建立した点が特徴的となる。
■粟国(阿波国)と大宜都比売(オオゲツヒメ)
古事記が記す国生みにおいて「阿波国」と「大宜都比売」の関係が示される。
まず国生みにおける四国を紹介する。
国生みの順序として、
まず最初に淡道(あわじ)の穂の狭別島(ほのさわけじま)を生む。
次は四国とされる伊予の二名島(いよのふたなじま)を生む。
この島は身は一つだが4つの表がある島で
・粟国(あわのくに)は大宜都比賣(おおげつひめ)
・讃岐国(さぬきのくに)は飯依比古(いひよりひこ)
・伊予国(いよのくに)は愛比売(えひめ)
・土佐国(とさのくに)は建依別(たけよりわけ)
という。
この大宜都比売という土地、「大宜都比売神」は養蚕と五穀の神と考えられる。
スサノオとオオゲツヒメの関係性から、オオゲツヒメが蚕、稲、栗、小豆、麦、大豆をもたらしたことを伝えている。
オオゲツヒメによって蚕や農業技術の指導がなされたことを伝えているのだろうか。
■感想
・「あ」と「わ」、そしてそれぞれ一文字後と前が「い」と「よ」。
四国は国東半島と奈良の中間の島でもあり、古い歴史が眠っているのかもしれない。
・アワとは当時の日本の文化レベルに応じた祭祀や養蚕(糸)、農作物の育成に貢献した氏族と関連が深かったのではと考えられる。
<参考>
・文周王 - Wikipedia
・江田神社 (宮崎市) - Wikipedia
・坂合部磐鍬 - Wikipedia
・津守吉祥 - Wikipedia
・檍第2遺跡
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/5/5442/3936_1_%E6%AA%8D%E7%AC%AC2%E9%81%BA%E8%B7%A1.pdf
・阿波国造墓碑 - Wikipedia
・日本古代における喪葬儀礼と礼制の研究(稲田 奈津子) │ 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科
・オオゲツヒメ - Wikipedia