宮城県の多賀城碑を紹介する。碑文の中に登場する靺鞨を紹介する。次の流れで紹介していく。
・多賀城碑
・多賀城
・碑文の内容
・靺鞨国
・豆知識~藤原氏と多賀城碑~
■多賀城碑
所在は宮城県多賀城市大字市川。
奈良時代の8世紀頃にたてられた石碑。
おそらく多賀城の改修を記念した762年頃の建立と考えられる。
設置者の藤原朝狩が蝦夷平定を成し遂げた自身の功績を顕彰するために建造した。
かつての多賀城の正門とされる南門から城内に入ってすぐの場所に建立されている。
内容は
・平城京や各国からの距離
・大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)による724年の多賀城の設置
・藤原朝臣朝狩(ふじわらのあそんあさかり)による762年の改修
などを伝える。
↓はwikipedia、多賀城碑
江戸時代の初め頃に発見された。
松尾芭蕉なども訪れ「奥の細道」に記した。
那須国造碑と関わった徳川光圀は「大日本史」編纂のため家臣を多賀城へ派遣、調査を行った。
↓は多賀城市観光協会、多賀城碑
■多賀城
724年に大野東人(おおののあずまひと)によって創建された城柵。
多賀城は奈良・平安時代に陸奥国(むつのくに)の国府が置かれた城柵の中心地。
奈良時代に鎮守府が置かれ、蝦夷を支配下とするため兵士を管轄していた。
陸奥と出羽の両国の行政を監督する役割も担った。
11世紀の中頃に終焉を迎えるまで東北の政治、文化、軍事の中心地の役割を果たした。
↓万葉デジタルミュージアム、日本史の中の多賀城
■碑文の内容
・141字の文字が彫られている
・中央の上部に「西」の一字がある。その下に140字が11行に配置されている。
・碑自体が西に向かって建てられている
・内容は前半部と後半から成る
・前半は下記の国や地域から多賀城までの距離が記される。
京(奈良の平城京)
蝦夷国(えみしのくに、東北地方北半)
常陸国(ひたちのくに、茨城県)
下野国(しもつけのくに、栃木県)
靺鞨国(まつかつのくに、中国の東北部)
・後半では多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩(朝獦)によって修築されたことを記している。
■靺鞨国
中国の隋や唐時代に中国東北部・沿海州に存在したツングース系農耕漁労民族。
靺鞨族が渤海国を建国している。
多賀城碑は8世紀頃、多賀城は724年に創建された城柵。
そして727年には出羽に渤海使が来航している。
668年には高句麗が滅亡する。
一部の民族は渤海国にも逃げただろう。
↓は過去記事にて渤海を取り上げた。ツングース系靺鞨族の大祚栄(だいそえい)が渤海国を建国。
■豆知識~藤原氏と多賀城碑~
多賀城碑に刻まれる「藤原朝狩」について。
・「藤原朝臣」はのちの「恵美朝狩」。この藤原朝臣は藤原鎌足の子孫であることが知られている。
・藤原鎌足(中臣鎌足)の次男は藤原不比等。また、奥州藤原氏は中臣鎌足の子孫である。
・その藤原仲麻呂(恵美押勝)の三男が恵美朝狩である。恵美押勝は760年、太政大臣にまで上り詰めた人物。
・その藤原仲麻呂は764年に乱を起こした。藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)と言われる奈良時代(764年)に起きた叛乱で、恵美押勝の乱とも。
・多賀城碑はいつ頃建てられたものだろうか。多賀城の改修は762年であり、多賀城碑の建立も同じ頃と推測される。その2年後、恵美押勝の乱が起きたことになる。
<参考>
・多賀城市の文化財/重要文化財「多賀城碑」(たがじょうひ)
・↓は宮城県多賀城碑、石碑の内容の読み下し文
https://www.city.tagajo.miyagi.jp/bunkazai/shiseki/bunkazai/shitebunkazai/kunishite/documents/tagajouhisyakubun.pdf
・大野東人 - Wikipedia
・藤原鎌足 - Wikipedia
・藤原不比等 - Wikipedia
・藤原朝狩 - Wikipedia
・藤原仲麻呂の乱 - Wikipedia