高知県の一宮神社の鉄剣、そして高知県西部の幡多郡を紹介し、日本の古代史をつないでいく。次の流れで紹介していく。
・七星剣
・高知県の一宮神社の鉄剣
・高知県の土佐一ノ宮、土佐神社
・幡多郡
・波多国造(はたのくにのみやつこ・はたこくぞう)
・秦韓国
・星川皇子の乱
・平田曽我山古墳
・高岡山古墳群
■七星剣
中国の道教思想に基づいて国家の鎮護や破邪の力を込めて北斗七星を刻んだ刀のこと。
七星剣自体は中国に起源があると考えられる。
日本では七星剣は数点見つかっている。
今回は高知県の一宮神社の七星剣を扱う。
↓にて、七星剣を紹介、妙見信仰との関りを示した
■高知県の一宮神社の鉄剣
高知県の一宮神社の七星剣は現在、四万十市郷土博物館(旧:幡多郷土資料館)で展示されている。
形状と材質から5世紀頃に朝鮮半島で作られたものと見られている。
なぜ高知県に七星剣があるのだろうか。
↓は四万十市、七星剣が紹介されているページ
■高知県の土佐一ノ宮、土佐神社
高知県の一宮神社とは土佐一ノ宮、土佐神社のこと。
住所は高知県高知市一宮しなね。
創始は不明だが、5世紀とも言われている。
祭神は
・味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)
・一言主神(ひとことぬしのかみ)
であるという。
土佐神社によれば、祭神が当初は「土左大神」であったが、やがて変化したという。
日本書紀・天武天皇四年(675年)三月に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」
日本書紀・朱鳥元年(686年)の八月に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされているという。
一方、「土佐国風土記」逸文では、
「土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」
とあり、祭神の変化がみられるという。
結果、祭神が一言主尊、味鋤高彦根尊となっており、この二柱の神は古来より賀茂氏により大和の葛城の里における神であるという。
これらは、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地にまつられたとされる。
↓は土佐一ノ宮 土佐神社の御祭神のページ
過去記事にて賀茂氏は騎馬民族、中央アジアから渡来したスキタイを祖とする民族であると考察した。
一言主(ヒトコトヌシ)については別回にて考察していくが、事代主(コトシロヌシ)、一言主(ヒトコトヌシ)はおそらく350年~400年頃の人物だと推測する。
↓はアヂスキタカヒコネについて考察した回
ところで、高知の西部には幡多郡がある。この幡多は秦氏と関係がある。
■幡多郡
高知県の西南部にある地域。
平城宮跡で出土した木簡に「播多郡嶋田里」の文字がみられるという。
国郡里制が施行されていた701年(大宝元年)から715年(霊亀元年)のものであるとされる。
■波多国造(はたのくにのみやつこ・はたこくぞう)
後の令制国の土佐国西部、現在の高知県西部を支配した国造。
先代旧事本紀の国造本紀(823年~936年頃)において、崇神天皇の御世に、天韓襲命(あめのからそのみこと)を神の教えにより国造に定めたという。
この頃の時期において、秦氏は韓国経由で来た神ととらえていたことがわかる。
なお、「国造本紀」には「都佐国造」もみられる。
「都佐国造」は「波多国造」より後の設置であるとされる。
律令制以前の南海道は、伊予から幡多郡を経て都佐国造の地に至り、土佐の中央部より先進地帯であったという。
よって、高知県の中央部より、西部のほうが先に栄えていた。
その理由は、やはり秦氏といわれる渡来民族が国土開発を行ったためだろう。
ここまでで、5世紀頃に朝鮮半島で作成された七星剣が、波多国造(秦国造)や土佐国造に関わる地域に渡る。
やがて土佐神社にまつられるようになる。
そして現在は四万十市郷土博物館(旧:幡多郷土資料館)に保管されている。
以上のような歴史を持つ。
過去記事でもふれているが、秦韓国、星川皇子の乱などを改めて紹介。
■秦韓国
朝鮮の新羅付近に、秦韓国が存在していたことがわかっている。
倭の五王が称号を求めて中国に遣使した際の称号の支配を認める地域の国名のひとつに「秦韓国」がある。
少なくとも413年~513年頃までは存在していた。
秦韓は辰韓とも。
辰韓のうちの一国が斯盧国で、シロ国、のちの新羅である。
↓は秦韓国の実在を倭の五王の称号の記録から証明した回
■星川皇子の乱
七星剣に関連し、星にまつわる星川皇子または星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)の乱が日本書紀に残る。
星川稚宮皇子の生没年は生年不明~479年(雄略天皇23年)とされる人物。
雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子という。
星川稚宮皇子が吉備上道臣一族の支援の元に、天皇亡き後の皇位継承をめぐって起こした政変で、479年に起きたされる。
↓は星川皇子の乱を取り上げた回
河内の平田古墳群・平田曽我山古墳は秦氏と関りがあったと推定されている。
■平田曽我山古墳
高知県西部、平田川左岸の標高約20mの丘陵端に築造された古墳。
所在は高知県宿毛市平田町戸内。
築造は5世紀前半(つまり400年前半)。
出土品は
銅鏡:2面
鉄剣:数点
土師器:多数
現在では墳丘はほぼ失われている。
古墳形式は見解がわかれている。
宿毛(すくも)市の見解では前方後円墳。
墳丘長は110m、または60mとされる。
前方後円墳だとすれば、ヤマト王権に対する服属が、高知県では西部からはじまったことになるとされる。
↓はwikipedia、平田曽我山古墳
なお、平田川対岸には古墳時代前期の高岡山古墳群があるという。
平田曽我山古墳と高岡山古墳群で平田古墳群を構成するという。
平田古墳群としては高岡山1号墳、高岡山2号墳、曽我山古墳の築造順であるという。
続いて、高岡山古墳群についても確認する。
■高岡山古墳群
築造時期は曽我山古墳より早いという。
1号墳:形式は方墳、大きさは18m×19m
2号墳:形式は円墳、大きさは径18m
内部主体は1号墳、2号墳ともに粘土と礫(れき)による礫槨(れっかく)。
出土品は
1号墳:
・筒形銅器:1、全長6cm
・銅舌:1、筒形銅器に伴うもの
・鉄刀:1、長さ30cm
装身具
・勾玉:1
・管玉:13
2号墳:
・内行花文明光鏡(昭明鏡):1
・石釧:1
・勾玉:5
・管玉:14
・小玉:36
が発見されているという。
のちに波多国造や土佐国造が定められるエリアに住んでいた人々と吉備とは関りはあったのだろうか。
また、波多国造や土佐国造は奈良のヤマト王権とどれほどの関りだったのだろうか。
次回、任那と高知、和歌山との関係をつないでいく。
<参考>
・土佐神社 - Wikipedia
・幡多郡 - Wikipedia
・辰韓 - Wikipedia
・高岡山古墳群:
県指定保護有形文化財 ≪美術工芸品 −考古資料−≫ −高知県教育委員会文化財課−
高岡山古墳群出土遺物(宿毛歴史館蔵) | 観光スポット検索 | 高知県観光情報Webサイト「こうち旅ネット」