今回は大田原市湯津上の「那須国造碑」を紹介する。関連知識として過去記事で取り上げた毛野、上野三碑、那須国の要点を紹介したうえで那須国造碑の詳細に触れる。次の流れで紹介していく。
・那須国造碑
・上野三碑
・毛野地域と那須国
・徳川時代の上侍塚古墳と下侍塚古墳の被葬者の推定
・上侍塚古墳と下侍塚古墳
・那須地域の他の古墳
・那須国造碑の詳細
・広氏とは
・永昌元年とは
・気がかりとなるポイント
・群馬や那須の700年という時代
■那須国造碑
所在は大田原市湯津上(ゆづかみ)にある。
笠石神社に祀られた石碑。
建立は西暦700年。
那須国造であった韋提(いて)が689年、大和朝廷から「評督(こおりのかみ)」という役人に任命される。
そしてその韋提が700年に亡くなる。
その韋提の没後、「意斯麻呂(おしまろ)」らが韋提の遺徳をおしんで建碑した。
※意斯麻呂は子とされる。ただし石巧の石工集団の可能性も。
碑文の起草者は新羅人であったであろうと推測されている。
1676年に僧侶の円順が発見。
報告を受けた水戸藩主の徳川光圀が「笠石神社」をつくって堂内に安置した。
ja.wikipedia.org
↓はwikipedia、大田原市観光協会、那須国造碑
■上野三碑(こうずけさんぴ)
那須国造碑を知る際、上野三碑や毛野の理解が必須。
上野三碑は現在の群馬県高崎市に存在する古代の7世紀から8世紀にかけての石碑。
石碑の建立目的は次の通り。
・山ノ上碑:681年、墓誌。母を思い僧になった息子が建てた。
・多胡碑:711年、多胡郡の建設を祝した記念碑
・金井沢碑:726年 三家氏(みやけし)の一族の誓い。神仏の知識によって仏に仕えることを誓った。
↓上野三碑を紹介した回
■毛野地域と那須国
毛野(けの、けぬ)はヤマト王権と深いつながりがあった。
上毛野は現在の群馬県に相当、のち上野国に転じた。
下毛野は現在の栃木県に相当、のち下野国に転じた。
那須国は独立したまま存在。
毛野と那須は別地域だが距離的に古墳時代に関連があっただろう。
↓毛野についてまとめた回
↓栃木南部、下毛野を取り上げた回
■徳川時代の上侍塚古墳と下侍塚古墳の被葬者の推定
碑文を受けた当時の人たちは那須直葦提、意志麻呂父子の墓を「上侍塚古墳」と「下侍塚古墳」と推定した。
発掘調査と史跡整備を家臣の佐々宗淳が担当。
しかし上侍塚古墳、下侍塚古墳の古墳建造は那須国造碑が立てられた700年より古く、5世紀の築造とされる。
■上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)と下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)
上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)について。
・所在は栃木県大田原市湯津上
・形状は前方後方墳
・大きさは墳丘長114m
・築造は4世紀末
・出土品は銅鏡、管玉、石釧、鉄製品、土師器(高坏、神具のひとつ)など
↓はwikipedia、上侍塚古墳
下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)について。
・所在は栃木県大田原市湯津上
・形式は「前方後方墳」
・大きさは墳丘長84m
・築造は4世紀末葉頃
・出土品は以下
・銅鏡(二神二獣鏡1)
・鉄製品(刀片15、甲冑片、大刀把頭1、鉄鉾身1)
・土師器(高坏4など)
↓はwikipedia、下侍塚古墳
■那須地域の他の古墳
次のような古墳が存在する
・上侍塚北古墳(かみさむらいづかきたこふん)
形式は前方後方墳
大きさは墳丘長48.5m
発掘調査がなされていない古墳
・駒形大塚古墳(こまがたおおつかこふん)
所在は栃木県那須郡那珂川町小川
形式は前方後方墳
大きさは墳丘長60.5m
築造は4世紀初頭
・吉田温泉神社古墳(よしだゆぜんじんじゃこふん)
所在は栃木県那須郡那珂川町吉田・小川
形状は前方後方墳
大きさは墳丘長50m
築造は4世紀代
・那須八幡塚古墳(なすはちまんづかこふん)
所在は栃木県那須郡那珂川町吉田
形状は前方後方墳
築造は4世紀代
出土品に中国製・3世紀制作の鏡とされる「夔鳳鏡(きほうきょう)」がある。
↓は東京国立博物館、那須八幡塚古墳の夔鳳鏡が確認できる
東京国立博物館 - 展示・催し物 総合文化展一覧 日本の考古・特別展(平成館) 舶載鏡と倭鏡 作品リスト
■那須国造碑の詳細
参考文献をもとに内容を要約、解説、一部意訳を加える。
・689年4月(永昌元年)、飛鳥浄御原大宮(天武、持統天皇の治世)で那須国造を務めた追大壱・那須直韋提(いて)が評督に任命された
※追大壱は諸王と諸臣がわけられた諸臣四十八階の中の33番目の階級
※評督は地方行政の長官
・その韋提は700年の文武天皇4年に死去
・意斯麻呂らが故人をしのび、次の内容を銘文に刻ませた
※銘文の解釈には諸説ある
・韋提は広氏の末裔、国家の棟梁であった
・一生の中で国造、評督に任ぜらるという栄誉に浴した
・韋提の業績と恩に報いるため粉骨砕身しなければならない
・曽子(孔子の弟子の一人)の家にわがままな者はいない
・仲尼(孔子のこと)の門弟に悪口を言う者はいない
・孝を行う韋提の子はその格言に背くことはない
・論語の忠、烈、孝、養の精神で夏(か)の堯(※)の心を銘じ、(心に)神をすまし、父の功績を明らかにしよう
※夏は中国最古の王朝か
※堯(ギョウ)は古代中国の伝説上の聖王、理想的な君主の典型とされる。または人より高い土台を意味。
・立碑のために民が集い、ここに碑文を記す
・我々の功績は翼はなくとも広く長く、根はなくともより強固なものとなるだろう
■広氏とは
広氏とは誰であったか。
広来津公(ひろきつのきみ)と考えられている説を紹介する。
広来津公は豊城入彦命の後裔。
その豊城入彦命の後裔に荒田別(あらたわけ)がいる。
荒田別は上毛野君、下毛野君らの祖。
日本書紀では荒田別について次の記述がある。
・神功皇后49年3月条
鹿我別とともに将軍に任じられ新羅征討に参加した。
神功皇后50年2月条で帰国した。
・応神天皇15年8月条
巫別とともに百済に派遣された。
翌年、王仁を連れて帰ってきた。
■永昌元年とは
「永昌(えいしょう)」は中国の年号。
日本に年号ができたのは645年頃であった。
しかし686年、天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていた。
■気がかりとなるポイント
1.地名が湯津上(ゆづかみ)という地名
2.父の韋提、子(?)の意志麻呂ともに渡来人と考えられる名前
3.碑文の発注者・意志麻呂は中国の年号、儒教、八卦に深い知識を持つ
4.国造を国家の棟梁と比喩するため大工に近い集団であったのでは
5.内容から元々はローカルな土地に根づいてはいなかった移動民か
6.意志麻呂はイシ=石、麻呂はローマの転置からくる名前、新羅人、ローマ由来の石工では
7.碑文を立てたときに民族が集ったと考えられる一文がある(意訳もあるが)
■群馬や那須の700年という時代
・太田天神山古墳は東日本最大、前方後円墳、群馬県太田市内ケ島町、建造は5世紀前半から中頃
・712年には古事記、720年の日本書紀が成立
・南九州の隼人は体制に反発、720年に隼人の乱を起こした
・群馬、栃木関連はヤマト王権に従属、また特殊な地域であった
・古墳時代終末から奈良時代にかけて石碑が立てられた地域
・僧侶になった一族の石碑は681年建立の山ノ上碑、726年建立の金井沢碑
・国造りや郡の設置に関して700年に那須国造碑が、711年に多胡碑が建てられた
646年の薄葬令や701年の大宝律令によって国家体制が確立していく中、古墳建造技術が不要となっていく。ここから土木建築技術が古墳から寺社仏閣へと転じていく時代。
「石碑に残す」という文化や技術は特殊である。
渡来、帰化した民族であったことが推測される。
そして当時の高い知識や技術を有していた。
自分たちのルーツを明示することはなかったが、アイデンティを確立するため一族が決起、石碑として残していた。
<参考>
・那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ) 国宝(古文書) | 大田原市
・大田原市 テキスト / 那須国造碑
・那須国造碑 - とちぎふるさと学習
・元号一覧 (日本) - Wikipedia
・https://ja.wikipedia.org/wiki/神具#高坏
・豊城入彦命 - Wikipedia
・荒田別 - Wikipedia
・冠位・位階制度の変遷 - Wikipedia