シン・ニホンシ

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268.意斯麻呂と700年の那須国造碑の建立

今回は大田原市湯津上の「那須国造碑」を紹介する。関連知識として過去記事で取り上げた毛野、上野三碑那須国の要点を紹介したうえで那須国造碑の詳細に触れる。次の流れで紹介していく。

那須国造碑
上野三碑
・毛野地域と那須
徳川時代上侍塚古墳と下侍塚古墳の被葬者の推定
・上侍塚古墳と下侍塚古墳
那須地域の他の古墳
那須国造碑の詳細
・広氏とは
・永昌元年とは
・気がかりとなるポイント
群馬や那須の700年という時代

那須国造碑
所在は大田原市湯津上(ゆづかみ)にある。
笠石神社に祀られた石碑。
建立は西暦700年。
那須国造であった韋提(いて)が689年、大和朝廷から「評督(こおりのかみ)」という役人に任命される。
そしてその韋提が700年に亡くなる。
その韋提の没後、「意斯麻呂(おしまろ)」らが韋提の遺徳をおしんで建碑した。
※意斯麻呂は子とされる。ただし石巧の石工集団の可能性も。

碑文の起草者は新羅人であったであろうと推測されている。
1676年に僧侶の円順が発見。
報告を受けた水戸藩主の徳川光圀が「笠石神社」をつくって堂内に安置した。

↓はwikipedia那須国造碑の画像あり

ja.wikipedia.org
wikipedia大田原市観光協会那須国造碑

www.ohtawara.info

上野三碑こうずけさんぴ
那須国造碑を知る際、上野三碑や毛野の理解が必須。
上野三碑は現在の群馬県高崎市に存在する古代の7世紀から8世紀にかけての石碑。
石碑の建立目的は次の通り。
・山ノ上碑:681年、墓誌。母を思い僧になった息子が建てた。
多胡碑:711年、多胡郡の建設を祝した記念碑
金井沢碑:726年 三家氏(みやけし)の一族の誓い。神仏の知識によって仏に仕えることを誓った。
上野三碑を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

■毛野地域と那須
毛野(けの、けぬ)ヤマト王権と深いつながりがあった。
上毛野は現在の群馬県に相当、のち上野国に転じた。
下毛野は現在の栃木県に相当、のち下野国に転じた。
那須国は独立したまま存在。
毛野と那須は別地域だが距離的に古墳時代に関連があっただろう。
↓毛野についてまとめた回

shinnihon.hatenablog.com

↓栃木南部、下毛野を取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

徳川時代上侍塚古墳と下侍塚古墳の被葬者の推定
碑文を受けた当時の人たちは那須直葦提、意志麻呂父子の墓を「上侍塚古墳」と「下侍塚古墳」と推定した。
発掘調査と史跡整備を家臣の佐々宗淳が担当。
しかし上侍塚古墳、下侍塚古墳の古墳建造は那須国造碑が立てられた700年より古く、5世紀の築造とされる。

■上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)と下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)
上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)について。
・所在は栃木県大田原市湯津上
・形状は前方後方墳
・大きさは墳丘長114m
・築造は4世紀末
・出土品は銅鏡、管玉、石釧、鉄製品、土師器(高坏、神具のひとつ)など
↓はwikipedia、上侍塚古墳

ja.wikipedia.org

下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)について。
・所在は栃木県大田原市湯津上
・形式は「前方後方墳
・大きさは墳丘長84m
・築造は4世紀末葉頃
・出土品は以下
 ・銅鏡(二神二獣鏡1)
 ・鉄製品(刀片15、甲冑片、大刀把頭1、鉄鉾身1)
 ・土師器(高坏4など)
↓はwikipedia、下侍塚古墳

ja.wikipedia.org

那須地域の他の古墳
次のような古墳が存在する
・上侍塚北古墳(かみさむらいづかきたこふん)
 形式は前方後方墳
 大きさは墳丘長48.5m
 発掘調査がなされていない古墳

・駒形大塚古墳(こまがたおおつかこふん)
 所在は栃木県那須郡那珂川町小川
 形式は前方後方墳
 大きさは墳丘長60.5m
 築造は4世紀初頭

・吉田温泉神社古墳(よしだゆぜんじんじゃこふん)
 所在は栃木県那須郡那珂川町吉田・小川
 形状は前方後方墳
 大きさは墳丘長50m
 築造は4世紀代

那須八幡塚古墳(なすはちまんづかこふん)
 所在は栃木県那須郡那珂川町吉田
    形状は前方後方墳
    築造は4世紀代
 出土品に中国製・3世紀制作の鏡とされる「夔鳳鏡(きほうきょう)」がある。
 ↓は東京国立博物館那須八幡塚古墳の夔鳳鏡が確認できる
 東京国立博物館 - 展示・催し物 総合文化展一覧 日本の考古・特別展(平成館) 舶載鏡と倭鏡 作品リスト

那須国造碑の詳細
参考文献をもとに内容を要約、解説、一部意訳を加える。

・689年4月(永昌元年)、飛鳥浄御原大宮(天武、持統天皇の治世)那須国造を務めた追大壱・那須直韋提(いて)が評督に任命された
※追大壱は諸王と諸臣がわけられた諸臣四十八階の中の33番目の階級
※評督は地方行政の長官

・その韋提は700年の文武天皇4年に死去

・意斯麻呂らが故人をしのび、次の内容を銘文に刻ませた
 ※銘文の解釈には諸説ある

・韋提は広氏の末裔、国家の棟梁であった

・一生の中で国造、評督に任ぜらるという栄誉に浴した

・韋提の業績と恩に報いるため粉骨砕身しなければならない

・曽子孔子の弟子の一人)の家にわがままな者はいない

・仲尼孔子のこと)の門弟に悪口を言う者はいない

・孝を行う韋提の子はその格言に背くことはない

論語の忠、烈、孝、養の精神で夏(か)の堯(※)の心を銘じ、(心に)神をすまし、父の功績を明らかにしよう
※夏は中国最古の王朝か
※堯(ギョウ)は古代中国の伝説上の聖王、理想的な君主の典型とされる。または人より高い土台を意味。

・立碑のために民が集い、ここに碑文を記す

・我々の功績は翼はなくとも広く長く、根はなくともより強固なものとなるだろう

■広氏とは
広氏とは誰であったか。
広来津公(ひろきつのきみ)と考えられている説を紹介する。
広来津公は豊城入彦命の後裔。
その豊城入彦命の後裔に
荒田別(あらたわけ)がいる。
荒田別は上毛野君、下毛野君らの祖。
日本書紀では荒田別について次の記述がある。

神功皇后49年3月条
 鹿我別とともに将軍に任じられ新羅征討に参加した。
 神功皇后50年2月条で帰国した。

応神天皇15年8月条
 巫別とともに百済に派遣された。
 翌年、王仁を連れて帰ってきた。

■永昌元年とは
「永昌(えいしょう)」は中国の年号。
日本に年号ができたのは645年頃であった。
しかし686年、天武天皇崩御により701年の大宝まで停止されていた。

■気がかりとなるポイント
1.地名が湯津上(ゆづかみ)という地名
2.父の韋提、子(?)の意志麻呂ともに渡来人と考えられる名前
3.碑文の発注者・意志麻呂は中国の年号、儒教八卦に深い知識を持つ
4.国造を国家の棟梁と比喩するため大工に近い集団であったのでは
5.内容から元々はローカルな土地に根づいてはいなかった移動民か
6.意志麻呂はイシ=石、麻呂はローマの転置からくる名前、新羅人、ローマ由来の石工では
7.碑文を立てたときに民族が集ったと考えられる一文がある(意訳もあるが)

■群馬や那須の700年という時代
・太田天神山古墳は東日本最大、前方後円墳群馬県太田市内ケ島町、建造は5世紀前半から中頃
・712年には古事記、720年の日本書紀が成立
・南九州の隼人は体制に反発、720年に隼人の乱を起こした
・群馬、栃木関連はヤマト王権に従属、また特殊な地域であった
古墳時代終末から奈良時代にかけて石碑が立てられた地域
・僧侶になった一族の石碑は681年建立の山ノ上碑、726年建立の金井沢碑
・国造りや郡の設置に関して700年に那須国造碑が、711年に多胡碑が建てられた

646年の薄葬令や701年の大宝律令によって国家体制が確立していく中、古墳建造技術が不要となっていく。ここから土木建築技術が古墳から寺社仏閣へと転じていく時代。

「石碑に残す」という文化や技術は特殊である。
渡来、帰化した民族であったことが推測される。
そして当時の高い知識や技術を有していた。
自分たちのルーツを明示することはなかったが、アイデンティを確立するため一族が決起、石碑として残していた。

<参考>
那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ) 国宝(古文書) | 大田原市
大田原市 テキスト / 那須国造碑
那須国造碑 - とちぎふるさと学習
元号一覧 (日本) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/神具#高坏
豊城入彦命 - Wikipedia
荒田別 - Wikipedia
冠位・位階制度の変遷 - Wikipedia